04. 不安因子 |
「あのね、奏ちゃん。雪葉、大きくなったら奏ちゃんのお嫁さんになったげる!」 艶々した髪を肩口より少し長く伸ばした小さな可愛らしい女の子が、奏に満面の笑顔を向けながら幼い口調で言った。 狭い4人乗りのゴンドラの中に居たあの時の雪葉は、幾つだっただろうか。 確かまだ小学校にも上がっていなかったな、と奏は遠い記憶を手繰る。 ―――あの時自分は何と答えたのだろう。まっすぐな瞳を向けてくる雪葉に。 「…で……なでちゃん、かなでちゃん…っ!」 「―――え?」 雪葉が奏の顔を不安げに覗き込んでいた。 奏の中で、回想していた雪葉の姿と今の姿が重なる。 どうやら大分ぼんやりしていたらしいことに僅かに混乱しながら、奏は短く息を吐くと額に手を当てた。 一体どうしてあんな昔のことを…と思い、その原因が直ぐ目の前に聳えていることに気づき微苦笑する。 赤く塗られた円形の骨組み。ゆっくりとした動きに合わせて上っていくゴンドラ。 それは奏の家から一番手近な、公園の中に据えられた観覧車の姿だった。 食後のお茶を終え暫く後。 営業開始時間を待って奏は雪葉と共にここに到着した。 が、休日ということも手伝いかなりの人手があったのだ。 しかし特に急ぐわけでもないので、二人は行列に並びのんびりと順番を待つことにしたのだが、観覧車をずっと目にしているうちに、奏の中でいつの間にか随分と遠い昔の記憶が蘇っていた。 「大丈夫? もしかして具合、悪い? ……無理させちゃった……?」 「いや、違うんだ。少し、昔のことを思い出してね。」 今にも泣き出しそうな様相で心配してくれる雪葉を安心させようと、奏が笑みを浮かべる。 だが、どうやらまだ納得していないらしい雪葉の眉間には若干皺が寄っていた。 「本当…?」 真剣に尋ねてくる雪葉の頭を、奏は軽く撫でた。 「本当だよ、大丈夫だから。ほら雪葉、順番みたいだ。」 前にいたデート中らしい若い男女の二人連れがゴンドラに乗り込むのを確認して、奏が進むよう促す。 漸く安心したらしい雪葉がこくりと頷き前に進んだ。 重い音をさせ降りてきたゴンドラ。 係員が扉を開くと、やはりデート中と思われる高校生くらいの二人が楽しそうに降りてくる。 空になったそれに雪葉を先に乗り込ませた後、奏は数年ぶりにその狭い個室の入口に足をかけた。 *** ゴンドラは一定の間隔でゆっくりと音を立て、軋みながら上っていく。 奏は向かいに座った――と、いっても座席に膝をかけて窓に額をつけている雪葉の背中越しに、変化していく景色を眺めた。 とても懐かしい気持ちになる。 見慣れた筈の景色が、視点をかえるだけでまるで違って見えることが不思議でもあった。 雪葉が無邪気に楽しそうな声を立てるのを聞きながら、奏はその一つ一つに返事をしていく。 他愛の無い受け答えだが、それが何よりも穏やかで優しい空間をそこに作り出していた。 しかし、昇りはじめてから5分になろうかという頃。 奏と雪葉の乗ったゴンドラが最も高い位置に来た時に、それまで無邪気にはしゃいでいた雪葉の声が聞こえなくなり、狭い空間に突然静寂が満ちた。 雪葉越しの景色から、横にある窓に目を移していた奏が不審に思い、雪葉に視線を戻す。 そこには、相変わらず椅子の上に乗り奏に背を向けながら外を眺めている雪葉の姿があった。 「雪葉……? ――はしゃぎ過ぎて疲れた?」 優しく小さな背中に問いかけると、雪葉が無言のまま首を左右に振る。 何かあったのだろうかと――奏は訝しげに眼を細め雪葉を見つめた。 しかし雪葉の予測できない行動はいつもの事であり、今朝からこっちふざけてはいたが、別段様子がおかしいところも見えなかった。 だが、何にせよ雪葉の雰囲気が急に変化したのは確かだ。 奏に僅かな不安が滲む。 「――雪葉?」 呼びかけると、さらりと髪が流れ雪葉が奏の方を振り返った。 穏やかな……けれど、どこか寂しげな笑みに、はっとする。 