黒ゴムでひっつめただけの黒髪。校則に一ミリ足りと違反していないスカート丈。
化粧なんてしたこともなく、顔の三分の一を覆うのはきっちり切りそろえた前髪。
さらにもう三分の一を占めているのは黒ぶちの野暮ったい眼鏡。

明らかに華やかなりし女子高生というイメージからは遠くかけ離れた姿。
周囲からしっかり浮きまくっていることは百も承知している。

けれど、それが―――私、篠木ユズなのだから仕方が無い。

そう、篠木ユズ…なのだ。
真面目、優等生、目立たない、地味…その手の形容詞が嫌というほど相応しい女子高生。

だからきっと今聞こえた台詞は、私の激しい空耳に違い無いと思う。
あんな台詞を言われるなんて、私の人生において今までも、そしてこれから先も、あってはならない事態以外のなにものでもない。

「―――篠木、なぁ…俺の言ったこと、聞いてた?」

「ごめんなさい、何か言った?」

「………あのなぁ。ちゃんと聞いてろよ。けっこー勇気いったんだからなー。」

即答した私に対して、薄汚れた天板とパイプ状の足を持つ机の上に坐っている男が困ったように頭を抱える。
どうでも良いけれど、私の机の上に坐るのは出来れば止めて欲しい。
一度瞬きをして、窓から望める校庭へと視線を流す。

教室の一番後ろ。窓側の、所謂「特等席」に居ると言うのに、私の居心地は今、最高潮に悪い。

開け放たれた窓から流れる朝の風はとても心地よく、いつもは私の眠気を払ってくれる最良の妙薬だというのに。
この高校に入って一月半、まだ誰もいない教室で一人過ごすのは欠かせない日課になりつつあったというのに。

「だからさー、好きだっつったの。付き合ってよ。」

―――今朝は本当に最悪だ。


「加地君――――、一体何の罰ゲームなの?」

「……は?」

渋々と、私は机の上に坐っている男をもう一度見上げた。

「コミュニケーション能力抜群、頭脳・容姿、松レベル。この学校内での貴方の評価よ、加地君。」

「松レベルって…ああ、松竹梅? へー俺ってば特上じゃん。」

「それに付け加えて、私は貴方に好かれるようなことをした心当たりがまったく無いし、そもそも貴方、年上趣味なんでしょう?」

私が並べた彼に関しての知識。それらを合わせた帰結として、どこをどうとっても今の加地君の台詞が本気だなんて思えないのは、私ならずとも…ではないだろうか。

「あー? 年上? 俺が? 何でよ?」

「須川さんがその理由で断られたって、自分で吹聴しているもの。」

ついこの間、加地君に振られたと大泣きしていた隣のクラスの女の子。

ふわふわの砂糖菓子のように可愛らしいと評判の彼女が、今私にふざけた事を抜かしたこの男に振られたという噂は風よりも早く辺り一帯に吹き抜け、結果、別段聞きたいと思っていない私の耳にすら届いていた。

「一香のやろ。なんつーハライセだよ。」

「女の子に対してそんなこと言うものじゃないわ。第一、本当のことなんでしょう?」

「嘘だっての。……俺、別に年上趣味ってわけじゃねーよ。好きになりゃ、年上だろうと年下だろうと関係ねーし。」

「じゃあ、どうして振ったりしたの。須川さん可愛いじゃないの。」

「篠木が好きだからっしょ。」

よくもそうさらりと平気で嘘をつけるものだ。
けれどあまりに耳慣れない言葉に―――少し動揺している自分に気づく。

「何、言ってるの……。」

「だって篠木、可愛いじゃん。ほら。」

僅かとはいえ動揺していしまい、あまつさえ、どうやらそれを彼に悟られてしまったのは失敗だった。
調子付いた加地君が私のかけていた眼鏡を奪い、視界から明瞭な輪郭が消え去る。

拡散した光は焦点を結ばずに、四方に飛び散って見えた。

「加地君―――、眼科に言った方がいいんじゃない。それより、眼鏡を返してくれる?」

「んー、やだ。」

のらりくらりと私の言葉をかわしている加地君が、私の眼鏡を自分で掛けてしまったのは、ぼやけた視界の中でもわかった。

「……そろそろクラスの子が登校してくる時間よ。見られてもいいの?」

「だから、本気だって言ってるじゃんよ。疑りぶけーの。」

「ふざけないで。貴方にからかわれたい子ならその辺りに幾らでもいるでしょう。私は止めて。」

「あーじゃあさ、ちょっとの間、目、瞑ってよ。そしたら返すし、これ。」

「気心の知れない相手の前でそんな真似をするほど迂闊に見える?」

馬鹿じゃないの。出そうになる言葉を飲み込み、かわりに私は溜息を落とす。
いい加減、この馬鹿馬鹿しい遣り取りを切り上げたい。

「やっぱ駄目か。んじゃ返すから、手、出してよ。」

ちっと冗談じみた舌打ちをして、加地君が掛けていた眼鏡を漸く外した。
言われるまま仕方なく伸ばした手に黒いフレームが触れる。

けれど受け取ろうとしたところで、それはわざとらしく引かれ再び私の手から遠のいた。

―――加地君、いい加減に……。

言い掛けたそれが、何かに塞がれる。

くぐもった声は私の中に逆流して、喉を鳴らす。

伸ばした腕は思い切り斜め上に引かれて、腰は椅子から浮いていた。


何、これ。私は今……何をされている?

