02. 隠された心


「で、雪葉。今日はどうしたのかな?」

ほんわりと湯気の上がる繊細なティーカップ。
それを雪葉の前に差し出した後、再び新聞に目を落としながら奏が雪葉に問いかけた。

「……んー。」

両手で白磁のカップを包み込み、雪葉はぷらぷらと足を揺すりながらやや口を尖らす。
雪葉自身は気づいていないが、あまり話題にしたくない話を振られた時の癖だ。

小さい頃から変わっていない雪葉の仕草に、奏は柔らかな笑みを浮かべた。

まだ結婚していない、そして子供を持っていない奏にとって、雪葉は娘とも思える存在である。
何より、昔―――とてもとても愛しく思っていた幼馴染、そして現在は大切な友人である雪葉の母・華が産んだ子供だ。
例え父親が昔の恋敵だとしても雪葉のことを可愛く思わないはずが無い。

ただ雪葉の外見がどちらかというと華の方に似ていることが複雑ではあったが、それでも奏は雪葉を疎ましいと思ったことは一度も無かった。

昔の恋慕は、華が結婚して子供を持った時に諦めている。

それに、初めて雪葉を腕に抱いた時、奏に対して差し出された幼かった雪葉の手。嬉しそうな笑顔。
無条件に慕ってくれるその小さな命を無碍にすることなど、奏には到底出来なかった。

そして、雪葉の誕生から十五年。
社会に出ると同時に一人で暮らしはじめた奏の住まいに、今でもこうして足繁く通ってくる雪葉を奏は受け入れている。


「またパパに何か言われた?」

敢えて雪葉の父親を名前では呼ばずに奏は雪葉に尋ねると、読み終わった新聞をテーブルの上に置いた。
雪葉は眉根に僅かに皺を寄せ、言い難げに手にしたカップを両手でくるくると回しながら弄んでいる。

しかし奏が重ねて「雪葉?」と言うと観念したのか、雪葉は漸く重い口を開いた。

「……正解。だってさ、パパってば今日は家族で出かけるとか言い出して……それも昨日突然だよ?」

「それで逃げてきた、ね。」

ティーカップを片手に奏が小さく笑う。
雪葉は見透かされている事にややむっとしたのか、黙り込んでしまいながら、奏の淹れた大分温くなっているであろう紅茶に口をつけた。

――雪葉の猫舌も――変わらないな。

雪葉の様子に目を遣った後、カップに残った琥珀色の液体を飲み干し、奏が席を立った。
まだ朝食をとっていないはずの雪葉の為に何か軽い物を作るべくキッチンに向う。

しかし奏がキッチンに入る直前、背後から木製のテーブルを激しく叩く音がした。
奏が背中越しに振り返れば、片手をテーブルの上に乗せた雪葉がむっとした顔をしている。

「大体ねっ! 娘の見ている前でいちゃいちゃあまあましちゃってさ! ちょっとは思春期の娘の心境を察しろって思わない!?」

ママはともかく、パパときたら見境が無いんだから――……。

最後の方は不満げに呟きながら、雪葉が「そう思わない?」と奏に同意を求めきた。

奏は、それに答えることなく、俯きながらくくっと低く笑う。

「なんで笑うのっ!」と雪葉が怒ったように言っても奏の笑い声はおさまらなかった。

雪葉が家族で出かけることを嫌がる理由。
原因の大半を占めるのは――ゆうきの華に対する呆れる程の甘さぶりである。

娘の前でも変わることの無いゆうきの態度に、年頃の雪葉は反発しているらしい。

―――あの二人も変わらない、か…。

漸く笑いをおさめた奏は、キッチンへは入らずに雪葉の傍へと足を向ける。
椅子に腰掛けた雪葉が、不思議そうに奏を見上げいた。



***




眼を細め、雪葉の頭を奏が撫でる。

ゆうきのの面影がまったく無いというわけないが、華奢な体つきもさらりとした髪も長い睫で縁取られた黒目がちな瞳も、華の姿を色濃く感じさせる雪葉。
しかし、幾ら外見が似ているとは言っても、雪葉と華が奏の中で同一視されることは無い。

何より雪葉と華では性格が大分違っている。

いつも遠慮がちで自分の中へ溜め込んでしまっていた華に比べ、雪葉は自分の欲しいものを欲しいとはっきり言うし、それに不満があれば我慢しない。
けれど我儘というわけではなく――理由を説明すれば納得するし諦めもする、というのが奏の知っている雪葉だ。