いつの間にこんな表情をするようになっていたのだろうかと、再び心が揺れた。 いつもの事なのに、何故か今日は、気まぐれに変わっているかのような雪葉の感情に驚かされてばかりいると、奏は改めて思った。 悪戯っ子の様に人差し指を口元にあて、雪葉が口を噤む奏の前でにやりと笑う。 「奏ちゃん、私さ、後5日で16になるんだ、覚えてた?」 「ああ、もちろんちゃんと覚えてるよ。」 動揺を悟られない無いよう、奏は笑みを浮かべた。 雪葉は椅子に座りなおし、身体ごと奏をしっかりと見据えてくる。 いつもと何か雰囲気の違う雪葉に、奏のペースは乱されっぱなしだった。 *** ゴンドラはゆっくりと揺れ、景色が移り変わる。 奏はとても不思議そうに雪葉を見つめている。 「私――今年の誕生日にどうしても欲しいものがあるの。」 雪葉は奏を見つめ返しながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。 どうしても欲しいもの。 だが果たして奏にわかってもらえるだろうかと、思う。 後五日。雪葉の誕生日までに奏が気づいてくれる確率は多分とても低い。 けれど雪葉に残された選択肢は、驚くほど少なくて。 娘のような存在で諦めるか、それとも奏の傍に恋人の座を得るために今の位置から一歩を踏み出すか。 雪葉が選んだのは、当然の如く一歩を踏み出す…だった。 奏の傍に、女性がいた事もある。 雪葉はそれが嫌で嫌で仕方なくて、よく我儘を言って困らせたものだ。 もしその時に拒絶されていたなら、この気持は諦められたのだろうか。 否。それはきっと無理だっただろうと――雪葉の心の中にある深い部分が告げている。 ――私に奏ちゃんを諦めるなんて、絶対に無理。 そう、諦めるということは近い将来、奏の隣に自分以外の女性が並ぶということに他ならないのだ。 「なんだ、誕生日のおねだりか。いいよ、何が欲しい?」 何故か安堵したように息を吐き出した奏が、気軽そうに請け負う。 雪葉は頬にかかった自らの髪を、そっと振り払った。 顔の前であわせた両手を口元にあて、上目遣いで奏を見つめる。 「――当ててみて。」 雪葉が謎掛けのように持ち掛けると、奏は僅かに驚いているようだった。 それもそのはずだろうと、雪葉は激しく鳴る鼓動を宥めながら表面上の平静を装う。 今まで、欲しいものは欲しいとはっきりいってきた。 それをこんな風に、まるで駆け引きをするかのような持ち掛け方を雪葉がするのは初めてなのだから。 「それは難しい。……ヒントはもらえるのかな?」 やや首を傾け、顎にその繊細な指を当てた奏がふと楽しそうに微笑む。 どうやらいつもの雪葉が突然おこす気まぐれと思っているのか、とにかく奏は雪葉との駆け引きに興じることに決めたようだ。 拒まれなかったことに雪葉が安堵する。 「私がずっと欲しかったもの。でも、手に入れることの出来なかったもの。」 「――――欲しかったもの?」 「そう。私の誕生日までに当ててみせて。楽しみに待ってる。」 雪葉の瞳が蠱惑的な色を強めた。 僅かに顎を上げ、雪葉越しの風景に焦点をあわせているらしい奏が考え込んでいる。 再び狭い室内に静寂が満ちる。 ゴンドラはゆったりと、しかし緊迫した時間を終え、出発した位置へと再び巡ってきていた。 *** ――ずっと欲しかったもの。けれど、手に入れることの出来なかったもの、か。 「叶さん、どうかされました?」 それなりに低く、けれど明るい声。 呼びかけられた奏は、じっと見つめていたディスプレイから声の主へと視線を向けた。 奏のデスクの前に立っているのは、やや小柄な人懐っこそうな青年だった。 ようやくスーツ姿が板についてきたばかりという雰囲気を思った彼は志野屋という。奏の直属の部下だ。 外見と仕事をこなす能力のお陰でどうやら話しやすくは無いらしい雰囲気を持つ奏に対して、部下とは言ってもほぼ助手のような役割を果たす彼は、生来の大らかさも手伝ってか割合気軽に声を掛けてくる。 