加地君に付き合おうと言われたのは三日前の朝。
そして現在、三日後の放課後。

驚いたことに私と加地君の付き合いはまだ続いている。


「ねえ、ちょっと篠木さん。貴方、加地君に何をしたのよ。」

ここ数日間で、もう何度問われたかわからない言葉。
あかい陽の差し込む夕暮れの教室、自分の席に座る私に声をかけてきたのは見知らぬ女生徒だった。

リボンの色は赤。どうやら同級生らしいが名前も顔も知らない。

読んでいた本の間に栞を挟み大分年季の入った机の上に置く。
置いた本の上に、見知らぬ彼女が手を乗せてきたと思ったら、何をしたのと再び詰め寄られた。

クラスメイトを筆頭に、他所のクラスの女の子たち。果ては上級生にまで。
どうも皆、私が加地君の弱みを握ったとでも思っているらしい。

実際はまったく逆なのだけれど。

――この彼女で何人目だろう。

溜息混じりに目を閉じる。

五本の指で足りないことだけは確かだが、もちろんそんな馬鹿馬鹿しいことを正確に数えているわけも無く、私はまた何度目かになる返事を同じように繰り返すことにした。

「――さあ。それは私よりも加地君に聞いてもらった方が良いと思うけど?」

そっけなく聞こえるだろうとは思う。
これが彼女たちの神経を逆なでしていることもわかっている。

それでも私が同じ返事をする理由。

簡単なことだ。
彼女たちは、たとえ私が何を言ったとしても納得などしてくれないし、反感を持たないわけが無いから。

言い訳がましく言葉を連ねるのは、まさに愚の骨頂。

「ちょっと、何よその言い方……っ」

案の定激昂した彼女が眦を吊り上げて、私に手を伸ばしてくる。
けれど彼女の手が届くより前に、教室の入口から私を呼ぶ暢気な声が上がった。

「篠木、お待ちどーさん。かえろーぜー。」

――元凶。

脳裏にその言葉が浮かぶ。
振り向いた先にいたのは、委員会から戻ってきた加地君。

「……っ、あ、加地……君。」

「ん? あー…と、ごめん。誰だっけ?」

今にも掴みかからんばかりだった勢いの彼女。
けれど加地君のそのたった一言に、かっと頬を赤く染めると、力なく腕を降ろしてしまった。

そして、きつい一瞥を私に。

この場合、私を睨むのは若干お門違いではないだろうかとは思うものの、甘んじて投げられた視線を受ける。
彼女がさっと目を逸らし、俯きがちに教室の中から走り去ってしまうまで。

静かな教室の中、廊下を駆けて行く彼女の足音だけが段々と小さくなっていく。
完全にそれが消え去る頃、他の男子生徒より少し低めな加地君の声が静けさを破った。

「わり、待っただろ。んじゃ、かえろーぜ。」

最前列、教卓の前。一般的に最悪と言われる場所に自分の席を持つ加地君は、机の上に投げ出してあった鞄を掴み上げると、並んだ机の間をすり抜けて私の元へやってくる。

歩くたびに、踵を踏み潰された上履きが出す独特な音。
机の上に置いたままだった本を私が鞄の中に収め終わる頃、加地君は既に真正面にいた。

帰り支度を整え終り席を立とうとすると、目が合った。

私よりかなり高い目線を持っている彼。
しかも私はまだ座ったままなので、必然的に見下ろされる格好となってしまう。

「なーんかさ、篠木、言いたいことあんだろ?」

「……別に。ただ、さっきの言い方はあんまりじゃないかとは思うけれど。本当は知ってたんでしょう、彼女のこと。」

半分以上、当て推量だった。
けれどコミュニケーション能力抜群の彼が、同学年の女の子をまったく知らないとは到底思えない。

「なんでそー思うわけ?」

何故? 明確な解答は無いけれど。

「貴方が松レベルだから。」

加地君が声を立てて笑い出した。

「なーんだよ、それ。篠木ってホント、面白れーよな。」

面白い? 私が?
そんなことをいう人は多分彼がはじめて。

けれど、私に付き合おうなんてことを言ってのけた加地君なら、今更何を言っても不思議ではない気がしてしまう。

それが今、私が加地君に対して持っている認識。
はっきり言ってしまうと――つまり、加地君はおかしな人だ。


「篠木、ほら。」

「……何の真似?」

何の脈絡も無く目の前に差し出された手に、思わず眉宇をひそめる。
一体私に何をしろと?