「パパとママの仲が良いに越したことはないよ。」

雪葉の頭に手を置いたまま、奏が言う。

「――そう、だけど……さ。」

奏に頭を撫でられ、こそばゆそうに身をよじっていた雪葉が動きを止めて、ばつが悪そうに困ったように呟いた。
ゆうきと華の仲が良いことを、雪葉が本当に嫌がっているわけではないということはわかっている。
奏は笑みを零しながら軽く雪葉の背を叩いた。

「じゃあこの話はおしまい。雪葉、何が食べたい?」

「んー、ベーコンエッグー。」

「了解致しました。」

恭しく返事をして、キッチンに入る奏の後ろから、腕まくりをして雪葉がついてくる。

「雪葉も手伝う?」

「ん、手伝う。……奏ちゃんだけ働かせるのは、申し訳ありませんもの。」

キッチンの中から問いかけた奏に、ついてきた雪葉がにこりと笑いながら、おどけた様に言った。

――奏ちゃん……か。

その響きに、キッチンに佇む奏の胸が僅かに痛む。

昔、隣に住んでいた女の子が、やはり隣に住んでいた青年に向けて呼びかけていた響きに似たそれ。
十数年の時を経て、まさかそう呼ばれる立場に自分がなっていようとは、流石に奏も思ってはいなかった。

あの時……自分とゆうきの立場が逆転していたら……華と十歳離れていれば、華は自分を選んでくれたのだろうかと今更詮無いことを考えてしまい、苦笑する。

――仮定は無意味だし、過去に戻れるわけでもない。

それにきっと年齢が逆転したところで華はきっと自分を選ばなかっただろうと、奏は冷静に思った。

「奏ちゃん、卵二つでいいー?」

冷蔵庫から卵を取り出し尋ねてくる雪葉の声。奏は意識をそちらに向ける。
雪葉が卵を片手に小首を傾げて奏を見ていた。

―――もう、終わったことだ。

小さく溜息を落とし、奏は軽く頷いて雪葉の手から卵を受け取った。

奏の中で、華への気持にはとうに決着がついている。
稀に思い出すことはあっても、昔のような激しさは無く、懐かしさの方が勝っている程だ。
今はただ、華が幸せであってくれれば良かった。

けれど華への思いを吹っ切った奏にとって、二十歳以上も年の離れた雪葉が恋愛対象として考えられない存在であることもまた、確かだった。

それが例えどんなに慰められた少女であるとしても。



***




「ねー、奏ちゃん。今日暇だったら遊びいこ?」

穏やかな朝食の席。ほぼ奏が作ったベーコンエッグ。
それをフォークで器用に切り分け、その欠片を口に放り込みながら雪葉は奏に強請った。

こんがりとキツネ色になった四つ切の食パンを丁度嚥下し終えた奏が、雪葉に向けてふと綺麗に笑む。
朝日を浴びて、更にその色を薄くする薄茶色の髪。眼鏡の奥から覗く穏やかな瞳。

一瞬の内に雪葉の心臓は掴み上げられたかと思う程激しく鼓動を鳴らす。
しかしそんな雪葉の様子に気づいていないらしい奏は、実に冷静だった。

「それは構わない。でもその前に家に連絡をいれることが条件だ。」

奏の正当といえば正当過ぎる言い分に、雪葉は慌てて不満げな表情を作る。
そうして拗ねた風を装いながら、更に奏から視線を逸らすことでどうにか自分を取り繕った。

「……えーっ、だって……。」

駄目、私の気持をまだ知っちゃ駄目……、祈るような想いであらぬ方向へ顔を向けた雪葉が低く唸る。
平静さを取り戻すのにそう時間は掛からない。いつものことだと必死に自分に言い聞かせた。

「雪葉。」

笑顔を消した奏が、少し強い調子で雪葉を呼ぶ。

――馬鹿、人の気も知らないで…。

まだ気づいて欲しくは無い。けれど、何故気づかないのかと責めてしまいもする。
身勝手だと自覚しながら、雪葉は心の中でそっと溜息を落とした。

「わかりましたよーだ。連絡しますー。」
「はい、いい子。」

ふんーだ、子ども扱いーっ、と、思い切り舌を出し顔を顰める雪葉の頭を、食卓越しに伸びた奏の手が、くしゃくしゃと撫でる。

嬉しくて、こそばゆくて、少し哀しい――綯い交ぜの感覚。

雪葉は複雑な心境を押し隠し、少しはにかんだ笑みで奏を見つめた。



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