「ん? いや……何故?」 「や、何か考え込んでいるように見えたんで。違ってたらすみません。」 奏が薄い眼鏡のレンズ越しに捉えた志野屋は、困ったように頭を掻いていた。 意外に鋭い彼の勘に、苦笑いが漏れる。 雪葉から持ちかけられた、不思議な問い。 観覧車に乗った日から、既に3日経つ。けれど一向に見当がつかない。 一体何を欲しがっているのか、それとなく雪葉に尋ねてみるものの見事にはぐらかされる。 ――やっぱり雪葉はゆうきの娘だな。 妙なところで血のつながりを実感したりもするが、解決の糸口はさっぱりだ。 おまけに他人に気取られるとは煮詰まっている証拠だと、奏自身感じていた。 「……まいったな。そうみえた?」 「―――えー、と。まあ。」 若干言いよどみながら、志野屋が頷いた。 奏は軽いため息を落とし、志野屋の姿を眺める。 入社二年目、大卒の志野屋は確か二十四歳になるところだ。 自分よりは雪葉の方が年齢的に近いなと、奏はふと尋ねてみたくなった。 「志野屋、ちょっと聞きたいんだが……女子高生が欲しいものって何だと思う?」 「じょ……、女子高生……ですか?」 奏の言葉が余程意外だったのか、それ以外に理由があるのか。 俄かには判別できないが、志野屋は目に見えて動揺していた。 *** 反復された言葉に「そう女子高生。」と、奏は頷きながら律儀に返事をした。 志野屋の口元は若干、引き攣っているようにみえる。 「――な、なんでしょうねぇ?」 はは、と乾いた笑い声。ふらふらとさ迷う視線が、志野屋の困惑を如実に語っていた。 どうやら彼の中でよからぬ想像が巡らされているらしいことに漸く気づき、奏が苦笑する。 ――確かに上司からいきなり問われるような内容では無いな。 良からぬ想いを抱いている年若い娘に贈るプレゼントで悩んでいる、とでも思われているのだろうかと奏は早々にこの話題を打ち切ることにした。 「いや、すまない。この話は忘れてくれ。」 片手を僅かに挙げこの話は終わりだと示す。 納得がいかないような安堵したような志野屋をみて、奏は苦笑いを深めながら再びディスプレイへと目を戻した。 だが、志野屋は何故か立ち去らない。 所在なげしながらも、まだ何か聞きたいことがあるらしく、奏に話掛けるタイミングを計っているようだった。 「志野屋?」 ディスプレイを見たままキーボードを叩いて、奏が志野屋へ声を掛ける。 何か仕事上の用件かとも思ったが、それなら奏に対して志野屋が躊躇することは無いはずだ。 もっとも何か失態を仕出かしたというなら別かもしれないが、今のところ志野屋に任せた作業に遅延は生じていない。 不審に思い奏がちらりと志野屋を見ると、言うべきか言わざるべきか迷っているような、途方にくれた顔をしていた。 「あの……叶さん、実は聞きたいことがあるんですが……。」 「うん?」 奏はキーを叩く手を止め、深く椅子に腰掛け志野屋に向き直った。 漸く意を決したらしい志野屋が実に言いにくそうに口を開く。 「ええと、ですね。や、私生活まで踏み込むのはどうかなとはおもうんですが…その…。」 「なんだ、煮え切らないな。はっきり言いなさい。」 やはり仕事の話ではないらしいが、奏が先を促すと志野屋は目を逸らしながら話し始めた。 「あー、はい……っ。あの――数日前、高校生ぐらいの女の子と歩いている所を……その、偶然……。」 どうやら先程奏が考えていた、年若い娘云々……の想像は当たっていたらしい。 志野屋はどこかで雪葉と歩いている奏の姿を目撃したのだろう。それで先程の質問におかしな態度を見せたのだ。 道理でと妙に納得しながら、奏はふと笑った。 「ああ、彼女は友人の娘なんだ。」 「え……っ!?あ、なんだそうなんですか……。や、てっきり……。」 てっきり……、一体その後に何が続くのやらと思いながら、眼鏡のフレームに指をかけて軽く押し上げる。 「君が想像しているような関係ではないよ。」 