「――加地君。」

「あ、お気遣いは心配御無用だからさー。ほら、飲み物と菓子持参だし? まじで全然お構いなく。」

もとより構うつもりは毛頭無いのだけれど。
反射的に思った私に、ご近所にあるコンビニのビニール袋をぶらさげた私服姿の加地君は満面の笑みを見せていた。

お菓子や飲み物以前に、そもそも私がこのまま素直に迎え入れるとでも思っているのだろうか、この男は。

「あ。ちゃんとユズの分もあんよ?」

こちらの沈黙を果たしてなんと捉えたものか。恐らく私の心情を正しく理解しているだろうに、確かに一人分では多すぎるだろうスナック菓子や飲み物の類を翳して、もうユズは心配性だなー等と加地君が嘯く。

余りの厚顔無恥っぷりに、私の思考がおかしいのではないかという気すらしてきた。

まさか本当に私の家に来るつもりだったなんて。半信半疑、半分以上は無いだろうと思っていたのに。
突然私の家に来ると言い出したあの日以後、けろりと忘れたようにまったくその話題に触れなかったのは他ならぬこの加地君だ。

「んでさ、ユズ。いつまで俺、ここに立ってればいいわけ?」

そのまま一生立っていれば? 零れそうになる言葉をぐっと飲み込む。迂闊な事をいえば、加地君はそのまま実行しかねない。

玄関前に、彼氏が―……、一応とは言え彼氏と言われるのだろう存在である男の子が立ちっぱなしだなんて、後々隣近所の部屋に住まう方々にどんな噂を流されるか考えるだけでうんざりする。
一般的に、幾ら隣の住人に興味が無いといわれるアパート住まいとはいえ、流石に限度というものはある。

「帰ってもらいたんだけれど。」

「やだ。折角ユズが警戒しないように今日までお宅訪問の話題に触れないようにしてた俺の努力が無駄になるじゃん。そんなら入れてくれるまでここ、いるからさ。気が向いたら出て来てよ。」

――最悪だ。話題にしないと思っていたらそういう魂胆があったらしい。

自宅の玄関で頭を痛めながら、ドアの隙間、加地君越しに見える青空を眺めつつ、この自由人をどうしたら追い返せるかについて考えを巡らせる。

けれど暫くして、そんなことは無駄だと悟った。
結局の所、加地君は自分が絶対に譲れないと思っている事柄をあきらめる事は無いのだから。

無理やり教えられた加地君の自宅住所、そこからは結構な距離のあるこの場所。
わざわざ休日に此処まで来たという事は、きっともう退く気はないのだ。

このままここに居座られてのっぴきならない事態に陥るよりは、さっさと中に通してさっさとお引取りいただくのが賢明というものだろう。


「――どうぞ。」

「え、何もう入っていいのかよ? 二、三時間は覚悟してたんだけどなー。」

ほらその間暇かと思って色々準備してきたんだけどさと、加地君はジャケットのポケットからイヤホンだけ覗いていた音楽プレイヤーやら片手に持っていた雑誌やらをどこか残念そうに肩に引っ掛けていた鞄の中に引っ込める。

ああ、やっぱりその品々はそういう意味だったのかと、自分の予想の正しさに更に頭が痛んだ。

読みかけの本を読みきってしまおうと思っていた私の平穏な休日は、どうやら崩れ去る事に確定したらしい。




「あのさー、ユズ。」

「何。」

「お茶とか出ねーの?」

いけしゃあしゃあと今更何を言いだすのか。一体どの口がその言葉を吐いているのか、ぜひともうかがいたい所だ。

「お茶は持参したのではなかった?」

「そうなんだけどさー、今日外がちょっと寒かったろ? このままじゃまた外に出るの億劫なんだよなぁ。なんつーの? 帰りたくなくなる?」

「――煎茶しかない。」

「あー、あったかけりゃ何でも。それにユズが淹れてくれるんだしさ。」

何故か顔の筋肉を緩めっぱなしの、多分彼氏と呼んでも差し支えない存在である加地君の為に台所に立つ。
この際お茶でも何でも出して早めに帰ってもらう腹積もりではあるものの、どうもそれを逆手に取られているような気がしてならない。確かに今日は時期外れに少しだけ肌寒いとはいえ、外に出るのが億劫になるほどではない。


「それにしても意外だよな、ユズ一人暮らしだったんだ?」

「――高校に上がった時に引っ越したの。」

四畳半の小さな室内、余り物があるとは言えないその中心に辛うじて据えてある小さなテーブルの前に座りながら、へえと、無遠慮に辺りを見回す加地君の様子を目の端に捉える。
出来ればあまり観察するのは止めて欲しいと思いながら、台所に備え付けの引き出しからアルミパックのまま仕舞いこんでおいたお茶の葉を取り出した。

開封したまま彼是一月以上経つのだけれど、湿気ていないだろうか。
密閉してあるとは言いがたいそれを手に少し迷うが、飲むのは加地君だしと、そのまま急須に葉をいれお湯を注いだ。

湯気の立ち上る湯飲みを一つ手に持ってテーブルに戻る。加地君は案の定というか矢張りというかまったくじっとしてはいなかった。
本棚の中に収めてあった卒業アルバムをいつの間に取り出したものか、我が物顔でめくっている。

「加地君、何しているの。」

「ユズ、何組だった?」

「教えると思う?」

「あー、やっぱ? まあいいや自分で探すし。」

何がそんなに楽しいというのか。加地君は満面の笑みでアルバムのページを繰っていく。

どうやらこれ以上私を追求する気はないらしいことにはほっとしたが、できれば探す事自体を止めてもらいたい。
今とたいして変わり映えしない姿とは言え、写真を見られるという行為そのものが嫌だ。

咎めてみた所で大した効果が上がるとはとても思えない以上、無駄な事は言わないけれど。

「――どうぞ。」

「ん、サンキュ。」

お茶をテーブルの上にのせ、加地君とは離れた位置にあるベッドの上へ腰を下ろす。

視線を下げると、加地君の腰元、ジーンズのポケットからのぞく奇妙なストラップが目に付いた。
その先には新しい携帯電話があるはず。

先日、私が窓の外に放り投げ大破してしまった物とは別の、あの日から数日後に加地君が購入した真新しい携帯電話が。

そして、今の加地君のそれには、数日前までは存在してはいなかった私の携帯番号が入っている。

買って数日だというのに、既に二回程アパートや学校に置き忘れているガーリッシュピンクの、掌に納まるほどの精密機器。その度に不携帯電話だと加地君に文句を言われている。