私の唇に触れている柔らかく、温かなこれは。

私以外の誰かの体温。

この教室の中に居たのは、私と加地君だけで。
私以外の体温を持っている人は、加地君ということになる。

ぼやけた視界は、何かで埋まって。意味をなさない色の氾濫に戸惑う。


かしゃり。

どこか遠くでシャッターを切る音。けれど本物ではない作り物の音。
拘束されていた唇と腕がゆるりと自由になる。

はあ、と思い切り口で息を吸い、解放された腕で唇を拭いながら、私は音のした方角を眼で辿った。

ぼやけた輪郭をはっきりさせようと、目元に力を込めて細めてみる。
そしてどうにか焦点を結んだ私の眼に映ったのは。

教室の扉。開かれた扉の傍には―――男子生徒。
手に握られているのは、携帯電話。

さっきのシャッター音は、恐らくその携帯に付いているであろうカメラを使ったからだ。
写真を、撮られたらしい。今の加地君と私を―――多分キスシーンといわれるものを。

撮影者の彼は、同じクラスではないけれど確か加地君の友達だった気がする。
よく加地君が中心になっている輪の中にいたし、一緒にこの教室内で話しているところも見かけているから、多分間違いない。
あまり口数は多くなく、といって、暗いわけでもなく、どことなく頼りがいのありそうな存在感があって印象に残るタイプだなと思ったのを覚えている。

その彼が、ここに居て。
恐らく今までの経緯も全て見ていたのだろう、ということは―――。

「やっぱりそういうこと。罰を受けたっていう証拠が必要だった?」

「だーかーら、ちがうっつーの。さっきも言ってたけど、そもそも何、罰ゲームって。―――あ、佐藤、さんきゅ。後で何か奢るわ。」

思い切り皮肉めいた口調で問うた私のことなどまるで気にしていないかの様に軽く答えて、加地君は傍に来た友達――佐藤君というらしい――から携帯電話を受け取ると、画面を見て、良く撮れてるじゃん、と唇の端を上げて笑みを模る。
厚顔無恥とは加地君の為にある言葉に違いない。

「加地……程ほどにな。」

「わかってるって。ほれ、篠木、眼鏡。」

佐藤君の諫言めいたそれに、私に対してとは少し違う……苦笑い、という反応を加地君がする。
私は差し出された眼鏡を慎重に受け取り、馴染んだ視界を再び手に入れた。
薄いガラス越しの世界は何故かとても安心する。

そして、クリアになった景色の中で、佐藤君が私を見下ろしていることに気づいた。

「あー……、篠木さん、ご愁傷様です。」

「は?」

かけられたのは慰めの言葉か否か。
意味深長ともいえるそれを簡単には図りかね、眉宇を顰める私の肩に、佐藤君はそっと手を置いた。

「……色々と頑張ってください。」

色々と頑張れ? 私に何を頑張れというの、この状況で。

けれど明らかに同情の篭った眼差しを向けられてしまえば、尋ねることも出来ない雰囲気になる。
そうこうしている内に加地君が「んじゃーな、佐藤。」と手を振ると、佐藤君は少し猫背気味に背中を丸めて、ぺたぺたと上履きの音をさせながら歩き去ってしまった。

「はいはいはーい。そこ、いつまでも俺以外の男の背中なんて眺めてんな。」

佐藤君の消えたドアを見つめる私の眼前に手のひらが翳され、視界が塞がれる。
同時に先程佐藤君が手を置いた私の肩に加地君が手を乗せ「勝手にさわんなっつーの。」と、低く呟きながら何かを払うような仕草をした。

本当に一体彼は何をしたいのだろう。

「私が誰を見ようと勝手……」

「強気ー。でも、こればら撒いて欲しくないっしょ?」

加地君が手にした携帯の画面に映し出されているのは、先程の私と加地君。
腕をつかまれた私が上へ引き上げられ、加地君の唇と私の唇が確かに触れている。

罰ゲームではない、と言っていた。
では彼は何をしたくてこんなことをしているのか。
しばらく考えてみるものの、まったく理由が判らない。

「―――そんなものをばら撒けば、加地君が恥をかくだけでしょう。」

「ん? 俺? そりゃ多分大丈夫。篠木に迫られたってことにしとくから。」

ああ、つまり―――私の弱みを握りたいということなのだろうか。
告白してきたのも、その為の手段だったということ?

―――何の為に?

