03. 誘惑


雪葉が手にしている携帯電話のストラップが触れ合う度に、シャラシャラと響く軽やかな音。
それを耳にした奏が苦笑する。

折角軽量化されている機種だというのに、あれでは意味が無い。
若い頃からあまり華美の装飾を好まない奏にとって、雪葉の趣味は分かり難いものだった。

が、当然の如く雪葉はまったく気にせずに携帯電話を握っている。

朝食を終えた後、約束通り自宅へと連絡を入れている雪葉を眺めながら、奏はゆっくりと食後のお茶を咽に流し込んだ。

「うん、うん……わかってる……大丈夫だよ……ん、わかってるってば。ママ、心配しすぎ。」

少し甘えるような口調で言い、雪葉が頷く。電話の相手は母親だった。

「奏ちゃん、ママが代わってって。」

更に何度か返事をした後、雪葉がずいっと奏に携帯を差し出す。
一際大きな音で携帯電話のアクセサリーが鳴った。

本体は、メタリックブルーの小さな長方形。
僅かに躊躇する。けれどカップをテーブルに置いた後、直ぐに奏はそれを雪葉から受け取った。

「――もしもし?」

『奏?』

涼やかな音色だと思った。
久しぶりに聞く華の声が、深く奏の心に染み入る。

自然と口元に柔らかな穏やかな笑みが浮かんだ。

「久しぶり。――ゆうき、腹立ててるだろ?」

『朝起きたら雪葉が居ないんだもの。拗ねちゃってるわ。』

くすくすと楽しそうに華が笑う。優しく、懐かしい思いが蘇ってくる。

それはもう胸が痛むことは無いかわりに、心地よさを齎してくれた。
華は幸せなのだと、今の奏には素直に感じることが出来る。

「雪葉は責任を持って預かるよ。外出は二人でしておいで。」

『……本当にもう、雪葉が迷惑をかけちゃって御免なさい。でも出かける途中に寄らせてもらって雪葉も連れて行こうと思っているんだけど……。』

華が苦笑しているらしい気配が、言葉の雰囲気から伝わってきた。
かなり頻繁に雪葉が奏の元へやってくることを、大分気に病んでいるらしい。

本当に奏は気にしてはいなかったが、雪葉の携帯と同じで、自分が気にしていないからといって相手もそうであるとは限らない事も分かっていた。

「ちょっと待って。――雪葉、迎えに来てくれるそうだけれど、どうする?」

電話を耳元から離し、奏は傍でじっと様子を覗っている雪葉に問う。
答えはわかりきっているが、一種の約束事のような遣り取りだった。

「訊かなくてもわかってるくせにっ。お願い、奏ちゃん。」

奏の予想通り、雪葉は拗ねたような顔をした後、拝むように手を合わせる。
雪葉に肩を竦めて見せた後、奏は再び華との会話を開始した。

「どうやら迎えにきたら、ひと悶着ありそうだ。それに自宅に連絡を入れたら遊びに連れて行くって雪葉と約束したから。ちゃんと預かるよ。」

雪葉があからさまにほっとした顔をする。
奏は諌めるような視線を雪葉に送るが、その口元は仕方ないというように緩んでいた。

『でも――……あ、ちょ……ゆ……?』

「華?」

唐突に華の声が途切れた。
奏が呼ぶが、華は答えない。

――いよいよ、痺れを切らしたかな……?

次に誰が出るかを既に確信しながら、奏は息を吐き首に手を当てた。



***




『悪いな、迷惑をかけて。』

低く、落ち着いた声。
電話口から届くそれは、間違いなく華の父親ものだった。

「いえ、今日は特に予定も無かったので。」

確信した通りの展開に、奏は笑みを深めながら答える。
ゆうきが電話の向こうで軽い溜息をついた。

『雪葉は、どうせ迎えに来るなって言っているんだろう?』

流石というべきか。
雪葉の言動はしっかり把握しているらしい言葉に、奏が苦笑する。
そして結局は雪葉の願いをしっかり聞いてしまっていることに気づきながらも「…夕方までにはそちらに送っていきますよ?」と言っていた。

『まったく、あの我儘娘は。帰ってきたらお仕置きだ。』

苦々しげにゆうきが呟く。
が、もちろん本当は可愛くて仕方が無いことを知っている奏には冗談にしか聞こえないず、思わず小さな笑い声を漏らしてしまった。

ゆうきが僅かに押し黙り、もう一度、今度は深い溜息を落とした。

『――よろしく頼む。』

「承知しました。きちんとお預かりしますので。」

実に短く簡潔な遣り取りの末、奏とゆうきはお互い二言でこの件に関しての話題を打ち切った。
しかし、案外あっさり納得した風にみえるゆうきが内心では、先程華が言っていた通り「拗ねている」らしいことを、奏は声の様子から感じとっていた。