嫌だといった私に、携帯電話を壊したペナルティだと無理やり持たせたのだからこれくらいは許容範囲としてもらいたい。おまけに、持たなければ自宅の電話に毎晩”ラブ・コール”をするとわけのわからない事をいって追い討ちをかけたくせに、結局は毎晩電話をかけてきていることに私は酷く納得がいっていないのだ。

「何、なんか気になる?」

いつの間にかアルバムを閉じていたらしい加地君は、矢張りいつの間にか私をじっと窺っていたらしい。

「別に。ただ毎晩の電話は止めて欲しいと思っていただけ。」

「そりゃ電話はするだろ。だってユズからかけてくんないじゃんよ。」

加地君が、実に不満そうに口を尖らせた。

購入したその日から、かけてくるようにと散々言われてはいたがそれは丁重にお断りしている。
一人暮らしをする時に電話を持つよう再三進められていたので、両親には二つ返事で了承をもらえたけれど、料金は自分持ちとしてもらっているのであまり使いたくはない。

その辺りの事情は説明したはずだが、何故か加地君は納得していないらしい。

「加地君、子供っぽい。」

「んあ? 何それ俺のこと?」

この場には私と加地君以外いないのだから、もちろんそうなる。
正当な理由があり、それを説明しても理解を示さないという態度は子供じみて見えても仕方がない。

けれど加地君はあんぐりと口を開き、何か物言いたげにしていたと思ったら突然瞑目した。

「――ホント、何やってもユズには通じないよな……。」

大仰に溜息をつき、乱暴に頭をかく。
果たして私に何が通じないと言うのか、さっぱりわからない。

「私、何か見落としている事でもある?」

「いんや、いいや。なんつーか、駆け引きとがそういうのが馬鹿馬鹿しくなる、ユズといると。」

「――駆け引き。」

「あー、いい、いい。ユズは気にすんな?」

考え込んだ私を、加地君が可笑しそうに片手を振って制止する。
まるで言葉の通じない異邦の人と会話をしている気分だ。詰まるところ、加地君と交わす会話を円滑に進めるには経験を積んで一つ一つ理解していくしかないのかもしれない。

「ところでさ。」

「何。」

「家でもいっつもそのかっこなわけ? 髪と眼鏡。」

唐突に話題を変えてくるのは加地君の得意技だと思う。
あちらこちらに飛んでいく話に頭の切り替えが追いつかない。元々話す事を得意としない私といて、果たして加地君に何かメリットがあるのか大いに謎だ。

「落ち着くの。」

返す言葉を何パターンが考えた挙句、一番そっけないものを選ぶ。
黒ブチの眼鏡は必要に迫られて当然としても、髪をひっつめてしまうのは最早習慣というしかない。

「へぇー。あのさ、それ、ちょっと解いてもいい?」

「は? ちょっと、加地く……、」

拒否するよりも早く、加地君の片膝がベッドの縁にかかった。
黒ゴムに加地君の指が触れた感触の後、柔らかく引き抜かれる。

背中に髪が散らばったのがわかった。

「そんでさ、眼鏡も外していい?」

言うと同時に加地君がフレームを持ち、眼鏡を奪われた。

「だから加地君、ちょっと待って。私は承諾してな、」

「あー、うん。承諾待つつもりなんてないしなー。」

それでは訊く意味が無いのではないだろうか。

肩を押され、背中がベッドに沈む。
両手で突っぱねようとするのに出来ない。予想以上に加地君は力を込めているらしかった。

こんな事なら外に締め出しておいた方が良かったかもしれない。今まさにのっぴきならない事態になっているのは気の所為ではないだろう。

まさか本当に押し倒されるとは予想外だった。
私に対してそんな気分になれる加地君が不思議で仕方ない。それともやっぱり反応を面白がられているのだろうか。

どちらかというと、その可能性が高い気がする。それならそれで安心は安心だけれど。

「ユズ、危機感無いだろ? でも俺結構本気だから。」

「――加地く、」

どう答えたものか考えている間に、加地君の手が服の間から滑り込んできた。
今日は何処にも出かけるつもりは無かったので、長袖の薄いニットとその下にタンクトップというラフな服しか身につけていない。それは侵入も容易だろうなと、他人事のように考える。

直に肌へと触れる加地君の手は熱い。伝う感触はまったく馴染みの無いものだ。
私が黙り込んでいる間、腹部で少し戸惑ったように止まっていた手が再び動き出す。

そろそろ本格的に抵抗した方がいいのかもしれない。

「加地く、」

「あ。」

あ、何だと言うのか。一言発したまま、加地君が凍りついたように止まった。
がばりと上体を起こしたと思ったら、見る見るうちに頬に赤みがさしていく。

「加地く、」

「ユズ、もしかして下着つけてないだろ……っ!」

何を突然言い始めるのかこの人は。私の偽らざる感想である。
押し倒しておいてそんな事に動揺するなんて。どうせ外すつもりの行為に及ぼうとしていたくせに。

最も本当に及ぶ気だったのか、怪しくはあるけれど。

「上は着けてないけど?」

手短に簡潔に答えると、何で着けないんだよと私の乱れた服の裾を直している加地君に咎められた。

諸所諸々だとは思うが、少なくとも私は室内着の時、上の下着はつけないようにしている。
膝を抱え込んで本を読む癖があるので、長時間その姿勢を維持していると胸元が息苦しくなるのだ。
今更その事を咎められても直しようが無い。

「あー、くそ! うっかり最後までしちゃうとこだったろーが! どうすんだよ、俺のこの欲求不満。」

「なんだ、やっぱり最後までする気なんて無かったんだ。」

「……無かったよ、わりーか。だって俺、まだユズに好きって言ってもらってねーもんよ。」

嘘か本当か。加地君は拗ねたようにそっぽを向く。

――スキって言われなきゃ嫌だ? 何なんだろう、それは。
見分けがつかない真実はひとまず置いておくとして、時に狡猾なくせに妙な所で拘りを見せる加地君が可笑しかった。

「加地君て実は乙女?」

「……お、ま……っ、お前なー! ほんっきですんぞ、こら!」

がうと言いながら襲い掛かる真似をしてくる加地君を怖いとは思わない。否、思えない。

「加地君、重いからそろそろ退いてくれる?」

いまだ私に圧し掛かったままの加地君を手で押し返す。
いつまでもこの状態では埒が明かないと思ったのだが、軽く天井を見上げて溜息をついた加地君には、ホントユズはもっと動揺しろよと呆れたように呟かれた。

