05. 崩壊 |
身体の芯まで凍りつくのではないかと錯覚する程に冷えた空気。 肺の中に深く吸い込んだそれは、雪葉の口から白い呼気となって吐き出される。 辺りをすっかり闇が包み込んだ宵の口。 雪葉は通い慣れたマンションの一室に入るべく、携帯電話に付けられた長いリードの先にある鍵を玄関扉の中央右寄り部分にある鍵穴に挿し込もうとしていた。 けれど悴んだ手はなかなか思い通りに動いてはくれず、鈍く光る鍵は鍵穴のついた鉄製のプレートに当りカチカチと金属質な音をたてるばかり。 このままでは埒があかないと、雪葉は一旦諦め、たっぷりと巻かれたマフラーの中に細い首を竦ませながら、悴んでしまった手を合わせて息を吹きかけた。 「……奏ちゃん、もう帰ってくるかな……」 ぽつりとひとりごちる。 どうやら奏はまだ帰っていないようで、着いて直ぐに押したインターフォンには何の反応も無かった。 昨夜は早く帰ると言っていたが、奏の基準で計られたそれは雪葉にとって充分遅い時間となることもしばしばだ。 項垂れながら、溜息をひとつ。 ――でもお仕事だもん。無理いえないなんてことはわかってるけどさ。 気を取り直し、再び鍵を取り上げ挿し込む。 今度はすんなりと小さな鍵穴に吸い込まれ、カチリと収まった。 「うー、寒……と……メール!」 身体の震えを覚えながら玄関に入り込み鞄を置いて靴を脱いだところで、雪葉の手にしていた携帯電話から陽気な電子音が流れはじめた。 メールの着信を伝える音楽に、慌てて小さなディスプレイを覗き込む。 届いたメールは案の定待ち望んでいた相手からで、本文には用件のみが簡潔に記されていた。 『もう少しで帰る』 自分の勘が当ったことに苦笑いしながら、雪葉は小走りでリビングへ向かった。 室内はとても冷え込んでいた。 両手で自分の身体をさすりながら、暖房をつけキッチンへ。 小さめなケトルに水を張り、クッキングヒータの上にのせる。 ――帰ってくる奏を暖かく出迎える為に。 今はまだ奏のたった一人の女性にはなれなくとも。 それでも奏に寂しい目をして欲しくは無くて。 例え奏が自分に求めているものが自分とは違うのだとわかっても、これだけは変わることの無い雪葉の思いだった。 そしてケトルから白い蒸気が噴き上げる頃。チャイムが鳴った。 「――あー……、奏ちゃん?」 勢い良く流れる湯気を眺めていた雪葉の顔が笑顔に変わる。 ケトルへの加熱を止め、キッチンを飛び出した。 こうして雪葉が居ることがわかっている時、偶に奏は雪葉が出迎えることを楽しむようにチャイムを鳴らす。 しかもそういう時は、雪葉へのプレゼントを抱えていることがほとんどだ。 それは、お菓子だったりぬいぐるみだったり。 「奏ちゃん、おかえりなさい!」 だからこそ雪葉はなんの躊躇いも無く扉を開いた。そこに待ち望んだ人がいる事を疑いもせず。 けれど、雪葉の浮かべた満面の笑みが消えるのに時間はかからなかった。 「あ、と……すみません、どちら様でしょうか……?」 開け放たれた扉の向こうに居た人物。それは雪葉にとってはまったく見知らぬ男。 困惑しながら首を傾げる雪葉を、男は驚いたように凝視している。 「へえ? アイツ本当に女子高生を囲ってたのか。結婚しないと思ったら、いいご身分だな。」 「……え?」 男の口元が醜く歪み、笑みを模った。 瞬間、雪葉の肌がぞっと粟立つ。 「あの、奏ちゃん……叶はまだ帰ってませんけれど……。」 「ああ、いいんだ。用があるのはあんただからな。」 男の腕が伸び、開いた扉の縁を掴んだ。 雪葉が短い悲鳴を上げ、力の限りドアノブを引く。 