いつもより早く帰宅したゆうきが華と共に終えた夕食の後。

珈琲に口をつける前にふと途切れてしまった会話に、お風呂の掃除してくるね、と慌てたように席を立った華の姿が見えなくなってから十数分。

そろそろ冷めかけてきた珈琲を喉に流し込み、椅子の背に凭れたゆうきは首の後ろを片手で押さえながら天を仰いだ。

華がまだ戸惑っているらしいことはその様子からも十二分に感じている。
突然変わった関係、それにゆうきが華に向ける思いが強すぎることも原因の一端であろう事も重々承知していた。
本来ならもう少し段階を踏んで辿り付く筈だったと言うのに、幾ら許されたからといって半ば強引に奪ってしまった事は確かだ。

性急過ぎた感は否めない、と自身の行いを振返りながらゆうきは嘆息した。
だが、こればかりはどうする事も出来ない。唯一の解決策は華に慣れてもらうこと――これに尽きる。

本当にどうしようもないな、と一人口元に苦い笑いを象ったゆうきは、けれど微かに聞こえてきた悲鳴に片眉を上げた。
悲鳴の主は、間違い様もなく華だった。ゆうきは椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、悲鳴がしたと思しき場所へ飛び込んだ。

「華、どうし……っ、――華?」

――湯気の満ちたバスルームの中。そこには何故か全身見事なまでに濡れそぼった華が背中を向けて佇んでいた。

「ゆうきちゃん……、お湯、溜めようと思ったんだけど、シャワーのままだったみたい……。」

振り向いた華が眦を下げ、どうしよう、と心底困ったように呟く。
ゆうきは顔の下半分を片手で覆い、俯きながら盛大に笑い出していた。



***




「……あのね……ゆうきちゃん、やっぱり、下に穿くもの……貸して?」

ゆうきから借りた服に着替え終わった華は、扉の影に隠れるようにしてリビングの中を覗き込んだ。
着ている薄いシャツの裾を両手でぎゅうと握って下に引っ張りながら懇願した先には、つい先頃恋人になったばかりの幼馴染が足を組んでソファに座っている。

夕食の後、ふと途切れた会話の後に訪れたのは静寂。華の耳には自分の鼓動がことさら大きく響いて聞こえた。
ゆうきに伝わってしまうのではないかと、掃除を理由にバスルームに引篭もり無心に浴槽を磨き上げていたのは、多分に自分を落ち着かせる事が目的――だったのだが、最後の仕上げで華はとんでもない失敗をしでかしてしまった。
お陰で、元々着ていた服は下着も含め現在乾燥機の中で回転すると言う憂き目にあっている。

「下はサイズが合うものがないんだよな。」

肩を竦めて言うゆうきに、華は益々どうしていいのかわからなくなり、扉の傍から動く事が出来なくなった。
ゆうきから借りたシャツは大腿の中ごろまでの長さしかない。歩く度にひらひらと揺れる薄い布地では足元が心もとなくて仕方が無かった。

「華、そんなところにいないで、おいで?」

にっこりと笑顔でゆうきに呼ばれ、激しく迷う。
折角ゆうきと一緒にいられる時間なのだから出来るだけ傍に居たい。だというのに、傍に居て、触れられる事でどうしてもぎこちなくなる自分がいる。
キス一つでさえ緊張するのだ。

最初の時は、嬉しくて。二度目は不安で。三度目は――まだ。

幾度か機会があったにも関わらず、ゆうきは華に無理強いはしなかった。
待ってくれているのだと思う、気持が追いつくまで。

――でも気持なんて、もうずっと、とっくに決まってる、のに。

無我夢中であまり覚えていないのは確かだけれど、ゆうきに求められたことが華にとって幸せだったという事実は間違いようが無い。

裾が捲れないように気をつけながら、意を決して華はそろりと歩き出した。



***




「華、そっちじゃなくて――おいで?」

戸惑った様子で隣に座ろうとした華を制し、ゆうきは自らの膝の上を指し示した。

「――え、あの……そ、そっち……?」

目を見開いた華が、口元に手の甲をあて固まる。
半分以上の揶揄いを含んだ問いかけは華の笑いを誘う為だったわけだが、どうやら真剣に受取られてしまったらしい。

口篭って俯いてしまった華に、ゆうきは自らの迂闊さを苦笑った。
傍にいれば、つい触れたくなる。その度に華の瞳が戸惑いを滲ませることをわかっているというのに。

盛りのついた餓鬼か俺はと自嘲気味に思いながら、ゆうきが「ごめん冗談だよ」と言いかける。
が、それよりも先にソファが軋んだ。

膝の上に感じる温かさ。肩口に控えめに乗せられた指。

「……重く、ない?」
「――全然。」

重みより何より、華の行動に驚き入っているゆうきは瞬きさえせず華を凝視していた。
華の赤み掛かっていた頬が益々その色を強くする。濡れた瞳に、あまつさえ困ったように首を傾げられ、つい細い腰に手を伸ばしかける。
けれど視線に耐えかねたらしい華が朱色に頬を染めて身じろぎし、その手は行き場を失った。