「だーかーら、手を出せってーの。まず手をつなぐ、それからだよな、色々とステップアップすんのは。」

ステップアップ……?
その内容にかなり疑問を感じるが、あまり訊きたいと思える類のものではないだろうことだけは確かだ。

「遠慮しておく。」

「ち、やっぱガード固いな。キスまでした仲だろ? 今更手を繋ぐ位いいじゃんかよ。」

さらりと簡単に言ってのけてくれるが、それは私と加地君を一歩近づける行為になる。
そもそも余り人に触れることも触れられることも得意ではない私にとって、気分のいいものじゃない。

「まー、いっか。今回は待っててもらったしな。妥協しとくわ。」

若干拗ねたような顔で、けれどあっさり加地君が手を引く。

加地君の引き際は意外なことにとても良い、と思う。

この三日間で、私が嫌だと断ることを強要してきたことはない。
強いて言えば、付き合いを始める前のあの時――告白らしきものを受けた時だけは違ったが。


「結構遅くなったよなー。でさ、篠木ん宅ってどこ?」

人気の無い廊下。
日が落ちかけている為、窓から差し込む陽光が大分弱まっている中を歩きながら、加地君が突然そんなことを言い出した。

何気ない会話の流れの最後。
付け足しという感じにさりげなく。

「どうして?」

「あぶねーから送ってくし。」

「気にしないで。今日も駅まででいい。別に危なくないから。」

そもそも私に対してその手の配慮は不要以外の何ものでもない。
別段危ないことなんてあるはずもないのだから。

「なんでだよ、そんなのわかんねーじゃんよ。」

「わかる。加地君みたいな人は普通滅多にいない。」

―――私に対して興味を持つ人なんて。

「いい加減、篠木のそれも頑固だよな。」

「それって?」

「……なんでもねー。それより篠木さ、なんかあったら絶対俺に言えよな。」

「何かって?」

「なんか、だよ。なんでも全部。靴隠されたり水掛けられたり、服破られたりとか。」

ああ、そういうこと。
でもその心配している内容が可笑しくて、半分ほどは呆れてしまう。

「まるで一昔前のドラマみたい。生憎と私はそんな独創性の欠片も無い嫌がらせにはあっていないから。」

「ほんとーだろうな?」

「本当。」

やけに具体的な加地君の心配。
もしかして加地君が昔付き合った彼女たちが受けてきた嫌がらせの数々なんだろうか。

けれど今回加地君と付き合っているのは私だということを加地君は忘れている。
今までの彼女たちのように、そこまでする必要はないと誰もが思っているのだろう。

それに、加地君は知っているのかどうかわからないけれど。

実は、私と加地君が何日で別れるか賭けの対象になっているらしい。
今のところ有力なのは一週間だとか。

親切な上級生のお姉さまがつい昨日、懇切丁寧に教えてくださったばかりだ。

退屈な学校生活に、一抹の娯楽。
それはそれで良い。別段、青筋を立てて怒るようなことでもない。

大体に置いて、私と加地君の付き合い自体がなんとも馬鹿げたはじまりなのだし。

ああ、そういえば。

そこでふと気づく。
結局、加地君はさっきの彼女を知っていたのだろうかと。

どうやら上手く話をはぐらかされてしまったらしい。
でも今更蒸し返すのも面倒で、結局私は加地君と人気の無い廊下を進んでいく。

「篠木。」

階段を下りようとした所で加地君に急に腕を掴まれ引き止められた。
その上何故か凝視される、とても真剣に。

何だろう。

こんな風に急に黙り込まれると対処の仕方がわからなくなってしまう。
それに加地君が黙ってしまうと、曲がりなりにも成立していた会話といわれるものが私たちの間に一切無くなる。

