01. 踏み込めない場所


――寂しい目をしたあの人を好きだと気づいたのはいつだったんだろう。


飾り気の無い扉の前。
マンションの三階にある通路を歩いてきた少女が一人、足を止めていた。

肌寒い冬の朝。

細い首に幾重にも巻かれたマフラーの、ほんの少し上にある唇から漏れるのは白い息。
手袋まで嵌めて寒そうに首をすくめる彼女のスカートは、しかしとても短い。
すんなり伸びた足の膝から下はブーツに覆われているものの、膝上からスカートまでは素肌が露出していた。

「うー、寒。」

背中までさらりと流れる少し茶色味を帯びた髪が、ぶるっと身震いすることにより僅かに揺れる。
少女は肩にかけたトートバックから、大量のストラップがついた携帯を取り出し、じゃらじゃらと音をたてる飾りの中から一際長いリードの先についた銀色の鍵を手に取った。
少し厚手の手袋をしたまま鍵を差し込もうとして、かなり苦戦しながらも漸く扉を開く。

「あ。今日はちゃんと帰ってるんだ。」

室内に入った少女は、玄関口に丁寧に並べられた革靴を見下ろし、僅かに笑みを浮かべた。

扉を閉め、小さく「お邪魔します」と呟くと、きちんと脱いだブーツを並べ、抜き足差し足で音を立てぬよう廊下を進む。


進んだ先にあるのは、ガラスのはめ込まれた、木製のシンプルな扉。

それを開けた先にあるのはとてもシンプルな内装であることを少女は知っている。
何度も訪れている家だ。家具の配置から、どこに何が収納されているのかすらわかっている。

一つ一つの家具は上質であるのに華美過ぎず、この部屋の主にとてもよく似合っていることも。


――今日は、今日こそは起きてないよ、ね?

扉の前で足を止め、鞄の肩紐をぐっと握り締める。
腕時計に目を向ければ、時刻はAM6:30。そして今日は休日である。

部屋の主がまだ眠っていることを期待しながら、少女は意を決して扉を開ける。

しかし、リビングから流れてくる暖かな空気に、少女はそっと溜息を落とした。
自分の折角の努力が今日も報われなかったことを知る。

――つまんない。やっぱり今日も起きてるんだ……。

もう何度目になるかわからないこのマンションへの朝の訪問。
しかしここの主が眠っている間に訪問できたことは皆無だった。

――いつか絶対に寝顔、見ちゃうんだから。

ぐっと口元を引き結んだ少女が、リビングに踏み込む。
そこには、椅子に座り、のんびりと新聞を片手に紅茶の入ったカップを傾けている男の姿があった。

「おはよ。」

少女がやや無愛想に声をかける。
銀縁眼鏡を掛けた綺麗な顔が、新聞から少女に向けられる。

「おはよう、雪葉。」

早朝からの訪問に嫌な顔一つせず、男はにこやかに少女へ挨拶を返した。


――本当に、一体何時寝て何時起きてるんだろう……?

少女――雪葉と呼ばれた彼女は、リビングの中央に据えられたテーブルの傍へ寄り、部屋の主が座る椅子の真正面へ腰掛けながら、常日頃から思っている疑問に首を傾げる。
けれど、新聞をテーブルに置き、雪葉の為に紅茶を注ぐ男の表情からは何も読み取ることは出来なかった。


部屋の主の名は、叶 奏。少女の名は、瀬守 雪葉。

奏は、雪葉の父・ゆうきと母・華の幼馴染である。
そして、雪葉が何よりも誰よりも想っている、恋焦がれている男でもあった。


――私が好きになったのは――銀縁眼鏡の似合う綺麗な男(ひと)。
――物心付いた頃からずっと、好き。
――でも彼は……私のママより年上。



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