しかし雪葉の力で叶うはずも無く、扉は簡単に開かれ男が室内に入り込んできた。 肩をつかまれる。 「や…っ!」 「いいじゃないか。叶にはやらせてるんだろ? 俺にも試されてくれよ。もうどうなったっていいんだよ、あいつのお陰で俺は……っ!」 「や! ……いやだったら…! や、だ! 奏ちゃ…っ!」 間近で感じた男の呼気は、酒気を多量に含んでいた。 鼻腔を刺激する匂いに咽こみながら、肩を掴んでいる手を引き剥がそうと必死にもがく。 が、抵抗は意味を成さず、雪葉は壁に背中を押し付けられ、痛みに顔を顰めた途端、スカートの裾からは男の手が入り込んできていた。 腿を撫でられ、嫌悪で総毛立つ。 自分の身に何が起きようとしているのか、混乱の極みに達しながらも懸命に理解しようとしていた冷静さはこの時吹き飛んだ。 視界に入ったのは先ほど玄関に置いたままにしていた鞄。 「……離してっ!」 僅かな隙を見て身を屈め手にした鞄で、雪葉は思い切り男の顔を殴りつけていた。 「……っ! ……このっ!」 男が短いうめき声を上げ、雪葉を睨み付ける。 パンっと乾いた音が、雪葉の耳に……否、頭に、響いた。 視界が朱に染まり、ぐらりと床が揺れる。 男に頬を叩かれたのだと雪葉が気づいたのは、床に倒れこんだ後だった。 口の中に鉄の味が広がる。 咄嗟のことで歯をくいしばることも出来ず、口の中が切れたらしい。 けれど今の雪葉にそんなことを気にしている余裕は一欠けらすら残ってはいなかった。 床に倒れ付した雪葉の上に、男が圧し掛かってくる。 全身で押さえつけられ、身動きが出来ない。 多量のアルコール臭に、眩暈がした。 ――厭だ! やだ、厭……っ! 男の唇が、暴れる雪葉の唇を塞いだ。 *** 「叶、まだ仕事か?」 切りの良いところで仕事を終え、そろそろパソコンの電源を落とそうとしていた奏の肩を親しげに叩く手があった。 奏が椅子の背に軽く肘を乗せ振り返れば、そこにはすっかり帰り支度を整え終わっているらしい市ノ瀬が親しげな笑みを覗かせていた。 「今日の飲み会、お前も行くんだろ?」 「いや、悪いが今日は先約があるんだ。」 「何だよー、付き合い悪いな。あー……これ?」 パソコンの電源を落としながら答えた奏に、何事か含みのある言い方をした市ノ瀬が余り行儀のよろしくない笑顔で小指を立てる。 それが何を指しているかなど聞き返すまでもなく、だが市ノ瀬のその態度はいつもの事だと曖昧な笑みを零しながら奏は黙殺した。 見渡すフロア内の人影は、普段よりもかなり少ない。 奏は既に断りを入れてあるが、今朝、事務員の女性から誘われた部内の飲み会がそろそろ始まる頃合なのでそれも当然だろう。 逆に言えば、参加するはずの市ノ瀬がまだ社内に残っていることの方が些か腑に落ちない。 「なんだよ、否定無しか。で、今度はどんな女?」 無言のまま書類を手早く片付けはじめた奏の態度を、市ノ瀬は肯定と受け取ったらしかった。 野次馬根性を隠そうともせず興味津々という様子でデスク上に乗り出してくる。 奏は呆れた気配を隠そうともせずに嘆息を漏らすと、机上に広がっていたものを手早く片付け、まとめて引き出しの中に収めて施錠し席をたった。 「生憎とお前が想像しているような艶っぽい話ではないよ。それよりも仕事押してたのか? もう開始時間、間に合わないだろう」 鞄を片手に、市ノ瀬に自分の腕時計を示して見せる。 「――あー……、いや……まあ、あれだ。ちょっとお前と話しときたくて、な……。」 疑問を口にした奏に対し、市ノ瀬は歯切れ悪く顔を背けた。 