遠くから聞こえて来るのは、校庭で練習をしているはずのサッカー部か野球部の掛け声だろうか。

じりじりと、加地君の熱が腕を伝って私に流れ込んでくる。

「――や、いい。やっぱ、なんでもねーよ。」

解放された腕から、力が抜け落ちた。

一体、何だというのだろう。
突然距離を縮めようとしてきたり、突き放したり。

階段を降りていく加地君の背中。
段々と下がっていく私の視界。

ゆっくりと階段を一歩、おりる。でも加地君の隣には並ばない。
下りの階段。この時ばかりは後ろから加地君を見下ろせるから。

「加地君。」

「んあ? 何?」

加地君が振り返る。不思議そうに。
だらしなく開いたシャツの胸元。入学からそんなに経っていないっていうのにもう草臥れてきている上履き。
同じようにくたくたの鞄。

何もかもが私と違う人。

「なんでもない。」

さっきの仕返しの意味を込めて告げ、少しだけ早足に加地君の横を通り過ぎる。
後ろからなんだよという声が聞こえたが振り返らなかった。

おかしい。今までの私ならこんな真似はしないはず。
誰に何を言われても仕返しをしようなんて思わなかったはず。


私は、加地君に振り回されているのだろうか。

否――そんなことはない。
私は私。加地君のペースに乱されるわけが無い。

なのに加地君といる時、私はちゃんと私らしいか不安になるのはどうしてだろう。
加地君と付き合うことに同意してしまったのは、やっぱり間違いだったのかもしれない。

……そういえば、明日は土曜日。
土曜、日曜と加地君に会う必要がないのだと思うと、何故か安堵する自分がいる。


その日、何となく澱のように胸へと溜まった不安感は、加地君と駅で別れた後もとうとう消えることは無かった。






そして土、日曜日が何事も無く過ぎ去った後の月曜日。
加地君と私が別れるだろうと大方の人に予想されている七日目の前日。

放課後になっても、私と加地君はまだ一緒にいる。


「加地君……ちょっと尋ねたいんだけれど。」

「おー、珍しー。篠木から質問かよ。 何でも訊いてくれてオッケー。」

私の前の席の椅子に逆向きに座るという行儀の悪さを披露している加地君は、何が楽しいのか始終笑んでいた。
それに比べて私は、笑顔なんてものとはとても縁遠い気分だ。

「そう、ならどうして私が加地君と一緒にプリントのホッチキス止めをしないといけないのか教えてもらえる?」

「そんなの決まってるっしょ。俺が偶々職員室に行ったら保(ぼ)っちゃんにつかまったから。」

さも当然と言わんばかりの加地君の言いっぷりに溜息が漏れた。

保っちゃん、とはうちのクラスの担任である久保田先生のこと。
育ちの良さそうなお坊ちゃん風味の外見と性格、そして名前にかけてそう呼ばれているらしい。

その先生から加地君が言い渡されたのが、明日の授業で使う資料のホッチキス止め。
帰りのホームルーム前に大量のプリントを抱えて戻ってきた加地君は、「要領わりぃなー」なんて皆から冷やかされながらも手伝おうかという申し出を何名かのクラスメイトから受けていたはずだ。

それなのに何故私に白羽の矢を。

ぱちんぱちんと音をさせながら針を紙に打ち込んでいく。
手を止めること無く教卓の後ろ、天井近くに掛かっている時計で時刻を確認すれば、そろそろ六時になろうとしていた。