移動するために加地君がついた手の下でベッドが軋む。

けれどそれとは明らかに音源が異なるであろう耳障りな音が、何の前触れも無く鳴りはじめた。

加地君が動きを止め、不審そうに私を見る。

「なんかさ、すんげー音してるけど俺の気のせい?」

この音が気のせいだと思うなら、加地君は眼科だけでなく耳鼻科にも通った方がいい。

立て付けの悪い玄関扉は開ける為に若干のコツを必要とする。それを知らない人間が無理やり開けようとすると、今のような壊滅的な音がするのだ。
滅多に無い事なのだが、どうやら訪問者らしい。しかも鍵を持っている人物となると、その範囲は一寸どころではなく狭まる事になる。
合鍵を持っているのは両親。後はその両親から鍵を預かる事が出来る人が一人。

「何この扉、たてつけ悪いわね! ユズー、母さんから届け物よ。あんた、休みの日ぐらいちょっとは出かけたらどう……て、あら?」

「……みづき姉さん。」

どうしてよりにもよってこんな最悪のタイミングでこの人は現れるんだろう。

煌びやかで華やかで、私とはまるで正反対。
それはもう母親がふざけて実は片親が違うのよと言えば、誰もが信じて気まずそうな顔をする程度には似通っていない、二つ年の離れた実の姉がそこには立って居た。


「やだ、濡れ場? ユズ、あんた彼氏なんていたのね。」

「……一応。」

片手に持っていた紙袋を床に放り投げる様に置いたみづき姉さんは躊躇することなく歩み寄ってきた。
こういう場面に遭遇した場合、普通であれば咎めるかその場を後にするかしそうなものだが、それをしないのが実にこの人らしい。

「あ、こんちは。」

「――あれ……君、あー、ひょっとしてあの時の?」

ベッドから降り挨拶をする加地くんに、みづき姉さんが驚愕の声をあげた。

「お久しぶりっす。」

「やだ、何。ユズの知り合いだったの? へぇ、そうなんだぁ?」

みづき姉さんの表情が、家族に向けるそれとは違うものに変化していく。例えるならそれは、まさに女の顔と言えた。
まさかという予感が胸の底から湧き上がってくる。

「――加地君?」

「ん? ああ、俺、知ってんだよね、ユズのねーさんのこと。一月ほど前にちょっとさ。」

自然な事であるような口ぶりで加地君はさらりと言った。
加地君が姉さんと知り合い、それは多分衝撃的な事実なのだろう。けれど私の衝撃は少なかったと思う。

この流れには前も遭遇した事がある。その経験上導き出される結論は一つ。
それは私にとって心地良いものではありえないが、馴染みのものでもある。

将を射んとすればまず馬を。そういうことなのだろう。

加地君の目的は、みづき姉さんだったのだ。









それじゃあユズ、あたしこの後用事があるから帰るわね、とみづき姉さんが去って行ったのは届け物の為というには随分と長い時間が経過した後だった。
その間話を交わしていたのは概ねみづき姉さんと加地君であり、その会話の端々から私が知ったのは、未成年だというのに泥酔したみづき姉さんを加地君が介抱したらしいということだけ。

みづき姉さんが帰った後も、加地くんと私の会話は加地君が喋って私が短く答えると言うスタンスを崩すことなく続けられた。
ただ不思議な事に、言い訳も弁明もそれこそ別れ話すら加地君は何一つしはしなかった。

それは加地君がそろそろ帰ると言い出し、玄関で私が一枚のメモ用紙を差し出すまで変わる事は無く、でもきっと彼にだってもうこれが茶番なのだとわかっていたはずだ。

加地君は小さな紙を受取ると、二つ折りにしてあるそれを不思議そうに開いた。
そこにはボールペンで書いた数字の羅列があるはずだった。

「何これ?」

「みづき姉さんの携帯番号。」

「何で?」

「今更。加地君、姉さんとのつながりが欲しかったんでしょう?」

「は? ――何っだよ、それ。何言ってんの? ユ……、」

「もういいから、もう止めて。」

靴を履いて開いた扉から半分ほど外に踏み出していた加地君を押して、玄関の外に追い出す。夕闇の帳が下りる少し前の冷やりとする空気が流れ込んでくる。赤く染まった世界はとても綺麗だ。

「だから何がだよ! ふざけんな、マジでユズのねーちゃんとは何でもない。なんかあったならもっと隠してんよ!」

「信じられない。」

加地君が本気で苛立ったように舌打ちしたのがわかった。
閉めようとしてた扉の縁を掴まれ、完全に閉じる事を防がれてしまう。

止めてと思った。今ならまだ大丈夫だから、わかったのが今でよかったとまだ思う事が出来るのだから。不幸中の幸いとは本当にこういうことを言うのだろう。

「――ユズ、俺達まだ付き合いだしてひと月も経ってないよな? それで全部信じろとはいわねーし。だから今はふりでもいい。でも俺を、信じろ。」

「出来ない。」

「即答、かよ。」

「帰って。」

「ユズ、聞けよ!」

「篠木、でしょ? 馴れ馴れしく呼ばないで。」

「言い訳もゆるしてくんねーの?」

「許さない。」

加地君が目を瞠り、息を呑む。そんなに今の私は酷い表情をしているのだろうか。
――きっとそうに違いない。とても酷い気分だ。

頭の奥が揺れている、私は何を怒っているんだろうか。何に対してこんな感情を持っているのだろう。多分、期待ているわけじゃないと自分を納得させながら、本当はこの人に何かを期待していた。自分勝手な理想を加地君にみていたのだ。

「お願いだから、もう帰って。」

「ああ、そーかよ! だけどな、俺は嘘は何一つ言ってない……っ。」

「聞きたくない。」

力任せにスチール製の扉を引き寄せ閉めた後、それがガンと揺れた。

「今回は俺、ぜってー折れねーからなっ!」

加地君が拳を叩きつけたのだろう振動が、手のひら越しに伝わってくる。

加地くんと私を隔てているのは、多分この扉だけじゃない。
何もかもが違いすぎる、違いすぎた。初めから無理だったのだ。
違う。始まってすらいなかったというのがきっと正しい。

閉じた扉の向こうで足音が遠ざかっていく。
何故か泣きたい気分の自分に気づいた、最悪だ。


――もう繰り返さない。決めたはずだったのに。







私と加地君が破局したと知れ渡るのに、それほど時間はかからなかった。

付き合いだしてから一ヶ月弱。
案外持ったなと影で言われていたらしいことは、何となく耳に入っていた。
余計なお世話だとは思ったが人の噂も七十五日と聞き流し、それに私と加地君の別れ話ではそんなに持つことも無いだろうと思っていたら、予想通り一週間以上が経過した今、噂は大分薄れつつあるようだった。