しかし、話があるといいながら、市ノ瀬は何故かそのまま黙り込んでしまう。 奏の表情が俄かに曇る。 そして暫く間を置いてから一言「知っている」と呟いた。 市ノ瀬が何を話そうとしているのか、奏には大方の予想はついていた。 同僚の歯切れが悪くなった原因、それは今の状況ではただ一つの事以外考えられない。 「――狩元の事だろう? 部長から話があったよ。」 「……ああ、そうか……いや、そうだよな……。」 奏から話を切り出された事に安堵したのか、市ノ瀬が詰めていた息をほう、と漏らした。 狩元の不正は、既に上司へと報告し終わっている。 事が事とは言え被害が無かったことが幸いし、依願退職という処置で事態を収めることになったと今日知らせがあったばかりだ。 今はまだ有給休暇を消化中ということで、退職することを知っているのは極限られた人物のみであるはずだが、市ノ瀬は何処からか情報を仕入れてきたらしい。 「――狩元、これからどうするんだろうな。」 「――さあ、どうするんだろうな。」 市ノ瀬の、どこか罪の意識を感じさせる問いに奏は素気無く答えた。 不正を告発するときに既に腹は括っている。仮にも同僚なのだ。悩みもしたし、どうすべきかも考え尽くした。 直に訓告しようかとも思ったが、ここ暫くみせるようになっていた狩元の頑なな態度に阻まれそれも叶わなかった。 だからこそ、奏はこの決断を後悔しようとは思わなかった。 人の居ない区画は照明が落とされ、活気の消えた静けさが一層感じられる中、息苦しい空気が流れる。 「あれ、叶先輩、まだいたんすか。てっきりもう誰も居ないかと。もー会議が、長引いて長引いて……。」 それを打ち破ったのは、パーティションの角から突然現れた志野屋だった。 *** 「――志野屋……お前こそまだ居たのか」 姿を見せたと思ったら延々と会議の彼是を言い募る志野屋に毒気を抜かれ、奏は唇の端に笑みを覗かせた。 どうやらそれは市ノ瀬も同様らしく、凝った肩をほぐすように何度か首を回すと、猶も喋り倒している志野屋の頭を勢い良く叩いた。 「いって! 市ノ瀬さん、何するんですか! 」 「まあ、そう愚痴るなよ。今日は飲め飲め、愚痴ってたってどうしようもないだろ? んじゃ、行くか」 「……まあ、そうですけど」 市ノ瀬に叩かれた頭を片手抑えながら、まだ幾分納得がいってはいないらしい志野屋が更に愚痴をこぼす。 しかし一之瀬の方はまったく気にしている様子もなく、さっさと背を向けると歩き出してしまった。 「あ、叶。途中まで送ってけよ。どうせ帰り道だろ?」 ふと思いついたというように振り返り、人の悪い笑顔で要求してくる市ノ瀬に、奏が肩を竦める。 それを承諾と受取ったらしい市ノ瀬は再び背を向けると、今度は振り返ることなく歩き去ってしまった。 恐らく駐車場で待っているつもりなのだろうが、その余りにせっかちな行動に、奏は遠ざかる背中を溜息で見送った。 「志野屋、お前も行くんだろう? 乗っていくか?」 傍で所在なげに佇んでいた志野屋に声を掛けながら、奏が片手に持った車のキーを軽く揺らす。 すると先程の不満顔は何処へやら、志野屋は喜色満面の笑みをみせ「え、いいんですか? じゃあ、遠慮なく。」と頷いた。 「乗っていくなら早くしろよ。置いていくぞ。」 なかなかに物怖じしない志野屋の態度に苦笑いで奏が急かすと、志野屋が近くにある自分の席に戻って鞄と共にあっという間に戻ってくる。 雑談を交わしながら席を離れ、ジャケットやコートをかけることが出来る程度の簡素な更衣室で各々のコートを手にとると、二人は並んで歩きながら人気のないエレベーターホールまで進んだ。 