プリントはあと少し。多分六時少し過ぎには。

「……っ!」

鋭い痛み。次いで指先が熱くなった。

「篠木? うわ、馬鹿お前何やってんの!」

余所見をしたのがいけなかったらしい。

針が突き刺さった指先から血が滲んでいた。
幸いそんなに深くは刺さらなかったようだが、加地君が慌てたように私の指をつかみあげ傷口を押さえる。

指先が、熱い。でもこの熱はきっと怪我の所為だ。

「絆創膏とかもってねーぞ、俺。篠木は?」

「多分、鞄の中にあると思う。」

苦労しながら片手で鞄の中を探り、ポーチのファスナーを開いた。
内ポケットから薄い紙の包みをつかみだし机の上に置くと、加地君がそれを取り上げてあっという間に私の指に巻いてしまう。

「んとに、篠木ってば意外と抜けてんだよな。」

なんてことを言われても、醜態をさらした後では反論できない。
その上、プリントを手に再び作業を開始しようとすると、加地君に黙って取り上げられてしまった。

「手持ち無沙汰なんだけど。」

ぱちんぱちんと音をさせてプリントの束を減らしていく加地君に訴えてみる。
事実、何もしないのであれば私がここにいる意味がない。

けれど加地君は私の訴えを黙殺することに決めたらしく、ちらりと私を見ただけで手を止める気配もなかった。

仕方なく開け放たれている窓の外に目を向ける。
グラウンドには、まだ練習中の部活を幾つか眺めることが出来た。

私には遠い世界だ。あんな風に懸命に何かに打ち込むなんて。


「ほい、もーこれで終り。」

最後のセットを作り終え、加地君はホッチキスを机の上に放り出した。
加地君が伸びをしている間に、積み重なっているプリントを纏めて持ち何度か机に打ち付けて揃える。

「お疲れ様。後は久保田先生の所に持っていけば終りよね。」

「そ。んじゃー俺、ちょっと職員室行って来るわ。」

「待って、私も手伝う。運ぶくらいのことは出来るから。」

席を立ち一人で歩き出そうとする加地君の腕の中からプリントを半分ほど、少し強引に受け取った。

「んー、何? そんなに俺と離れたくないって?」

「早く置いてさっさと帰りたいだけ。」

「……つめてー。」

歩き出した私の背後から加地君が愚痴めいたことを言っていたが、有無を言わさず黙殺した。

教室を出て、突き当たりにある階段まで一直線の廊下を歩く。
加地君がついてきているのは確認しなくてもわかる。

おかしな足音。それに「篠木待てってー。」と加地君の声がするから。

でも追いつこうと思えば簡単に追いつけるくせに、私に待てというのは理解できない。
当然待つつもりの無い私は、何度か掛かったその声に従うことなく進む。

けれど廊下の突き当たり間近で、バサっという紙の落ちる音がした。
同時に加地君が「うわっ」と短く叫ぶ。

これには流石に足を止め振り返ったが、加地君の足元にはプリントが一部だけ。

「やーっと振り向いた。」

悪戯っ子のように加地君が笑う。
騙されたことに気づいたが、腹が立つより何よりも呆れる。

加地君の行動はまったくと言って良いほど理解不能だ。


「加地く……、」

「高臣君!」


古い例えになるかもしれないが、まさに鈴を転がすような可憐な声だと思った。

一度瞬き、ゆっくり首を巡らす。

廊下を突き当たった所に居るのは、とても可愛らしい女の子。
何もかもが私とは正反対。

可愛らしい表情にバランスよく配置された目鼻口。綺麗に手入れの行き届いた髪は栗色で、艶々としている。

砂糖菓子のように可愛らしいと評判の須川さんだ。

「一香?」

加地君が、当然のように須川さんを名前を呼んだ。
それはまったく違和感がない。

それもそのはず、今私が立っているこの位置に相応しいのはきっと彼女の方なのだ。