「あの……やっぱり、おりるね? なんだかちっちゃい子みたい。」

はにかみながら床に足を下ろそうとしていた華の二の腕を、ゆうきが咄嗟に掴む。

「――駄目。」

まだ湿り気を帯びた髪の間から覗く耳へ、吐息のかかる程の距離で囁いた。

「ゆう、ん……んんっ。」

華の後頭部に手をまわし、自分の元へ引き寄せ口付ける。あえぐような吐息を華が漏らす。
そっと顔を離すと、薄く開かれた唇はゆうきが食んだことにより赤く濡れていた。

反った喉元。上下する胸。華の首元へ顔を埋め、ゆうきは白いシャツの裾から覗く大腿に掌を乗せた。

華の緊張が、触れた肌から伝わってくる。まだ片手で事足りる程度の情交。
行為を強いる事になりはしないかと、ゆうきは慎重に華の様子をさぐる。

ゆるりと持ち上げられた睫の奥に見えるのは常よりも艶を帯びた瞳。それは動きを止めたゆうきを不思議そうに見返していた。

「ゆうきちゃん?」
「華を抱きたい。」
「え?」
「抱いてもいい?」

膝の上に乗ったまま絶句している華の腰を片手で抑えながら、常とは異なる目線の高さでゆうきは華を求める。
音の無い部屋の中、困惑したように何度か瞬きした後、華が不意に小さく笑った。

「華?」
「ごめんね。ただ、もしかしてそういうのって一番最初の時に訊いてもらえるものだったのかなぁ、て。」

片眉を器用に上げて訝しく尋ねたゆうきに、まだ笑ったままの華が少し困ったように答える。

「……なるほど、確かに。」

気持を伝えた後、受け入れてもらえた事に調子付いて、なし崩し的にもつれ込んだ自覚がたっぷりある身のゆうきとしては反論できるはずも無く、苦笑いするしかなかった。

「それで俺にそう訊かれていたとして、華はなんて答えた?」
「え……、それはその……もう、ゆうきちゃん、意地悪。」

にやりと笑いながらゆうきが言うと、拗ねたような照れたような表情をした華に髪を軽く引っ張られた。
仕返しとばかりに、華の唇に口付ける。耳の下辺りをゆるく撫でると、華の唇が薄く開いた。

何度も重ねるキスの合間に、華が先ほどよりも甘い吐息を漏らす。
反った背中に手を添えて、ゆうきがもう片方の手をシャツの裾にかけたのだが、華が身を強張らせることはなかった。

このまま続けてしまっても拒まれる事は無いだろうと、口付けの角度を徐々に深く、本格的に仕掛けていく――が。

「ふ……ゆう……きちゃ……、あの、待って――何か鳴ってるみた……あっ、」

ふと気付いたように華が小さく言い出し、次いではっと我に返ったような仕草でゆうきは押し返された。

「音?」と呟きゆうきが耳を澄ませると、開けっ放しのドアから確かに微かな電子音が流れてきている。

乾燥機が、実に無慈悲な音を立てていた。

「……乾、燥……終わったみたい、だね。……あの、ゆうきちゃん、ええと、ね、服、取ってきてもいい?」
「――もしかしてお預けとか言う?」
「そのままにしておくと皺になっちゃう。」

やや半眼気味に問うたゆうきへ、「駄目?」と華が小首を傾げる。

「――行っておいで。」

結局の所、ごり押しできなかったゆうきが苦笑いで離した手の中から、華がするりと抜け出す。
裸足の足が床につくやいなや、大きすぎるシャツに包まれた背中は瞬く間にリビングから姿を消してしまった。

まさか乾燥機に邪魔されるとは思わなかったが、しっかり者へと育ったお隣の小さな女の子はこんな時でもやっぱり変わらないらしい、と考えるとなんだか可笑しかった。
けれど突然闖入してきた音で我に返った華がかなり恥ずかしがっていた事はゆうきでなくとも想像に難く無く、なんとなれば、シャツから覗く肌は一目でわかるほどに朱に染まっていた。

――となると、服は半分以上口実、かな。

「残念、逃げられた。」

消えた体温を惜しみながら勢い良くソファに背を預け、天を仰いでゆうきは嘆息した。



***




どくどくと鳴る自分の鼓動が耳に痛いほどだった。
頬を押さえてバスルームの床に座り込んだ華は、目が眩みそうな羞恥にどうしていいのか困惑の極みに達していた。

決したはずの意志が、男の顔になったゆうきを前にがらりと崩れた。
求められるのは嬉しくて仕方が無いのに、どうしてか逃げ出してしまったのは――まだ夢を見ているような気がしているから、かもしれない。