奏がはっきりと言い切ると、志野屋が目を大きく見開き背筋を正した。 敬礼でもしそうな勢いで、失礼しましたと頭を下げる。 「――あ。で、さっきの質問なんですが、ひょっとしてその子の欲しいものだったりします?」 「ああ。どうも試されているようでね。欲しいものを当ててくれとせがまれているところだ。」 下げていた頭をあげた途端に話を蒸し返した志野屋へ苦笑しながら、奏が軽く頷く。 一瞬志野屋が考えるように黙り込み、ちらりと奏の様子を窺うような素振りを見せた。 *** 「……それって物、ですか?」 「何かわかるか?」 「や、あの……どうも叶さんとその子の間で感情の行き違いがあるような…ないような…?」 「感情の行き違い?」 何の事を言われているのかわからず眉間に皺を寄せた奏に、志野屋は慌てたように何でも無いですと言いながら両手を振った。 しかし、こうなると納得がいかないのは奏である。 感情の行き違いとは何のことなのか、さっぱりわからない。 が、追求されそうな気配を察知したのか、志野屋はすかさず「あ!欲しいもの、指輪とかどうですか?」と提案してきた。 奏は溜息を落とすと、深く腰掛けていた椅子から身体を起こすとデスクの上に肘をつきながら小さく呟いた。 「指輪か。それも考えたんだけれどね……。」 「駄目ですか?」 「……いや、駄目というわけじゃないが……。」 何か、しっくりこないのだ。 雪葉の寄越したキーワードに一致しない気がして仕方が無い。 『ずっと欲しかった、けれど手に入れることが出来なかった』 それに、もし欲しかったものが指輪であればこんな風に言うだろうかと、奏は再び堂々巡りの考えに嵌りこんでいく。 常であれば、また雪葉の気まぐれだろうと奏もここまで気にすることは無かっただろう。 だが今回の雪葉はいつもと違っていた。軽い気持で対応してはいけないと奏の中で何かが訴えている。 タイムリミットは、後二日。 果たしてそれまでに正しい正解を導き出せるのだろうかと、奏は掛けていた眼鏡を外し軽く目元を押さえた。 視界が閉ざされ、目の奥が僅かに痛む。 その中で奏の耳に聞こえてきたのは、志野屋とは異なる低くやや掠れ気味な響きだった。 「叶、ちょっといいか?」 奏が目を開けると、そこには奏と同期であり同じ部署に所属している男が佇んでいた。 「市ノ瀬――。ああ、すまない、志野屋その話はここまでだ。これを仕上げておいてくれるか?」 素早く眼鏡を掛けなおし、奏が椅子から立ち上がる。 デスクの上にあった資料の束を簡単に纏めると、まだそこにいた志野屋に手渡した。 「はい、今日中ですよね?」 「頼む。」 短く言い残し、奏は市ノ瀬と呼んだ男と共に足早に席を離れた。 一方、後に残された志野屋は、奏の後姿を見送りながらやれやれと溜息をついた。 二人の姿が見えなくなったところで、手渡された資料に一度目を落とし、再び溜息。 「――友人の娘さんかぁ。……その認識があれなんだと思うんだけどなぁ、多分欲しいものって物じゃないよな……。」 ぽつりと志野屋が呟く。 呟かれた言葉が誰のみ耳にも届かなかったのは言うまでもない。 *** 幾つかに区切られたフロアの中にある休憩室の一つ。 壁の一面となっている嵌め込み式の窓ガラスからまだ昇りきってはいない陽の光が入り込んでくる。 明るく照らしだされた室内、その中に奏と市ノ瀬はいた。 窓に面する壁に並んでいる自動販売機の前から奏は紙コップに入った珈琲を手に、窓際にいる市ノ瀬の隣へ並ぶ。 時間も時間だけに奏と市ノ瀬以外人は居なかった。 既に手にしていた珈琲をのんびりと啜っている市ノ瀬を一瞥した後、奏はガラス越しに見える景色に目を向けた。 六階から望む景色の中に特別目新しいものは無い。常と同じ物ばかり、特別な感慨も沸かない。 けれど今の奏は、常とは違いとても苦い気分だった。 「――何かわかったんだろう? 市ノ瀬。」 窓に寄りかかり、奏は珈琲に口をつけた。 