どう考えても、「たかおみ」というのが加地君の名前であると今知った私よりも余程。

「――あの、高臣君……話があるの。」

「何? 急ぎ? まーいいけど。手早く頼むわ。」

加地君が足元に落ちていたプリントを容易く拾い上げ私の隣にやってくると、ゆっくりと首を傾けた須川さんがピンク色のグロスがたっぷり乗った唇を開く。

「ねえ、高臣君……怒ってるんでしょ? でも私あの人とは何でもないのよ? ね、だからもう止めて?」

「……んあ? お前何いってんの? つーか、やめるって何を?」

加地君の不審そうな問いかけ。
須川さんが何故か勝ち誇ったように私を見た。

「だって篠木さんだって可哀想だわ。……私へのあてつけで付き合ってもらってるなんて。」

しばらくの沈黙。

「ああ、なるほど。」

得心がいった私の呟きは、けれど加地君の「はあ!?」という素っ頓狂な声にかき消された。

露見した事実に今更驚いてみせる必要はもう無いのだろうに。
確かにあてつけで付き合うなら、私ほど相応しい人物はいないだろう。

どうやら推測するに、加地君と須川さんは付き合うにあたって何か障害があったらしい。
それに加地君が一方的に腹を立て、須川さんを振ったことにして私と付き合おうことにした、というのが妥当だろう。

「一香、お前、まじ何言って……?」

「――加地君、私、先に帰るから。プリント、悪いけれど持って行ってもらえる?」

持っていたプリントの束を加地君の腕の中に押し付け、来た道を引き返す。

「……は? 篠木、ちょっと待てって!」

「高臣君、どうして篠木さんなんかを追いかけるのよ! もう必要ないじゃないの!」

須川さんに引き止められている加地君を置いて、早足に教室へと向った。

ああ、なんだろう、これ。加地君が本気だと信じていたわけじゃないのに。
どうして私と付き合うことにしたかの理由も良く理解できたはずなのに。

何故、あの場に居たく無いと思ったのか。

教室には誰もいないだろうか? 今は少しだけ一人になりたい。

人気の無い廊下を進み、教室の扉を開く。そこは夕焼け色の朱に染まっていた。

誰も居ない。よかった。

ほっと息をついたのも束の間。廊下から独特の上履きの音が聞こえて来る。

どうして。何で私のほうに。
須川さんはどうしたの。

「篠木!」

机の横に掛けてあった鞄を手にした所で、加地君が教室に入ってきた。
鞄を机の上に置く。けれど振り向かない。

足音だけが近づいてくる。

加地君は何を言うつもりだろうと待っていたのかもしれない。

でも私の予想に反して、加地君は何も言わなかった。
そのかわりに背中と肩が突然、熱くなった。

見下ろせば私の鎖骨辺りに加地君の腕が。

――息苦しい。

背後からきつく加地君に抱きしめられている。呼吸が止まる。

「なんっで、逃げんだよ。」

耳元で喋らないで。

逃げたんじゃない、ただあの場所に居たくなかっただけ。
加地君の傍にいたくなかっただけ。

答えようとしても浅く息を吸い込んだかのように喉だけが鳴る。

「篠木……。」

首筋に加地君の息がかかった。

弾かれたように私は呼吸をし、加地君の腕を引き剥がそうとした。

「加地君、離して。私こういう生々しいことは嫌なの。」

「ああ、そーかよ……っ!」

きつく閉ざされていた加地君の腕が片側だけ緩む。顎をつかまれて強引に後ろを向かされた。

ほんの僅か、加地君の唇が私の唇に重なる。

「生々しいってのは、こういうことだろ?」

「……離して。」

「俺と付き合うっていったろーが。今更なしになんてさせねーよ。付き合うって奇麗事ばっかりじゃねーだろ。」

どの口でまだそんなことを。加地君は須川さんと付き合うんでしょう。
それとも――私から言い出せという事なの?