加地くんとはあの日から一言も喋ってはいない。
しつこかった陰口は嘲笑に変わり、今はそれも殆ど無くなって私はまた退屈で平穏な日常に戻ってきている。

何もかもが元の通りに戻っただけだ。なのに私の胸の中は溜まった澱が淀んでいる。

原因はわかっていた。
加地くんと私が別れた翌日に、もう一度私の部屋にやってきたみづき姉さんだ。

『ねぇ、ユズ、あの子可愛いわよねぇ。あんたの彼氏には勿体無いわ。要らないならあたしに頂戴よ。』

部屋に入り込んで、テーブルの前に座り込んだ姉さんの第一声はこれだった。多分加地君のことを気に入ったのだろうことは見ていてわかったけれど、こうもストレートに言われるとは思わなかった。

――私に加地君を遣り取りする権利なんて無い。

『じゃあいいのね? あたしが貰っちゃっても。』

どうとでもすればいいと思った。
けれど何故加地君は姉さんに連絡を取ってはいないのか、それが不思議だった。

――それは加地君が決める事でしょう?

『あんたって相変わらず可愛げが無いのね。そう、まあいいわ。どうせもうしちゃってるしね?』

――してる?

『寝たってこと。酔っ払っちゃっててホント前後不覚だったのよね、あの時。それにあの子朝起きたらいなくなってるんだもの。ああ、ちょっと待って、今送ったげる。どうせあんたメアドも番号のままかえてないんでしょ?』

私の返答を待たず、みづき姉さんは鞄から取り出した携帯電話を操作しはじめた。
マナーモードにしっぱなしの私の携帯が直ぐに震え、開いたメールにあったのはあまり品が良いとはいえない色合いをした光沢のあるベッド中で眠る半裸の加地君だった。

『誘ったらあの子、拒まなかったのよ? ユズ、ごめんね。』

ああそうなんだとぼんやりと思った、もうどうでもいいと。
でも、加地君が『拒まなかった』と言った時、みづき姉さんの手入れの行き届いた細い指が右の耳朶に触れていたことに気づいてしまった。

小さな頃、母さんが大切にしていたティーカップを壊してしまい怒られた姉さんが、あたしがやったんじゃない、ユズが壊したんだと私に向かって言ったときも、矢張り同じように右の耳朶に触れていたことを覚えている。

それ以後も、記憶の断片の中で度々姉さんは右の耳朶に触れている。それがみづき姉さんが私に嘘をつくときの癖なのだと理解するのは容易かった。

だから今みづき姉さんは加地君のことで嘘をついている。

どうして加地君が半裸で眠っている写真をとられたのかはわからない。
それでもみづき姉さんの話には嘘があることだけは間違いの無い真実だった。

加地君を信じていいのだろうか。
けれど拒んだのは、もしかしたら加地君がみづき姉さんに仕掛けた駆け引きとやらなのかもしれない。連絡先がわかっても連絡をしなかったのも、駆け引きだったのかもしれない。

ずっと堂々巡りを繰り返している。

忘れてしまえば楽になれる、わかってはいても疑問を打ち消す事が出来ない。

私がこんなことを考えたところで、もう無駄だろうことはわかっているのに。

加地くんとは別れた、それが全てだ。
噂に何の否定もしなかった彼もそのつもりでいるに違いない。


昼休み中に読んでしまおうと開いていた文庫本の内容は少しも頭に入って来ず、諦めて閉じた。
窓の向こうには青空が広がっている。

このままでは午後の授業中舟をこいでしまうのは確実な気がする。
眠気覚ましに歩こうと席を立つ。ふらりと頭が揺れた。少し貧血気味なのは自覚していたが、体に影響が出るようでは少し考えなくてはいけない。
ここ数日、あまり食事が美味しく無い。普段ですら味気ないそれは、もう砂を噛んでるほどの食感しかしなくなっている。

弱い自分、嫌な自分。今になってまた古傷が痛み出している事を目の前に突きつけられている気分だ。

知らず溜息が零れた。まだ休み時間中の廊下は騒がしく、人の行き来が激しい中日当たりの良い場所を選んで足を運ぶ。けれども数分後にはそのことを後悔する羽目になった。

数人の男子生徒が固まって歩いてくる。中心にいるのは加地君に他ならない。
止まる事も脇道にそれる事も出来ず、加地くんとの距離が縮まる。

一度も私を見ることなく、加地君は私の横を素通りした。

付き纏われていた時はあれだけ鬱陶しかったのに。
感情はとても我侭だ、こんなに胸が痛いなんて。

まるで同じ、あの時と。振り向いて見送った加地君の背中に別の男の子の影が重なって見えた。
そんなことがあるわけはないとわかっているのに。


「篠木さん。」

「――佐藤、君。」

加地君の友人の一人である佐藤君が、猫背気味に背を丸め私を見下ろしていた。

何故彼がここに? さっきの集団の中に一緒にいなかっただろうか。
加地君に近い人とは今出来るだけかかわりをもちたくは無いのに。

「顔色悪いけど、大丈夫?」

「そう? 別に平気。それよりも何?」

そっけなく刺々しい物言いに自分で呆れる。彼は何ら悪く無いというのに。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いなんていう心理状態は、まさにこういうものなのだろう。

「――俺が言うのも差し出がましいのはわかってるのを踏まえて聞いて欲しいんだけど、ホントにあいつ篠木さんのこと好きだよ。はじまりがあれだったし、信じられなくても仕方が無いとは思うけど。少しだけでいいから信じてやって欲しい。」

「私が信じる信じないは、今の事態にもう何の関連もないでしょう。」

何を言われるか大方の予想がついていたとはいえ、収集済みの事態を持ち出されても後の祭りだ。私は加地君を信じなかった。それだけが今の事実。

「大いにあるんじゃないか?」

「だって別れたんだもの。」

「……別れた? ちょっと待ってくれ、加地は多分、」

「わからない、信じられないの……っ」

言い募られる言葉を聞きたくは無くて声を荒げた。吃驚するほどの険しさに耳鳴りがした。体中が冷たくなっていく。冷や汗と吐き気。

「篠木さん? ……おい、篠木!?」

崩れ落ちる私を支えようと、佐藤君が腕を伸ばしたのを目の端に捕らえる。
触れようとしてくる手を押し返し、冷たい床にしゃがみ込んだ。

「大丈夫……大丈夫、だから。」

佐藤君が困惑したように一度視線をさ迷わせ、着ていたブレザーを脱ぎ私の肩に覆い被せた。

「待ってろ、養護教諭呼んでくる。」

「ごめん、なさい。」

駆け出した足音が遠のいていく。
心細いけれどその反面ほっとした。廊下の冷たい壁に身をもたせかけ目を瞑る。
気分は最悪になっていくばかり、吐き気と眩暈が同時にやってくる。