横に並んでいた市ノ瀬が、奏を見遣り溜息をつく。 その様子を見た奏の頭に、矢張りという言葉が掠めた。 「ああ……やっぱりお前の言った通りだったよ。」 半ば以上わかっていた事だと言うのに、市ノ瀬の返答にやや瞑目する。 市ノ瀬がスーツの内ポケットから取り出したUSBメモリを受け取りながら、奏では自分を落ち着かせるように息を吐いた。 「……そうか、――残念だ。」 予測していたこととはいえ、どうにも後味の悪さは拭えない。 「狩元も馬鹿なことをしたもんだな……それで、どうするんだ?」 「報告するしかないだろう。機密データを一部とはいえ持ち出したんだからな。」 狩元――それは奏と市ノ瀬の同期である男のことを指していた。 奏や市ノ瀬と共に、同期の中でも優秀な部類に属している。 近頃はめっきり減ってしまったが、入社当時、奏と市ノ瀬、狩元はよく飲みに行くような仲だったこともある。 快活でよく喋る男だった。 数ヶ月前から、ヘッドハンティングされているのは知っていた。 だからおそらく今回のこれは、他社に移るための手土産なのだろう。 どれほどの条件が提示されているのかはわからないが、それなりの地位は約束されているのかもしれない。 しかし、どうあってもデータの流出だけは押さえなければならない事態だ。 他社に先手を打たれるわけにはいかないということも勿論あるが、持ち出されたデータの中には顧客情報も含まれている。 信用の失墜にもなりかねない危険をすら孕んでいるという状態では、見逃せるはずも無かった。 社外秘のデータが保存されているデータベースへのアクセス数の多さに最初に気づいたのは、一月程前のことだ。 アクセス数自体は特に気にするほどでもなかったのかもしれない。だがアクセスされるデータ内容が問題だった。 社外秘の中でも一部の社員しか閲覧出来ない最高レベルのものばかりに集中していた。 だから、相談を持ちかけた。長い付き合いの市ノ瀬を信頼できると踏んで。 事は信用問題にも関わるだけに、出来れば大事にはしたくないと考えた上での判断だった。 上司に報告をするにしても、何か確たるものを掴んでからだ、と。 そして、調べ始めてから現在に至り、漸くその確証を得た。 奏は、市ノ瀬から先程渡されたUSBメモリをじっと見つめる。 これには、不正アクセスの証拠となるデータがは記録されているはずだ。 「損な役回りだな。」 市ノ瀬の同情を含んだ響きに、奏は俯いた。 この件に関しては、あくまでも市ノ瀬は協力者であり矢面に立って行動するのは奏だ。 恨まれるだろうが、仕方が無いことだと割り切らなければならない。 「――助かったよ、ありがとう。」 中身を飲み終えた紙コップを片手で握り潰しながら、奏が寄りかかっていた柱から身を起こす。 先に戻るぞ、と声をかけると、まだ紙コップに口をつけていた市ノ瀬がひらひらと手を振った。 紙の塊となったコップを出入り口付近にあるダストボックスに放り込み、奏は区切られた空間から抜け出そうとする。 「――本当にあいつは……馬鹿だ。」 背後で苦々しく市ノ瀬が呟いた言葉に、奏はだた沈黙で答えるしかなかった。 *** 「……ちゃん? ……なでちゃん、おーい、かーなーでーちゃん!」 突然耳元で呼ばれ背後を振り向くと、腰に手をあて呆れたように奏を見下ろす制服姿の雪葉がいた。 「雪葉? いつの間に?」 「さっきから来てたよ。でも奏ちゃんってばちーっとも気づいてくれないんだもん。眉間に皺寄せてすっごく難しい顔してるしさ。」 鞄を床に置いた雪葉は頬を膨らませながら奏の向かいに座ると、手早くテーブルの上にあるポットを取り上げ、置かれていたカップにお茶を注ぐ。 仏頂面でお茶を飲んでいる雪葉を見ながら、奏は椅子に背を預け片手で額を押さえた。 普段であれば雪葉が来て気づかないということはありえないというのに、如何した事かと深い溜息を落とす。 「ごめん、ちょっと考え事をしていてね。」 