ああ、そう。なら貴方が望むとおりに。

先に私が音を上げることになるなんて。
加地君から音を上げさせるつもりだったのに。

でも、もういい。

こんな面倒は沢山。
確かにつまらない日常だったけれど。
付き合ってみるのもおもしろそうだと思ったけれど。

もう認めないわけにはいかない。

加地君といると私がおかしくなる。
私自身がコントロールできなくなる。

それは多分、加地君がおかしな人だから。
引きずられているなんて思いたくない。でもきっと引きずられている。

だから、今なら私から折れてもいい。

「もう止める。」

「んあ?」

この馬鹿馬鹿しい関係に終止符を打つはずの一言。
けれど加地君には聞こえなかったらしく、不機嫌そうな声だけが私の耳を打った。

俯き、私をつかまえている加地君の腕にそっと触れる。

「――加地君、そっちを向きたいんだけれど、いい?」

「え、ああ?」

幾分加地君が困惑しているらしい気配を感じた。

構わず私は振り向いて、振り向きざまに思い切り加地君の胸を突き放す。
油断していたのだろう加地君が一歩、後退する。

「篠木……?」

まだ至近距離といえるほどの位置で、お互いにただじっと探るように見合った。

そして先に目を逸らしたのは私。

加地君のズボンからのぞく、理解できない模様が入ったストラップが目に付いたから。
訝しげにこちらをうかがっている加地君が反応するよりも早く、手を伸ばしてそれを掴むとするりと引き抜いた。

「―――って、篠木……っ、お前何して」

「消すの。」
私と加地君のつながりを。

「……はあ? ……お、い……、待……っ」

加地君の制止は、一歩遅かった。
開けっ放しだった窓から弧をえがいて消えるメタリックシルバーの小さな機械。

ここは三階。下はレンガで舗装された小道を挟んで校庭となっている。

多分落下地点はその小道の方になるはずだ。
運良く小道の脇にある花壇の中に落ちていれば、もしかして無事かもしれないが、かなりの高確率でそれはありえないだろう。

恐らく壊れていると思う。
縦しんばそれを免れていたとしても、もうどうでもいいことだけれど。

そう、どうでもいいことだ。―――私のこの行動こそが、決定打。

加地君は、呆然とした様子で私を凝視していた。

「―――これでおしまい。……でしょ? もう、私が貴方と付き合う理由も無くなった。それじゃあ加地君、さようなら。」

私と付き合うと言ったことにどんな意図があったにせよ、加地君にとってこれはかなり手痛いしっぺ返しとなったのではないだろうか。
彼にとって大切な電話番号やメールだって入っていただろう携帯電話を……多分失ったのだから。