『それじゃ、家の我儘娘とかわってくれるか?』

ゆうきの頼みに、奏は無言で耳元から電話を離し雪葉を手招きする。
更に傍に寄ってきた雪葉に、肩を竦めながら電話を差し出した。



***




「雪葉、お呼びだよ。」

「え……、だって今……電話に出てるの、パパでしょ?」

あからさまに雪葉が眉根を寄せる。
しかも、じりじりと後退しようとしていた。

奏が笑いながら、素早く雪葉の腕を捕らえる。

「正解、よくわかったね。ほら、出て。」

「だって、奏ちゃんの口調が違う。――じゃ、なくて。とりあえず、奏ちゃんにパス。」

「パスは受け付けられないな。」

雪葉が口を尖らせ不満げに唸るが、奏は意に介さなかった。
すっと雪葉の目の前に電話を差し出す。
雪葉の機嫌は下降の一途を辿っていることがわかったが、奏は譲歩しない。

もちろん、雪葉にも譲歩するつもりはないようだ。

しばし状況が停滞し、それを打ち破ったのは何かを思いついたらしい雪葉のあまり性質のよろしくない笑み。

悪戯っ子のように眼を閃かせ、雪葉が爪先立ちになった。
少し瞼を落とし、首を傾ける。

「雪葉?」

何を、と言いかけて奏の言葉が止まった。
それはまるで――キスをねだっているかのように見えると気付いた。

不意をつかれ、雪葉を捉えていた腕の力が緩む。ぱっと雪葉が身を翻した。

「引っかかったー! だって約束は家に連絡するって所までだもーん!」

「ゆき……っ!」

やられたっと思ったが、時既に遅し。
雪葉はあっという間に奏の使っている寝室に飛び込んでしまった。

錠の落とされる音が、やけに大きく奏の耳に響いた。



***




驚きの表情を浮かべた奏が、雪葉の消えた扉を見つめ髪を掻き揚げる。

「すみません――逃げられてしまいました。」

恐らく会話の遣り取りは全て筒抜けだったろうことはわかっていたが、奏は溜息混じりにゆうきへ報告した。

『聞こえた。まったく、一体誰に似たんだかあの強情っぷりは。……それにしてもお前、何に引っかかったんだ?』
「いえ……他愛の無い悪戯ですよ……。」

まさか何を仕掛けられたか言えるはずもなく、何か言われるだろうかと思いながら奏は歯切れ悪く答えた。

『そうか。まあ、一応愛娘だから、な。よろしく頼む。』
「承知してますよ、それじゃ。」

どうやら言葉を濁した奏を追求するつもりはないらしいゆうきに、ほっとしつつ奏は諾と返した。
雪葉の様子が気になったので、そうそうに会話を締め括る。

ゆうきもそれを察したのか『本当に迷惑をかけるな』と低く笑い、簡単な挨拶を残して通話が途切れた。

しゃらしゃらと鳴る雪葉の携帯を手に、奏が一つ大きな溜息をつく。
寝室の扉は、まだ閉じたままだ。

柄にもなく、先程の雪葉の仕草に奏は酷く動揺していた。
ただの悪戯だというのに。意味などないだろうそれを何故そんなに気にしてしまうのか。

雪葉は、どうして――……。

――……どうして? ……は、馬鹿馬鹿しい。何を考えてるんだ。

悪戯以外の結論を出す前に、奏は自分の思考を一蹴した。額を押さえながら、首を振る。
今はそれよりも、あの閉じた扉からどうやって雪葉を連れ出すかの方が重要だった。

まだ奏は気づいてはいない。
それが、今までどんなにふざけてはいても女を感じさせるような真似をしなかった雪葉が、初めて踏み込んだ最初の一歩だったということに。



***




白を基調に整えられた、清潔感に満ちた明るい寝室の中。
雪葉は扉に背を預けて座り込んだまま、激しい動悸と戦っている真っ最中だった。

どくどくと脈打つ心臓。巡る血液に頬が火照る。
自分でも、自分の行動が信じられない。

口元に当てられた雪葉の手は微かに震えてさえいた。

咄嗟に思いついたこととはいえ、何故あんなことが出来たのだろうと思う。
驚愕を滲ませた奏の瞳が、雪葉の閉じた瞼の裏に浮かんでいた。

もしかしたら自分に課したリミットが近づくことで心の箍が外れかけているのかもしれない。

「……まだ、まだ駄目なのに…。」

掠れた声で呟きながら、雪葉は更にきつく瞑る目に力を込めた。

「雪葉?」

扉越しに聞こえたくぐもった声と共に、背中に感じたのは小さな振動。

はっと目を開き、雪葉が急いで扉から離れる。