すっかり冷めてしまったお茶に口をつけた。それに倣ったように雪葉も口元に白磁のカップを運ぶ。 「奏ちゃん、何かあった?」 「いや、なんでもないんだ。――それよりも雪葉、まだ教えてもらえないのかな?」 唇にカップを当てたままじっと窺っている雪葉に笑みを返しながら、奏は話題を変えた。 何を、という主語が抜けた台詞。だが、何の事を言っているのか雪葉に通じないわけが無い。 これ以上追求して欲しくないことを感じ取ったらしい雪葉が、やや眉間に皺を寄せる。 しかし奏の意を汲んだ雪葉はそれ以上尋ねることなく、唇を尖らせながら「だーめ。」とそっぽ向いた。 「当ててって言ったよ、私。」 「そうは言ってもね。欲しいものじゃ無かったら買っても無駄になるだろう?」 素気無くあしらわれてしまい、奏は苦笑いするしかない。 何故ここまで頑なに”当てる”という行為に雪葉が拘るのかさえ掴めていないというのに、欲しいものなど皆目検討がつかない。 一体いつの間に、こんな風に考えを読ませないようになったのか。 雪葉が”奏ちゃんが好き”と全身で顕していたのはそう古くは無い記憶だと思うのだが、今はそれも少し覚束無い。 「いいよ。奏ちゃんにもらえるものなら、欲しいものじゃなくても嬉しいもん。」 「……なかなかプレッシャーだな。」 楽しそうな雪葉に対して、溜息をついてみる。 困らされるのも、甘えられるのも嫌なわけではない。 寧ろ何気ない雪葉との遣り取りに和まされることも多々ある。 が、今回の”お願い”はいつもと何かが違う気がしてならない。 「ふふん、いっぱい悩んで。あー、明日が楽しみ。」 「――善処しよう。」 気位の高い猫のように気ままな雪葉。僅かに細められた瞳が一層それを強調している。 将来現れるであろう雪葉の伴侶はなかなかに大変な思いをしそうだと内心思いながら、奏はテーブルの上に置かれたポットに手を伸ばした。 が、奏よりも早く、雪葉がそれを手に席を立つ。 「お茶の葉、変えてくる。もう薄いよ、これ。」 空いた手で白磁のポットを指差した後、キッチンの方向へ歩き出した。 背中の中ほどまである髪がさらりと揺れる。 キレイなラインを描いた背中の線。それに続く白い足。 ――雪葉の方が昔の華より少し小柄かもしれないな……それにしても。 「雪葉、足……出しすぎじゃないか?」 雪葉の背中を見送っていた奏は、僅かに眉宇を顰めた。 幾ら紺色のハイソックスで膝下が覆われているとはいえ、如何せん更にその上の膝上部分からスカートまでの距離があり過ぎる。 真剣な面持ちで問う奏に、雪葉が驚いたような表情で自分のスカート部分を見下ろす。 そのまま暫し。 何やら考え込んでいたと思った雪葉は、ぱっと顔を上げると急に笑い出した。 「これくらい普通だよ。やーだ、奏ちゃんってば、パパみたい。」 パタパタと手を振りながら、揶揄する。 一方奏はというと、パパ、の部分で絶句していた。 確かに華より二つ上の自分に、雪葉ぐらいの子供がいても年齢的には問題はない。 無い、が。あのゆうきと同じ事を自分が……? と、考えるとかなり引っ掛かりを覚える。 「ん? どーかした?」 「――いや……それは、年齢的には雪葉のパパでもおかしくはないけれどね……。」 肩を落としながら――、でも内心の葛藤はしっかり抑えつつ奏が答える。 と、それまで楽しそうにしていた雪葉の表情がゆっくりと消えた。 「――雪葉?」 不思議に思い声を掛けるが、雪葉はじっと黙り込んだままただ立ち尽くしている。 どうしたのかと、奏は椅子から立ち上がろうした。 「奏ちゃん。」 雪葉がテーブルの上にポットを置き、唐突に歩き出した。 やや腰を浮かせた奏の肩に、軽く足を運びながら正面に回り込んできた雪葉の指が触れる。 奏を椅子に押し戻した細い腕は――そのまま首に回された。 僅かに空いた椅子の隙間に、雪葉の片膝が掛けられる。 ゆるく首を傾げながら小悪魔的な笑み。 