「叶先輩、今日は何か用事でキャンセルですか?」 まだエレベーターが一階にいることを示しているランプが点灯しているのを確認したらしい志野屋が鞄を床に置き、コートに袖を通しながら奏に尋ねてきた。 「ああ、ちょっと所用でね。」 「あー、彼女ですか? いいっすね、俺も作ろうかなぁ。あ、来たみたいですよ。」 奏の答えも聞かず、コートを着終え、いそいそと鞄をつかんだ志野屋が冗談めかして言いながら無人のエレベータに乗り込む。 開ボタンを押して奏を待っている志野屋をじっと眺めながら、何故自分の周りにはこう話を聞かない人間が多いのかと、奏は諦めと共に思った。 しかしそれ以上に、自分が用事があるというと何故か必ず女性に結び付けられるのは非常に納得が行かなかったのだが。 生活態度に何か問題でもあるのだろうかと半ば本気で考え込みつつ、不思議そうな面持ちで志野屋が待っているエレベータの中へ足を踏み入れる。 実際に今、奏が向おうとしている先にいるのは確かに女性はあるが、奏にとってはそうではない。 そうではない、はずなのだ。けれど、市ノ瀬も志野屋もまるで――。 ――まるで? ……馬鹿なことを考えているな。雪葉は雪葉だ。 それ以外の何者でもないと、浮かんだ考えを軽く頭を振りながら追い払う。 雪葉には、市ノ瀬に声を掛けられる前にメールを入れてある。 今頃きっと、部屋の明りをつけて薬缶を火に掛けているに違いない。 そして奏が戻ったら、いつものように感情をいっぱいに表した笑みで奏を出迎えてくれる。 幸せだと思った。胸の中は、陽光を浴びたように暖かい。 だからこそ奏は、今の関係を壊す事を自分が心のどこかで畏怖しているということに、気づいてはいなかった。 *** 「で、今日はどこで待ち合わせなんだ? 二次会で襲撃してやるぞ?」 走り出した車の中、ちゃっかりと助手席に収まっている市ノ瀬に揶揄れ、奏はハンドルを握りながら嘆息した。 どうにも奏に対する誤解は解けてはいないらしく、あれだけ否定したにもかかわらず、すっかり女性と密会でもするかの如くという様な扱いとなっている。 「だから本当に違うんだ。今日は一旦家に帰るし、約束しているのは古い友人の娘だよ。」 ある程度の情報は渡してしまおうと、奏は事実を告げた。 だがここに思わぬ落とし穴があった。後部座席に乗っている志野屋が身を乗り出して会話に加わって来たのだ。 「あ、もしかしてこの前話してた子ですか? 女子高生の。」 「あー、なんだよそれ、俺は聞いてないぞ? 子供って女子高生なのか?」 「志野屋……。」 嬉々として話に飛びついてきた市ノ瀬に奏はやや頭痛を覚える。友人の娘といっておけば小さな女の子だと思われると思ったのだが、志野屋に雪葉と歩いている姿を目撃されていた事を失念していたのは失敗だった。 「……やべ、もしかして拙かったですか。」 呆れながら嘆息した奏をみて、今更ながらに志野屋がしまったと片手で額を覆った。 「あー、すみません。でも良いじゃないですか、この際ぱーっとカミングアウトで。無茶苦茶可愛かったですよね、あの子。」 場を取り繕うように志野屋が片笑む。 信号につかまりゆっくりと車を減速させた奏は、二人を降ろす店の前まで後どれ程時間がかかるかを頭の片隅で考えながら、さてどう答えればこの話題を打ち切る事が出来るだろうかと思案していた。 「だから、そういうことじゃないと何度も言っているだろう。」 「いやいや、大丈夫ですって、多少の年の差は。叶さん実年齢より若く見えますし、女子高生でもいけますって」 「いやいや犯罪くさいだろ、それ。」 