佐藤君の言葉が頭の中を何度も巡った。

信じてやって欲しい? 私だって信じたい。

――信じて裏切られるのは怖いくせに。

わかってる。だから一人でもいいと思った。一人がいいと思った。

――本心から信じきることなんて出来なくせに。

それも気づいている。
私はとても弱くて、だから虚勢を張って誰も踏み込んでこないようにしているだけ。
一度ついた傷は簡単にはいえてくれないことを知ってしまったから。

中学生のとき、同じクラスにとても好きな人がいた。
気さくに話しかけてくれる彼のことをいつの間にか好きになっていた。

いつも明るく笑っている、加地君と似た雰囲気を持っていた彼。

けれどその人が見ていたのは姉さんだった。姉さんと知り合う為に私に声をかけたのだと知ったのは、姉さんと彼が付き合いだしてから。自分の馬鹿さ加減にうんざりした。

反面、胸は痛くて苦しくて、二人の傍に――みづき姉さんの傍に居たくは無かった。

中学卒業と同時に家を出て、冬休みの間に二人が別れたと知った。

もうどうでも良かった。すべてを忘れようと思って記憶の底に封じた、つもりだった。

だから加地君には関わりたくなかった。でもどこかで期待していたのかもしれない。
おもしろいかもしれないと、退屈だったからと理由をつけて。加地君なら私を信じされてくれるかもしれないと、期待していたいのかもしれない。


「ユズ……っ!」

冷たいコンクリートに体温を奪われ寒気に襲われたとき、ありえないはずの声を聞いた。

「お前なんでこんなになるまで我慢してんだよ! あーもう、ちょっとだけ我慢しろよ。」

重い瞼を持ち上げると、瞬く間に、攫うように抱き上げられた。
けれど触れられたときの不快感は無い。

駄目だと思った。加地君が本当は私のことをどう思っているかはわからない。
けれど私はもうこの人を信じたいと思ってしまっている。

「ユズ、大丈夫か、ユズ」

加地君の腕の中で身を竦ませ黙りこんだ私の上に、不安そうな声だけが降ってくる。


私はあの人に、姉さんに劣等感を持っているのだと思う。
認めたくは無かったけれど認めざるを得ない。

ああはなりたくない、そう思っていた。けれど誰もが姉さんを見る、私はいつもその付属品。

ユズはいい子ね、みづきは悪い子。

でも皆、姉さんと楽しそうに話を交わす、笑いあう。
私はいい子。けれどそれ以下でも以上でもない、ただのいい子なのだといつの間にか悟った。

――それでいいと思っていた。

私は私。今の私は、たくさんの中から自分で選び取った私だったから。

姉さんにはなれない。他の誰にもなれない。だからこの劣等感すらも私の一部だと。
全部を内包して、それが篠木ユズという人間になるのだと思っていた。

自分を否定してどうなるわけでもない。私は「特別」になりたいわけじゃない。
ただ自分でいたいだけなんだからと。私はこれでいい、これが私なのだと。

なのに今、私は姉さんに成り代わりたいと思っている。それは自分を否定することだとわかっているのに。

嬉しかったんだと思う。信じられないと思っていた一方で、加地君が私を見てくれたことが、心のどこかで嬉しかった。
加地君といる事が出来るなら、姉さんに成り代わりたいと。

瞼の裏が熱を持つ。鼻の奥がつんと痛む。泣いたりはしないけれど、泣けないけれど。
中学のあの時ですら私は泣けなかった。それは、無駄だと全部諦めてしまったから。

多分、泣いてしまえばよかった。全てを諦めて全部を悟ったような振りをして、自分を誤魔化さなければよかった。





私が目覚めると、加地君はいなくなっていた。
養護教員の時路先生はじゃまだから追い出したと冗談めかして言っていたが、本当のところはわからない。

随分と眠った気がするが、実際のところは一時間程度だったらしい。授業終了のチャイムが聞こえる。

カーテンで区切られたベッドの上に座り、眩暈も吐き気も無い事を確かめる。
枕もとには牛乳パックと調理パン。朝も昼も食事を取っていないと自己申告したら、会議に出かける前の時路先生に手渡されたものだ。
食べたら帰りなさいといわれたが、この分なら次の授業には戻れる気がする。

「……? 眼鏡……。」

ベッドに入るとき外されたはずの眼鏡を手探りするが、枕もとにあったはずのそれが見当たらない。床にでも落ちたのだろうか。

「――篠木さん、俺だけど。あけても大丈夫かな?」

明るくする為に開こうとしていたカーテンに影が揺らめいていた。
遠慮がちに尋ねる声は、多分先程迷惑を掛けてしまった人だ。

「もう起きてるからあけても大丈夫よ、佐藤くん。」

「送ってけって――加地が。篠木さんの具合が悪そうだって気づいたのも実は加地。あいつも大概頑固なんだ。」

カーテンを開けた佐藤君は、私の鞄と自分の鞄を抱えて困ったように笑っていた。

「加地君は教室?」

「間違いなく。」

「ありがとう。佐藤君、私の鞄はその辺りに適当に置いておいて。」


諦めない為に、諦める為に信じてみようと思う。姉さんが嘘をついているからといって加地君の言っていた事が本当だとは限らない。
わかっているけれど、これで駄目ならきっと――今度こそ、泣いて諦める事ができるはずだから。

今は私が折れる番、否、行動する番だ。中休みは終わっていないからまだ加地君を連れ出せるはず。

見失った眼鏡を捜す事もせず早足に保健室を後にしていた。
途中で視界の悪さに気付き引き返そうとも思ったが、後で取りに行けば済む事だろうと自分を納得させる。

教室は目前。

――辿りついた教室では、何故か加地君が私の席に坐って机の上に突っ伏していた。




私の席で一体この人は何をしているのだろう。

机の上に前の時間にあった教科のノートや本がのっているところをみると、どうやら昼休み以後ずっとここに居たらしい。
それは確かに特等席だけれど、最前列にある加地君の席が空いていたのではかなり目立ったのではないだろうか。