まだ微動だにしない加地君の横をすり抜けるべく、私は机の上に置いてあった鞄を掴んで早足に歩き出した。

「待てよ、何だよ、終りって。」

「何って、言葉通りだけれど? 早い破局ではあるけれど、はじまりも唐突だったんだもの、終りもそうでいいじゃない。……腕を離してくれる?」

これは、引き止められているのだろうか。
普段より一層低い声の加地君に腕を掴れ、前に進めない。歴然とした力の差。

彼はやっぱり、私とは違う。……当たり前か。男の子なんだから。

「……ん、の……いいわけ、あるか……っ」

一体何が起きたのか。
腰を強く引かれ、足が地を離れる。

そして、背中に衝撃。

手離してしまった鞄が、床に落ちて鈍い音を立てるのが遠くに聞こえた。

見上げればそこに、加地君の端整な顔。表情が陰になっていて凄みがある上、気配は酷く剣呑だ。

「――痛い。」

背中に鈍痛がある。
鞄を手に歩き出した私を加地君が後ろから捉え、机の上に押さえ込んだその余波だ。

それに机の上に縫い付けられたように固定されてしまった両手首も、少し痛む。


「離して。」

「やだね。」

「どうして。」

「どうしても。」


頑なに拒絶され、堂々巡りを繰り返す会話。


「――くだらない。」

咄嗟に思ったことが口から零れ落ちた。
加地君の手に力がこもり、手首が更に痛んだ。

「……はっ、そーかよ、お前にとって俺ってそんなにくだらねー? ……少しでもいいからさぁ! 俺の事スキになれよ……っ!」

吐き捨てる様な言葉は、何故かとても苦しそうに聞こえた。

――どうして? これは加地君にとって本気なんかじゃないはずなのに。
ただあてつけだったんでしょう? そのはずなのに。

何故こんな風に、真剣に怒る必要があるのかわからない。

「――加地君……どうしてそこまで私に拘るの?」

「……お前今まで何聞いてたんだよ。俺は、篠木がスキだって何度も言ってるつーの! スキだから拘る、あたりまえだろーが。」

そんなこと、とてもじゃないが信じられなかった。

加地君が悪いわけじゃないのかもしれない。
けれど私には加地君の言葉を信じることが出来ない。

”手段”でなく”目的”の”付き合う”?

まさかそんなことありえない。

「ん、だよ。その顔はぜってー信じてねーだろ。でもマジだからな。俺は篠木が好きなの。いい加減信じろっつーの。」

むっとしていることを隠そうともしていない加地君の眉間には皺がよっていた。

「加地君って、おかしな人。」

「んあ?」

変な人。おかしな人。
だって、私は自分が男の子から好かれるような性質ではないってことを知っている。
なのに彼は、私でも良いって言う。――私が……良いって言う。

たとえ本当ではないのだとしても、そんな人には初めて会ったから。

だから少しだけ――もう少しだけ、加地君を知りたい気がする。
おかしな、おかしなこの人を。

「加地君。」

「……ん、だよ。」

不機嫌そうな加地君の頬に手を添える。
加地君が息を飲んだ気配。

人に触れるのも触れられるのもは好きじゃない。
なのに今、私は加地君に触れていることを不快だとは思っていない。

「しの、き?」

「電話、ごめんなさい。」

「あー…ああ、別にいいよ。あんなもん。……篠木との写真はちゃんと家のPCに転送してあっから。」

いともあっさり謝罪が受け流される。彼は事の重大さに気づいていないのだろうか。
寧ろ私との写真なんてその価値は低いだろうに。

そんなものより大切な。

「――他の電話番号とかはいいの?」

「他の?……そんなん別にまた訊けばいいだろ。それより篠木。今度はお前の番号、一番最初にいれっから、教えてよ。」

また訊けばいい、か。確かにそうだ。彼にならきっと、皆教えてくれるんだろう。
なんだか無性に腹が立つ。

自分でも理解できない苛立ち。これは何だろう。

「篠木、番号。」

「――生憎とそれは無理。」

重ねて尋ねてきた加地君に幾分そっけなく答えていた。
一度は消えた皺が再び加地君の眉間に現れる。

「俺には教えたくないって?」

「そうじゃなく携帯を持ってないから。」

これは本当に正真正銘の真実だ。特に持つ必要性も感じられなかった。だから持っていない。
けれど加地君には実に意外な事実だったらしい。

「……篠木ってホント、いまどきの女子高生?」

驚きの顔で呆れたように呟かれた。

だが、正直その呟きに驚き呆れたのは私も同じだ。

加地君には私がいまどきの女子高生にみえるとでもいうのだろうか。
どうかんがえてもその範疇からはみだしている私に言うことでは無い。

「呆れた? 嫌ならわかれ……、」

「それ以上言ったらマジ怒る。」

―――そうは言われても、言いたくてもいえない状況になっているのだけれど。

むっと口元を引き結んでいる加地君の手に口をふさがれてしまい、声の出せなくなった私はゆっくりと頷くしかなかった。




「一香が言ってた事、誤解だからな。アイツとはホントなんでもねーから。」

差し込んでいた日差しも薄っすらとした残照を残して消えて行こうとしている教室の中。
がしがしと頭をかいている加地君に弁解された。

大分落ち着いた、普段通りの加地君。
改めてさっきは私も少し混乱していたのかもしれないと思う。

「あてつけで付き合ってる?」

「んなわけあるか、お前のことスキだって何度もいってんじゃんかよ。――あいつに告られるちょっと前にさ、男といるとこをぐーぜん見たんだよ。多分それで、俺が断ったって誤解してたんだと思う。」