「――私、なにかおかしくなかったかな……。」

立ち上がり洗面台の鏡を覗き込む。熱を持った頬、それに目元が赤い。蛇口を捻り、手を冷水に浸す。
冷えた掌を顔に当てると心地よかった。

こつりと鏡に額を預け、溜息をひとつ。

小さな頃は一緒に眠る事もあったし、あまつさえ着替えを手伝ってもらった事も一度や二度では無い。
けれど、今ではそれらが自然に出来ていた事が寧ろ信じられない程だ。

「……あ……服。」

背後に映り込むドラム式乾燥機に視線を転じ、目を伏せる。

――どうしよう。

やや迷った後、華は踵を返しその中から乾燥した服を取り出した。



***




やけに遅いな、とチェストの上に置かれた時計をゆうきが確認した所で、扉にはめ込まれたガラス越しに華の姿が見えた。
声を掛けようとしたが、その間におずおずと扉が開いた。

何処と無く所在投げに立ち尽くしている華は、乾いたはずの服を抱きしめるように両手で抱えている。

「華?」

立ち上がって傍に近づこうとしたゆうきに、俯き加減に華が歩み寄ってきた。
袖口をきゅっとつかまれ、見下ろすと髪の間から覗く項が仄かな赤に染まっている。

「あの……あのね、やだ、とかそういうことじゃ……ない、の。」

小さく消え入るような声で華が呟く。
なるほど戻ってくるまで時間が掛かっていたのは様様に葛藤していたからに違いない、とゆうきはそっと華の頬を指先で撫でた。

愛しくてたまらなくなる。

「知ってる。わざわざ嫌ってる男のところに通っては来ないだろ。」

ぱっと顔をあげた華がゆうきに抱きつく。華の持っていた服が、二人の足元にぱさりと落ちた。

「――ゆうきちゃん、大好き。」
「知ってる――ていうのは、半分強がり。華にちゃんと男として見られているか、不安――だな、実は。」

思わず真情を吐露したゆうきに、華が実に意外そうに瞬きした。余りにも凝視され、ゆうきが肩を竦める。

「信じられない?」
「あ、ううん、そうじゃなくて……凄く、嬉しい。ちゃんと女の子として見てもらえてるんだなって思って。」
「――俺は多分、華が思っているよりも出来た人間じゃ全然ない。今も華の事押し倒したいって思ってるし。」

最後は自嘲をこめたゆうきの言葉。唇を噛みしめた華が、僅かの後、そっと口を開いた。

「いや、なわけじゃないの。ただ少し恥ずかしいっていうか……その、だから、ね……あの……押し、倒してくれても……大丈、夫……。」

躊躇いがちにたどたどしく。俯きながら消え入りそうな声で。
それは、一応の理性をなくしてしまうには充分過ぎた。

「――いいんだ? 押し倒しても。」
「……う、ん。」

か細い声と一緒に華が頷いた。
口角を僅かに上げたゆうきが、華を軽々と抱き上げる。

「……っ、ゆうきちゃん?」
「裾、押さえとかないとめくれるぞ?」

大股に歩き出したゆうきの忠告に、華が慌てながら捲れかけていたシャツを押さえる。

「もう物分りの良い振りはやめた。遠慮なく押し倒す。」
「え、あの、でも……少しは手加減してくれると、嬉しい、です。」
「却下。」

にこやかに告げたゆうきに、華が目を瞠る。
辿りついた寝室でゆうきが華をベッドの上に降す。制止の声にも躊躇せず華を組み敷いた。

素肌に直に着ていたシンプルなスウェットを脱ぎ捨て、ゆうきは華の着ているシャツのボタンを上からゆっくりと外していく。
顕になる肌に華が身じろいだが、全てを肌蹴てしまうまで手を止める事は無かった。

「本気で嫌だと思ったら引っ叩いていいから。」

見下ろしながらのゆうきの言葉に、華が目を瞑りながらふるふると頭を左右に振る。まだシャツの引っかかっている華の腕が伸ばされ、ゆうきの首に回された。
引き寄せられたゆうきが、華の上に覆いかぶさるように倒れこむ。

「ゆうきちゃんにならね、何をされても嫌じゃないよ?」
「華は俺を甘やかすよなぁ。」
「……ゆうきちゃんの方が、私を甘やかしてる。」

視界のぼやける距離で額をあわせながら、睦言を囁きあう。

「ゆうきちゃんが大好き。」
「――知ってる。」
「本当に本当よ?」

懸命に言い募る可愛らしい恋人に、ゆうきは優しく笑いかけた。
華が頬を染めながら口を噤み、絡まる視線に自然と唇が重なる。


――三度目の夜。
それは、恋人としての関係を築き始めた二人にとって密やかで濃密な時間だった。



〜Fin〜



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