もしかして、私に学校の課題でもやらせる腹積もりだとでも?
けれど癪ではあるが、あいにくほんの少しとはいえ、成績は彼の方が上だ。

「……なんかさ、篠木……マジでわかってない?」

「私の弱みを握る手段として付き合おうとしていたってことを? それを断ったから写真、撮ったんでしょう。」

「だー、もうっ。マジかよ……。だーかーらー違うっつの。確かに後半は当ってっけどさぁ。」

加地君が、がしがしと頭をかきだしたと思ったら、突然動きを止めて下を向き、大仰に溜息をつく。

後半は当っているけれど…それの意味するところは、前半部分の推測は間違っているということ。
”私の弱みを握る為に付き合う”は、どうやら間違っているらしい。

「付き合いたいってのは、手段じゃなく目的。好きだっつたのは本気だよ。どういうことか、わかんだろーよ。」

「―――わからない。」

彼は何を言いたのだろうか。
わかるような、でもやっぱりわからないような。

「だーっ、ここまで俺にいわせといてお前って奴はなー……って、おい……聞いてっか?」

「―――キス……。」

目線を落とした私が見ていたのは、加地君の降ろされた腕に握られた携帯電話。
上を向いている液晶画面一杯に映し出された画像。

改めて、気づいた。違う、多分今認識した。
私は彼と、キスを……した。

まるで他人事のように感じていたそれは、突然、現実感を持って私の中に入り込んできた。

「あ? 何?」

「初めてだったんだけど。」

「そりゃ、ごっそーさん。大変美味しくいただきました。」

顔色一つ変えず、加地君は私に手を合わせ頭を下げる。

普通、ここではもう少し驚いて見せるものではないのだろうか。
私が初めてだというのは加地君にとってどうでもいいことなのだろうか。

やっぱり彼のことを信じるというのは、難しい。
申し訳ないが、加地君が私を好きだなんて―――たちの悪い冗談以外には到底聞こえない。

「加地君、もし本気だって言うのなら女の趣味が悪すぎる。」

「自分じゃすげ―いいつもり。で、とりあえず篠木にほぼ選択権はないわけだけど、一応どーすんの?」

―――俺と付き合うか、学校中にメールでこれをばら撒かれるか。

二者択一を迫られる。
これでばら撒かれる方を私が選んだら、彼はどんな反応をするのだろうか。

別段、私はどちらでも構わないと思っている。

人の噂も七十五日。
私が下手に行動を起こさなければ、どの道そんなものは風化してしまうからだ。
加地君とて、自分に不利となる人物……教師や親にまで送るほど馬鹿ではないだろう。

「どーするんだよ?」

返事を寄越せと催促され、私は溜息を落とした。
加地君がむっとした様に片眉を上げる。

「溜息とか無しだろ? 傷つくっつーの。じゃー、決定でいいよな。今日から篠木は俺の彼女。」

「とりあえずお友達からじゃ駄目なの?」

「駄目っしょ。友達じゃキスとかそれ以上とか出来ないじゃん。」

「――――それ以上なんて、させるつもりはまったく無いんだけど?」

不満げな加地君の視線を無視して、私は校庭を眺めた。
そこには同じ制服を着てはいても、色とりどりの―――鞄や靴、時には髪を染めてささやかな自己主張をしている同級生や上級生の姿。


廊下からも、話し声と足音が聞こえてくる。
やっと皆が登校してきたらしい。

一日の始まる気配が校舎に溢れる。

彼が本心では何を思っているのかは良くわからない。
けれど彼の言うところによると私に選択肢は無いらしい。

なら、受けてたつのもおもしろいかもしれない。
高校生活一月半にして、実は既に退屈していた。

中学の時と何一つかわり映えしない、日常。
少なくとも加地君と居れば、退屈はしないだろう。

賭け事は嫌い。
なのに今までの人生で最大の賭けを私はしようとしている。
なんだか妙に可笑しい。

――――でもきっと伸ろうが反ろうが、彼のこの様子では私の日常が騒々しくなるのは時間の問題だと思う。

だったら加地君が音を上げるまで付き合ってみるのもまた一興というものだ。

「いいよ。彼女でも。」

「……マジ?」

「加地君が言い出したんでしょう? それとも止める?」

「止めるわけねーだろ。近年稀ってくらいの勢いで本気だから、俺。」

「じゃあ、よろしく。」

「や、こっちこそよろしく。ふ、なんか、すっげ嬉しい。」

嬉しそうな―――本当に嬉しいんじゃないのかと私が錯覚してしまうくらいの加地君の笑顔。


「あれー、加地、早いじゃん。え、何? お前、篠木と何やってんの?」


教室に入ってきた同じクラスの津路君が、私と加地君を交互に見比べながら不審そうに問い掛けてくる。
確かに私と加地君の取り合わせは奇妙以外のなにものでもないだろうから、これはごく普通の反応といえる……と思う。

「おーす。津路ー、俺さー、今日から篠木と付き合うことになった。そーいうことでよろしくな?」

加地君の、いわば衝撃的な問題発言の一呼吸後。

「はぁ!?」

どさりと音を立て、草臥れた布製の鞄が津路君の肩から教室の床へと落下した。


――――――ラウンド・ワン、スタート。



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