見下ろされた奏の頬に、雪葉のさらりとした髪が触れた。 「スカートの丈、長くした方がいい? もしかして悩殺ちゃう?」 僅かな、間。 眼鏡の奥の目を何度か瞬かせ、奏は噴出した。 「……雪葉、勘弁してくれ……。」 片手を上げて雪葉を制止しつつ、奏は笑いながら切れ切れに告げる。 この間と同じ手だ。 雪葉のまだ幾分ぎこちなく幼い色仕掛けに二度も引っかかる程、奏も経験が浅いわけではない。 丁度、自分を大人びで見せることに興味のある年頃なのだろうと、自分の中で納得のいく答えは既に見出している。 この反応に雪葉はだいぶ驚いたらしい。 目を見開いて呆然としていたが、状況を理解した途端むっと口を尖らせた。 「……笑い過ぎだから、奏ちゃん。」 興をそがれたらしく、奏の傍から離れると再びポットを手に踵を返す。 奏は眼鏡を押し上げて、滲んできた涙を指で拭った。 「いや、ごめん。寒くないのかなと思ってね。」 「寒いよ! でもそこは気合と根性と若さでカバーなの! だって今だけだもん、こーゆう格好。」 背中を向けていた雪葉がくるりと振り向いて、舌を出す。 奏は今度こそ椅子から立ち上がると、目を細め雪葉の頭をくしゃくしゃと撫ぜた。 何の事は無い。雪葉はまだまだ子供なのだ。 それに、自身が年を重ねた今は、胸を張って若さゆえと理由を言い切れる雪葉が少し羨ましく感じられた。 「若さね……確かに雪葉は若いよ。」 「変なの、奏ちゃんだって若いでしょ?」 「そうかな? 雪葉からみたらもうおじさんだろう? でも、ここは素直に喜んでおくべきだろうね。」 幾分拗ねた顔で、雪葉は呆れたように奏を睨め付ける。 「当然。それに奏ちゃんは、全然おじさんなんかじゃないからね! おじさんっていうのは私のパパみたいな人なの!」 語調を荒げ、手にしたポットで奏をびしっと指し示した後、雪葉はそっぽを向き足音高く歩き出した。 ――どういう基準でゆうきをおじさんと言っているんだか是非聞いてみたいな。 奏が笑いを堪えながら、肩を震わせる。 「それと! 覚えてて、明日はね、ぜーったい奏ちゃんを吃驚させてちゃうんだから。」 数歩言ったところで雪葉が足を止め、勢いよく振り返るなり今度は声高に宣言した。 腰に片手を当て胸を張る姿は元気そのもの。 姿は似通っていても、華であれば絶対にしないであろう言動。 「――わかった。じゃあ、明日は早めに帰るとしよう。雪葉へのプレゼントと一緒にね。」 「うん。」 嬉しそうに破顔した雪葉に、奏は胸が温かくなるのを感じた。 *** 「奏ちゃんの馬鹿……パパなんかじゃ――ないんだから。」 自室のベッドの上。膝を抱えながら雪葉が溜息を落とす。 時刻は疾うに夜半を過ぎた。 事実、サイドボードの上に置かれた目覚し時計の長針は、頂点よりも大分進んでいる。 今日は、十六歳になった雪葉が迎えた最初の一日目。 ――やっと十六。ママがパパと付き合いだした歳。ママが十六の時、パパにとってママはそういう対象だった。なのにどうして私は奏ちゃんにとってそういう対象になれないんだろう。 両膝の上に顔を埋めながら、雪葉は目頭が熱くなるのを感じた。 「笑ってかわさないでよ、馬鹿。」 決死の覚悟で奏の首に腕をまわした。引き攣りそうな口元を誤魔化す為に笑んで見せた。 それなのに奏は動揺すらみせず、笑って雪葉を拒絶したのだ。 もちろん奏に拒絶したという意識があったとは思えない。 けれど雪葉にとってあれは拒まれた以外のなにものでもなかった。 ――私のこと、子供だって……きっと思ってる。 パジャマ越しの膝が、零れ落ちた雫で湿っていく。 ――仲の良い幼馴染二人の娘なんていう立場はもう嫌……だから私は一歩を踏み出すよ、奏ちゃん。 雪葉は膝を抱え蹲ったまま、嗚咽を噛み殺した。 「じゃあ、十六歳の誕生日おめでとってことで、皆良い?せーの!」 少し高めなハスキーボイス。けれど、声の持ち主は意外な事にすんなりした手足と細面で大人びた顔をした女子高生だった。 