「そう……でもごめん、やっぱりまだ私は加地君を信じきれない。」

加地君の言うことは真実かもしれないし、嘘かもしれない。
私はまだ加地君を信用できるほどのなにものをも手にしていないから。

「あー、くそ。やっぱそうかよ。……でも、いーよ、今はとりあえずそれでもさ。」

若干悔しげに見えたが、加地君は私の言葉を受け止め、受け入れてくれたらしい。

「いいの?」

「いい。だけど、そのかわりもっかいキスな。」

「一体、どんな関連性。」

「はい、そこ。つべこべ言わない。目、ちゃんと瞑れよ?」

止める間も抗う間もなかった。もちろん目をつぶる間も。
加地君の熱が私に触れ、じんと痺れるような感覚を残して離れる。

唇が離れた後の間が凄く気まずいと思う。
でもそれはどうやら私だけのようで、加地君の態度は極普通だった。少なくとも表面上は。

「あのさ、篠木。今度の日曜、暇?」

まだ息がかかるくらいの近さ。加地君が低く囁く。

「どうして?」

「どっか、いかね?」

「いや。」

どっかってどこ? そんなことを考えるよりも早く間髪いれずに答えていた。
私の両肩に手を置いて加地君が項垂れる。

「……即答かよ。ちょっとは迷え……じゃ、なくて。何で嫌なんだよ。」

「面倒だから。」

「め……っ」

どうやら絶句したらしい。それも当然だろう。
今までこんな断られ方をした経験を加地君は持っていないに違いない。

「もう帰ろう、暗くなる。」

「いーや、ちょっとまった! 訊くけどな、どのへんが面倒だっつーの?」

加地君が意外に食い下がってくる。
何をそんなにむきになることがあるのか、まったくわからない。

「着ていく服を選ぶのも面倒だし、加地君と歩いていて知り合いに合うのも面倒だし、その他諸々全部面倒。」

思いつく限りの理由を並べ立てる。これだけ言えば諦めてくれるだろう。

でも、加地君は憮然としながら私の肩から手を離すと、足元付近に置かれていた自分の鞄をつかみ上げ、やっぱり憮然としたまま私を見下ろしてきた。

「あー、そうかよ。」

「そう。」

途端、加地君がにやり、という形容詞がしっくり来る笑みを浮かべた。

「じゃー、俺が篠木ん家いくわ。これなら面倒じゃないだろ?」

「な、」

「決まりな? 楽しみだなー、今度の日曜。」

「ちょっとま、」

「んじゃ、かえっか。――ユズ。」

加地君が床に転がっていた私の鞄を拾い上げ、あっという間に肩に担いでしまう。

序に私の手も加地君につかまれてしまい、上機嫌で鼻歌まで歌う彼にぐいぐいと引っ張られた。

次の日曜日、どうやら加地君は本気で私の家にくるつもりらしい。
彼の行動・思考、全てが私の予想を越えている。

唐突に私の名前を呼んだりしたのも、もしかして全て計算づくなのかもしれない。
なれない事態に、私が口を噤むことを予想して。


何を考え、何を思って加地君は行動しているのか。


いつか私にもそれがわかる日がくるのだろうか。
わかりたいような、あまりわかりたくないような。

けれど――目下の問題は加地君が私の家に来る気満々だということだ。

どうやら、次のファイトは日曜日。

試合のゴングが再び鳴るのはその時らしい。


「加地君、家に来て一体何を探るつもり?」

「探る? いんや、あわよくば押し倒そうと思ってるだけ。」

溜息混じりに尋ねる私に、加地君がにっこりと笑った。



ラウンド・ツー、スタート。



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