人の気配に気付いているのかいないのか。加地君はまったく無反応のままで、まさか本気で寝ているのではないかと疑わしくなってくる。

「……え、あれ、ええと……か、加地……っ、ほら、加地! また女の子! 話聴いてやれって!」

余りに加地君が無反応だからだろう。加地君の隣にいた津路君が、はっとしたように加地君の肩をたたき出した。

「うっせーよ。だからさっきからここで聞くつってんだろ。」

「ちょ、おまえ、それはだからひでーだろ。いい加減にしろよ何拗ねてんだよ!」

さっきから――、ということはつまり私の前にも話をしようとしていた誰かが居たらしい。
けれど皆、加地君のこの態度に玉砕したという事か。
確かにこれでは、いつもの松レベルな彼とのギャップに面食らうなという方が無理だ。
事実私も驚いている。

「話したい事あんならどーぞ?」

加地君が突っ伏したままぶっきらぼうに言う。

いま此処で? 明からに周りから注目を浴びている状況で私は加地君に告白――たぶん、告白という言い方で良いと思うのだけれど――をしないといけないらしい。

彼を信じようとしなかったのは私だから、この程度は当然のペナルティだと奇妙に納得する。
彼はきっと今自分の傍に立っているのが私だと気づいていないに違いないが、話を聞いてもらえるだけで僥倖というものだろう。

加地君にまったく悪いところが無かったかと言われれば否というけれど、今更何を言いに来たと思われても仕方が無いと思える程度には私の態度にも非はあったと思う。

「――わかった、ならここで言う。」

加地君が、何故か弾かれたように顔を上げた。

随分と久しぶりな気がする加地君の正面からの顔は、次いで酷く驚いたものに変わる。

――加地君の姿はこの距離ですらややぼやけていて、だけど私の席に坐っているのが加地君だと教室に入った瞬間にわかってしまった。

それが何を意味しているかは明白すぎるほど明白だ。
加地君は私の中で特別な人になりかけているのだと思う。

「……ユズ?」

「ユズ……て、これ、篠木!? ……まじか? すげー反則技だろ、それ……。」

津路君が呆然とした表情をする。何に対してそんなに驚いているのだろう。
追求したい気もするが今はいつ加地君の気が変わるとも知れない。言うべき事だけは言っておきたいと頭の片隅に追いやった。

「加地く、」

「やっぱ、やめた。」

言いかけた私に対して、あっさりと翻された前言。
それはつまり私の話を聞くこともいやだという意思表示だろうか。

話をする事も嫌がられるほど嫌われたとは想像していなかっただけに、容易には次の言葉が出てこなかった。

加地君が怖い顔で席を立ち、立ち尽くす私の横をすり抜けようとする。

「……待っ、て。」

「……何?」

今このタイミングを逃したら、もう私は言う事が出来ないだろう確信がある。

「加地君、私はまだ確固とした自分すらなくて、それを捜している途中だから――だから、本当は他人にかまけている暇はないと思っている。なのに貴方と一緒にいるのは楽しい。これは我儘だってわかってるけれど、それでも私の傍に居てと言ってもいい……?」

「――やだ。」

まっすぐに正面を見据え、一分の迷いも無い目で加地君ははっきりと私を拒絶した。

冷やりとした間があった。

――これは、今まで私が加地君にした仕打ちを考えれば当然の結末。

そんな風にまだ冷静に考えられる自分に少しほっとした。


心臓が締め上げられた様に痛む。
心と心臓が同じであるわけが無いと思っていたのに、こんなにも痛むものなのだ。

「……ありがとう、はっきり言ってくれて。」

震えそうになる声が情けなかった。

自分を嘲笑しながら踵を返し、加地君に背を向ける。
振った女にいつまでも見られていたのでは加地君だって居心地が悪いだろう。

「逃げんの?」

「……? 加地君?」

私の足が止まる。否、正確には止められた。
加地君の右手が私の腕をつかんでいる。

そして振り向いた先には、険しい表情で私を見下ろす加地君がいる。
逃げる、私が……? 何から逃げだしていると加地君は言いたいのか。

「なんでここで言うかな、やめたっつたじゃん、おれ。」

「は?」

俯いた加地君が乱暴に自分の髪をかき乱す。

「ここで聞きたくなかった。つーか、今のユズを俺以外に見られんのが、すんげーやだ。あーもう、とにかく今のユズは嫌だ。」

嫌だ嫌だとそう連呼せずとも良いのじゃないだろうか。

さっき加地君が言った「嫌」が何に対しても嫌だったか、あの話の流れからすれば当然私の告白に対してだと思うのが一般的な解釈だと思うのだが、どうも違っている気がしてくる。

それに、見られるのがいやと言われても何のことだかさっぱりわからない。
今までだって私はクラスの中にいた。もちろん今のように注目される事は無かったけれど。

「意味がわからないんだけど。」

「あ、そ。ならこれは?」

ほどいてある髪が私の頬に触れ顔の横を流れていく。加地君の肩が視界を占める。
ふらふらと両足が心もと無く揺れる。抱えあげられていた、加地君に。

「何の――まね?」

「あ、おひめさまだっこのがよかった?」

今の自分の状況が信じられず反応が鈍くなる。
飄々とした加地君に言い返す言葉が上手く出てはこなかった。

彼はなぜこうも的外れな答えばかりするのか、まったく理解できない。
理解できない。けれど理解できないから傍にいて欲しいと思うのかもしれない。
私を好きだといった、とても稀有なこの人に。

「次の授業サボるから。テキトーに理由つけといて」

ひらりと手を振り加地君が教室を後にする。連れて行かれた先は保健室だった。



「センセー、ちょっとここ貸して。」

ファンシーな小物類が並ぶ机上で書類に書付を行っていたらしい時路先生に加地君が大雑把に声を掛けたのを、私は加地君の後ろで聞いていた。

やけにファンシー雑貨が多い保健室の中で厳つい体格の先生は若干どころではなく浮いてみえた。
これが男性なのに可愛いものが大好きだと公言してはばからない先生の趣味に違いないとはまことしやかに囁かれている噂だが、普段見慣れないものに囲まれていると些か落ち着かない。

「ああ? 馬鹿者、もう授業始まるだろうが。馬鹿な事言ってないでさっさと戻……と、なんだ篠木も一緒か。どうした、また具合が悪くなったか?」

「いえ、私は……。」

加地君を邪魔といわんばかりに押し退けた先生に気遣ってもらったものの、私の体調は今はそんなに悪くは無い。言葉を濁していると加地君が間に割って入ってきて、匿われているかのような体勢になってしまった。