そのまま微動だにせずいると、もう一度、控えめなノックの音がした。

びくりと身体が震える。
奏に会う事が、奏に自分を見られることが、怖かった。

こんなのは自分らしくない、と弱る心を叱咤しても挫けそうになる。
この恋には行く手に困難ばかりが立ちふさがっている、それは雪葉自身が一番良く分かっていた。

奏に恋愛対象として見られてはいない。
しかも、自分のいる今の位置が恋愛としてはマイナスだということも。

それでも、諦めきれない。だから。

「――いるよー。」

雪葉は不信感を抱かれないよう、出来るだけ普段通りに明るい声で答えた。
僅かに声が震えていたが、扉越しという状況が雪葉を救っている。

「雪葉、怒っていないから出ておいで。」

扉を叩く音が止み、奏の声だけが雪葉の耳に届いた。

奏が怒ってはいない、それは雪葉にもわかっている。
諌められることはあっても、雪葉は奏に本気で怒られたという記憶は無かった。

「怒ってないのはわかってるよーだ。だって奏ちゃん、私に激甘だもん。」

確信を込めて言う。扉の向こうで奏が言葉を無くしたようだった。
その証拠にややしてからの奏の声は、苦笑を含んでいた。

「――まったく……。わかっているなら鍵を開けなさい。出掛けるんじゃないのか?」

熱くなった頬を冷たい掌で冷やし、雪葉は一つ深呼吸する。

――そうだよ、勝負はこれから。不利だなんて、百も承知。ずっとずっと欲しかったものだから。必ず手に入れてみせる。

心を落ち着け、雪葉はかけていた鍵を開き、扉の隙間から悪戯っ子ののような笑みを覗かせた。



***




「じゃあ、ちゃんと連絡出来た御褒美。どこに行きたい?」

冷めてしまった食後のお茶を二人分入れなおした後、奏はすっかり機嫌を直したらしい雪葉に問うた。

「うーんと、ね。」

椅子に腰掛け、足をぶらつかせながら雪葉がにやりと笑みを浮かべる。
一体どんな難題が来ることやらと、奏は苦笑いしながら入れなおしたばかりの紅茶に口をつけた。

奏は自分のことを客観的に見て、あまり寛容な人間だとは思っていない。
愚かしいことを言う人物に対しては、驚くほど冷酷にもなる。

けれど、不思議と雪葉の願いを困ったと思うことはあっても、不快だと感じたことは今まで一度もなかった。

実のところ我儘も大分言われている。

華への気持を諦めてから、数人の女性と付き合っていたが、その彼女と約束を交わした日にどうしても一緒に居て欲しいと泣きつかれたこともあった。
恐らくは、小さな子供の独占欲だろう。
そう思いながらも、服をしっかり握り締めて離そうとしない雪葉の泣き顔に負けた奏が、女性に断りの連絡を入れたことも一度や二度では済まない。

全幅の信頼を寄せてくる雪葉の手を振り払うことが、どうしても出来なかった。
しかし、そういう部分も甘やかしていることになるのかもしれない。

あまり甘やかすと手が付けられない事態になるぞ――と、前にゆうきから言われたこともあったなと思い出しながら、奏は琥珀色の液体を喉に流し込んだ。

「うん。決めた!私、観覧車に乗りたい。」

ぱんっと小気味良い音。
ティーカップを口元から離した奏の真正面では、手を合わせた雪葉が満面の笑みを浮かべている。
どうやら行き先は決定したらしいが、それにしても……と奏は思った。

「観覧車?」

つい確認するように繰り返してしまう。
すると、雪葉が少し口元を引き締め、まるで奏を拝むように合わせた手を唇に当てた。

「観覧車……いいでしょ?」

奏が断らないことは分かっているのだろうに、それでも雪葉はやや不安そうにみえた。

「――いや、それは構わないけれど……。そういう所は彼氏と行くものだよ、雪葉。」

「奏ちゃん、それ嫌味……? どうせ、高校生になったって言うのに彼氏の一人も出来ませんよーだ。」

頬を膨らませた雪葉は、まさにいつもどおりの彼女だ。
奏は心のどこかで何故か安堵した。それがとても不思議だったが、敢えて深く追求はしなかった。

これでいいのだと思う。

先程揺れた心は、奏の中で既に封印されてしまっていた。



Back ‖ Next

ラヴァーズ・ライン INDEX


TOP ‖ NOVEL


Copyright (C) 2003-2006 kuno_san2000 All rights reserved.