右手には炭酸飲料らしき飲み物が入ったグラスを掲げた彼女の一声で、扇情に坐っている数人の少女達が一斉に「雪葉、おめでとうー!」と声をあげる。 放課後の事。 数人の女子高生が集っているのは、彼女達の通う学校近くの小さなカラオケボックスの一室。 その中は、もちろん本日の主役である制服姿の雪葉の姿もある。 前から決まっていたわけではないのだが、朝学校に着いた途端仲の良い友人数名に誘われ、夜はどのみち奏が帰ってくるまでは時間があるしと、雪葉はその誘いにのることにしたのだ。 「ゆーきは、お誕生日おめでとさーん。」 先程先陣を切って音頭を取っていた少女、みっちゃん、こと杉崎 美郷が雪葉の顔の前に翳しているのは、丁寧にラッピングされた薄桃色の包み。 「みっちゃん、さすが友達。 ありがとうー!」 両手で恭しく受取ると、雪葉はさっそく包みを開けた。 そこに鎮座していたのは人差し指サイズの筒。 しかも深い紅色のリボンでぐるぐる巻きにされている為、一体何であるのかさっぱりだ。 「……て、これ……何?」 不審な面持ちでテーブルの上に広げられた包みを雪葉が指差す。 それを見た美郷は得意満面な顔で筒の端部分――恐らく結び目と思われる――を指でつまんで引っ張った。 回転しながら巻かれていた細いリボンが勢い良く解けていく。 そして姿を現したのは、細いメタリックシルバーの丸い筒。 雪葉が前に欲しいと言っていたリップグロスだった。 「あ、かわいー。」 テーブルの上をころころ転がるグロスを手にした雪葉に、美郷が「でしょ?」と笑顔を見せる。 「一応ここにいる皆の連名ね、それ。」 「了解。皆もありがとねー!」 既に一人が歌いだしている喧騒の中、雪葉が声を張り上げる。 と、まわりからはどう致しましてと盛り上がり始めた雰囲気そのままに軽く返事が戻ってきた。 ――これって、私を出汁にして皆遊びに来たかっただけじゃないの? 「あ、でも、このリボンって何の為だったの?」 苦笑いでグラスを手にしながら、素朴な疑問、とばかりに雪葉は隣に居る美郷の耳元で尋ねてみた。 と、美郷が「プレゼント用」とさらりと答える。 「プレゼント用?こんなにぐるぐる巻きにして?」 「そ。雪葉、ちゃんと使ってね、それ。グロスもリボンも。ちゃんと自分に巻いてプレゼントするんだよ?」 「――え?」 「告白するんでしょ、今日?」 雪葉の心臓が、どくりと大きく打った。 確かに美郷には好きな人がいると言ったことがある。けれど今日の事は誰にも言っていない。 自分ひとりの胸の内で考え決意した。 何故、と雪葉が目で問い掛ける。美郷は頭をかきながら、呆れたように肩を竦めた。 「みずくさい、わかるっての何か悩んでたことくらい。それに前、母親が十六で父親と付き合いだしたっていってたし。」 淡々と言われ、言葉に詰まる。 出来るだけ表には出さないようにしていたつもりだったが、そんなに判りやすかったのだろうかと、雪葉は力なく背もたれに身体を預けた。 「何も手伝えないけどさ、頑張っといで。」 「うん……ありがとね。」 「それでもし玉砕したらまたカラオケこよ。」 「うん……でもそれ不吉なんだけど……告白前から玉砕って。」 項垂れたまま乾いた笑いを漏らした雪葉に、美郷は気にしない気にしない、と豪快に笑う。 自分の中だけの決意だったはず。けれどそれを誰かがわかってくれている――。 昨夜は、例え奏に拒まれたとしても自分は大丈夫だと、迷惑をかけるような真似はしないと、何度も自らに言い聞かせていた。 けれど、今は――張り詰めていた何かが少し緩んだような、ほっとした思いだった。 「本当に……ありがとね、頑張るよ。」 俯きながらの雪葉の小さな囁き。 それは周りの騒々しさに打ち消され誰の耳にも届くことはなかったが、確かに雪葉の素直な思いが宿っていた。 |
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