「センセー、のっぴきならない事態で、俺のこれからの心の平穏がかかってんの。だからここ貸して?」

「女生徒を連れ込んでか?」

「んあ? あーダイジョブダイジョブ。不純なことはイタシマセン。」

「何でカタコトなんだよ。たく……しょうがねぇ、十分だけだからな。」

「サンキュ。」

苦々しく舌打ちしながら時路先生が書類を乱雑に片付けはじめる。
それが終わると机の引出しからタバコのケースを取り出し、篠木何かあったら大声で叫ぶように私に言い残すと、本当に出て行ってしまった。


「えーと、多分この辺りか? お、あった。」

「――加地君、何をしているの?」

ベッドの方で何事か捜している様子の加地君の背中に声を掛けた。振り向いた彼の手には私の眼鏡。

「ほら眼鏡、ここに置きっぱなしだったんだろ?」

ああそういえば、視界は相変わらず随分不明瞭で境界がはっきりしていない。
加地君がベッド脇に落ちていたらしい眼鏡を私に差し出す。

この為に加地君は私をここに連れてきてくれたのだろうか。
否、多分違う。さっきの返答が告白に対してのものでないのなら、いま答えをくれるつもりなのだ。

眼鏡を受け取ろうとした私の腕がつかまれ、加地君に引き寄せられた。暈けている視界一杯が加地くんで埋まる。

「んじゃ、改めて返事な? ――今のユズとは付き合えない。」


ゆっくりと囁かれたのは二度目の拒絶だった。
どちらかというと二度目の方が辛い、息が詰まる。

これで終わりということだ。きっぱりと振られた。
すっきりしたとはまだ思えないけれど、これも経験と割り切れる時がくるのだろう。

「わかった……。加地君、私もう帰るから腕を放してくれる?」

目を閉じて様様な感情をやり過ごす。帰りがけに新しい日本茶を買って帰ろうか。それを飲んで泣いて疲れたら寝てしまおう。

「……加地君?」

もう話すことはないだろう筈なのに、加地君は私の腕を放してくれなかった。

空いた手で何故か私の髪をもてあそぶ。
手のひらから、黒い糸のようなそれが零れ落ちていく。

わけがわからずにただそれを眺めた。

「あのさぁ、なんで髪、ほどいてんの? それと眼鏡、なんでかけてねーの?」

「……別に他意はないけれど、敢えて理由を挙げるなら急いでいたから。」

暗に加地君に会いに行く為に急いでいたと言っている様だと気付くが、言ってしまった言葉はもとには戻らない。それよりも早く解放して欲しい。

「なんでそんな可愛い顔してんの?」

「……加地君こそ何を言ってるの?」

「いつものユズでいろよ、背筋を伸ばしてしゃんとして。じゃないと、無理。なんかもー、色々駄目っぽい。ぜってー俺からは折れないって決めてたのにさー、ユズ倒れるし、そんなカッコで出歩くし。」

加地君が何を言わんとしているのか、さっぱり理解できない。唯一わかるのは、私を可愛いなどとのたまう彼には確実に眼科医が必要だという事ぐらいだろう。

でも――つまりこれは、私がいつも通りで無い事に対する不満を聞かされている、という理解で良いのだろうか?

「あー、もう、すっげかわいい。めろめろじゃんよ、俺。」

眉宇を顰める私の肩に加地君の手がのせられる。

「……は?」

「だからさぁ、普段でも可愛いのに反則だろ、これ。んで告白とかされた日には俺にどうしろっつーの。何? 実は襲って欲しいわけ?」

加地君は矢張り早急に眼科へ行く必要があるに違いない。
そうでなければ美的感覚にかなりの難がある。

「でもさー、ユズの気持ちはまだちゃんとしたスキじゃないんだもんなー。」

「上手く言葉には出来ないけれど、傍にいて欲しいと思うし信頼できるように努力はするつもり――だった。」

「んじゃ、いきなり疑われるってことはもう無しっておもっていーわけ?」

「――それは、今度からはちゃんと理由を聞くようにするつもりだったけれど。」

「なら、んー、もういーか。うん、いいわ。」

どうも自己完結してしまったらしい加地君の腕に抱きこまれ、けれど私は納得が行かない。
私は今加地君に振られたはずだ。この流れは何かおかしくは無いだろうか。
割と一世一代の告白だったのだけれど。
それは確かにはっきり好きとは言わなかったし、今もどうかと言われれば多分答えに詰まるのだけれど。

「加地君、私の認識が間違っていなければ、今私は加地君に振られたみたいなんだけれど。」

「んあ? ああ、あれ? んー、じゃ、眼鏡かけてもっかい告ってみ?」

「……それは、普段通りの私だったら返事は変わってくるということ?」

「さあ? だから試してみろって。普段の姿でさ。もう一回言えよ、さっきの台詞。」

「――御免蒙りたいんだけど。あんな台詞を言うのは数年に一度で充分。それにこんな思いをするのは一生に一度で充分。」

「マジか……ってことは何か。ユズからの愛情表現は数年にいっぺん、とか?」

「そうみたいね、多分。」

「ユズさん……せめて俺には一年に一回にしてください。」

「無理。だから私、さっき加地君に振られたって言ったじゃない。」

複雑なのか単純なのかわからない事態になってきていた。とにかく状況を整理しようと眼鏡を掛け、眼鏡のフレームに巻かれていた黒ゴムで髪を結わう。

世界がはっきりとした明るさに漸く戻る。明瞭になったそれに我知らず安堵の息をついていた。やはりこの方が落ち着く。

「――さっきのユズは振ったけど、今のユズは振ってないっしょ?」

「意味がわからない。」

私の結わえた髪に触れ、加地君は実に満足そうだった。

「そ? んじゃ、まあいいんじゃね。あ、じゃあさ、今俺がもう一回告ったらユズはどう返事してくれんの? 私も好きです、とか?」

「さあ?」

「うっわ、卑怯くせ! 逃げんなよ。」

「逃げているかどうかは別にして、私と加地君、どっちが卑怯かは主観によるところが大きいと思うけれど?」

「あーっ、わけわかんね! もーいい、とにかくユズは俺の彼女ってことで良し!」

高らかに宣言した加地君の顔が近づいてくる。何だかわからないが、有耶無耶のうちに私はまた加地君の彼女に戻ったらしい。私にしてはかなり真剣に悩んだ方だと思うのだが、こんな事で本当に良いのか若干疑問だ。

加地君の顔が益々近づいてくる。だが唇が触れる寸前、私は両手で加地君の口を押さえた。
加地君がなにをするんだと言わんばかりの目をする。

「加地君、その前に誤解を解いておく気はある?」

手を離しながら尋ねると、加地君は一瞬不思議そうにし、次いで観念したように頭をかいた。

「んあ? あー、やっぱそのへんはっきりしないと駄目?」

無言で頷く。このまま何も言わなければ後々凝りを残しそうな予感があるのだ。この際はっきりとさせておくべきだろう。

「みづき姉さんとはどうして知り合ったの? 酔っていたから偶然声を掛けただけ?」

「あー、なんてのかさ。実はユズがあの人の妹だってのは結構有名なんだよな。全然にてねーって話でさ。あの人、行動が派手じゃんか。だからその余波ってとこ?」

納得が行く答えだと思う。みづき姉さんが有名らしい事は流石に知っている。加地君がそれを知っていたとしても不思議じゃはい。

「それで私に興味を持って声をかけたの?」

「逆。ユズのことを先に知って、姉さんだってわかっててあの人に近づいた。ユズのこと、知りたくて。」

「何それは。」

「ホーント、何それは、だよな。俺、すんげー馬鹿だわ。」

皮肉な笑みで加地君が自嘲気味に言う。
加地君の言っていることは本当だろうか? 信じるつもりはある。けれど無条件に信じることはまだできない。

加地君から距離をとり、ベッド脇に置かれていた鞄を開いた。加地君が背後から不思議そうに私の名を呼ぶ。確か今日は忘れてきてはいなかったはずと鞄の中を捜し、私は目当てのそれを手にとった。

「それならこの写真は?」

振り向いた私の手の中には加地君の寝姿が表示された携帯電話があった。
加地君が目を瞠り額に手を当て、なんだよれはと溜息をつく。

「言い訳は立つ?」

「あったりまえだろーが。マジでちがうっつーの。つか、写真なんて撮られてたんだなー……あの人酔っ払った勢いで俺のシャツに吐いたの。そんで洗って乾かしている間寒かったから布団中入ってたら寝ちまってただけ。本気でユズのねーちゃん、俺の好みじゃねーし。」

好みではないとは随分とはっきり言ってくれる。それは仮にも妹を前にして言う事ではない気がするが。
加地君が傍に来て躊躇いがちに私の腰に手をまわした。

「まだ疑ってる?」

「疑ってる。」

あーやっぱり、と落胆したように加地君は項垂れた。その様子がおかしくて、私は久しぶりに声を出して笑った。

「嘘、疑ってない。」

「……今このタイミングで言うか? 笑い顔とか凶悪すぎ。」

口元を覆った加地君の目元が赤い。
どうしたのだろうと思いながら、笑い顔が凶悪とは幾らなんでも酷い言い様だと抗議したら、加地君は私の肩に頭を乗せて短く呻いた。

「そーじゃないだろ……あーホント、ユズってば可愛いよなって話。」

「――常々言うべきかと思っていたのだけれど、加地君は目が悪いの?」

「いんや、視力は両目とも2.0。」

ならば美的センスにかなりの難があるということか。この間見た私服のセンスはそう悪くはなったように思うが、昔の友人から聞くところによると私は壊滅的というレベルでない限り気にならない性質らしいので、もしかしたら一般的にはかなり酷いのかもしれない。

「マジ可愛いよ、ユズは。」

肩口で囁かれる言葉がこそばゆい。
果たして本気で言っているのかどうかわからないけれど、信じる努力はすると言った手前余り頑なに拒絶するのも良くないだろうと、加地君の腕に手を触れ肩に額をつける。

「ありがとう、高臣君。」

気まぐれというよりも寧ろ逆襲、この間驚かされた仕返し程度の軽い気持だった。
なのに加地君が今までに見せたことの無い程にぽかんとした顔をしたのは予定外で、彼ならきっと軽くかわしてしまうだろうと思っていたこちらの方が困惑してしまう。

「あー、なんてかさ……下半身直撃なんすけど、ユズさん。」

真顔に戻ったと思ったらこの人は何を言いだすのか。加地君はやっぱり加地君だ。

「――加地君、貴方のその沸き立った脳みそは、多分一度取り替えた方が良いと思う。」

「ひでぇの。大体ユズが悪いんじゃんよ。」

私が悪い? ただ名前を呼んだだけなのに何故そうなるのか。

「本気で加地君の思考回路が理解できない。――こんな状態で私が加地君の彼女だなんて言えるのかとても疑問じゃない?」

そう考えると私は別に彼女という位置にこだわっているわけではなくて、加地君が傍にいてくれればいいのであれば友達でも構わないのじゃないだろうかという気がしてきた。

友達として付き合って加地君のことを知っていくというのも一案ではあるだろう。
最も最初に付き合い始める時、その案は加地君に却下されているという事実がある以上、実現は難しいだろうが。

「いいんじゃねーの? だってそれのが面白いだろ、付き合っててもさ、ん?」

加地君が私の頬に触れ、同意を求めるように仰向かせる。
少し驚いた。加地君も同じような事を考えていたのだ、私と。

違っているから面白い、実に加地君らしい言い方だ。

「ああ、うん。その前向き思考は尊敬に値するし、その意見はとても一理あると思う。」

私が肯定したことが余程意外だったのか、あんぐりと口を開いた加地君に凝視された。
けれど私も驚いているということに、加地君は多分気づいていない。

「えーと、それってどういう?」

「だから考えの違う他人と関わるのもおもしろいかもしれない、でしょ?」

違うから面白い。理解できないから理解しようと、相手を深く知りたいと願う。
私はこれから加地君を知っていく。知るように努力しようと思う。

「は……っ! はは、ホント参るよなー。ユズといるとさ、俺マジやばいかも。」

「何が?」

意味深長な笑みを加地君がのぞかせた。あまり良くない前兆だ。

「あのさ、ユズ。今から俺んち来ない?」

「……? 加地君の家?」

「そ。ユズを全部俺にちょーだい。」

「全部。」

鸚鵡返しに単語をなぞった私の唇に、加地君の唇が触れる。
突然の行為は私の動揺を誘うには充分過ぎるほどだった。

何の反応も出来ないまま加地君に引き寄せられる。

「ホントは待つつもりだったんだけどさー、一応。でも他の奴にこなかけられんのやだし? だからさ、キス以上のことをしよう?」

にこりと少年らしい笑みを浮かべた加地君が、突拍子もないことを口走った。

私はひょっとして人生で最大の選択ミスとしてしまったのではないだろうか――加地君で本当に良かったのだろうか――そんなことを真剣に考え込んだ瞬間だった。




ラウンド・フォー、スタート。



WebClapLOG INDEX


TOP ∥ NOVEL


Copyright (C) 2003-2006 kuno_san2000 All rights reserved.