二人の好き勝手な言い草を聞き流しながら、奏は切り上げるはずの会話が何故か深みに嵌っている気がしてならなかった。雪葉を恋愛対象とは到底考えられない。だというのに周囲からはそう見られてしまうという事実があるというのもまた現実なのだ。 今までも気づいていながら、あえて考えないようにしたのかもしれない。 雪葉は一人の女性と言える年になっている……少なくともまったくの子ども扱いを出来ない程度には。 気軽に部屋に上げ、せがまれれば休日に二人で出かける。 もうその関係を見直すときなのだろうと、奏は寂寥を感じながら思った。 「で、本気で付き合ってるのか?」 「そんなわけないだろう――まったく、絶対にお前がそういう反応をすると思ったから何一つ言いたくなかったんだ。」 真顔で尋ねてきた市ノ瀬に、奏がちらりと視線を流し否定する。 再び変化した信号にゆっくり車を発進させ、交通量の多い繁華街の大通りを外れた路地に入り込んだ。 「――だよなぁ、未成年じゃ手は出せないか……。」 やけに感慨の篭った市ノ瀬の呟きだった。 「なんだ、やけに実感が篭ってるな。お前こそ心当たりでもあるのか?」 冗談交じりに奏が揶揄すると「まさかだろ。そんなリスキーな真似はしないさ」と市ノ瀬は肩を竦めた。ふざけたところのある男だが、その実、堅実な一面もあることを知っているだけに、これには奏も納得するしかなかった。 リスキーな真似、市ノ瀬の言い様は至極最もだ。だが、奏は過去に一人それをやってのけた男を知っている。しかも相手は奏の最愛の女性だった。 奏は二人が共に想い合っていることを知っていた。ただすれ違っていただけだという事も。 簡単に渡したくはなくて、自分のずるさと醜さに嫌気を覚えながらもどうにも出来ずに足掻いて負い目につけ込んで、若気のいたりというにしても卑怯な真似をした。 ――ゆうきが、何年も思い悩んで華の成長を見守っていた事を知っていたのに、だ。自分に華を奪われるかもしれないと思っていた事も。 それが馬鹿馬鹿しい勘違いだと奏はわかっていた。華が見ていたのはたった一人だけ。直向にずっと自分の心を押さえ込んで、一人だけを想っていた。でなければ、奏が華を諦めていることはなかったはずだ。 「まあ偶には若い子と遊んでもらってこいよ、ちょっとは考えが若返るかもしれないしな。」 黙り込んだ奏に対して、市ノ瀬がにやりと笑いながら言う。 この調子ではこれから何かにつけてこの話で揶揄れる事になるのは必至だと、奏は内心天を仰ぐ気持だった。 「あ……あー、でもあれですよね。市ノ瀬さんも知らなかったんですね。なるほど、それなら狩元さんも知らなくて当然すよね。」 話の流れに責任を感じたのか、奏に助け舟を出したつもりだったろう志野屋の言葉に、何故ここでその名前が出るのかと奏が眉を顰め、市ノ瀬が志野屋を振り返った。 「――狩元? おい、志野屋そりゃ何のことだ。」 「え、や……あのですね、以前に叶先輩とその子がいたところをたまたま狩元さんと一緒に見かけたんですよ。外回りから戻ってくるときに。」 市ノ瀬に見据えられ、志野屋の声に困惑が混じる。 何かまずいことを言ったと思ったらしい志野屋が慌ててはじめた説明に耳を傾けながら、奏は胸を過ぎる不安に気付いた。 「それで?」 バックミラーを素早くのぞき、奏は弱りきった顔をしている志野屋に先を促す。 「いえ、そのときはそれで終わったんですが、今日狩元さんに呼び止められて聞かれたので。」 「狩元が会社に来てたのか?」 我知らず奏は詰問口調になっていた。漠然とした不安は益々増していく。 「はい、来てました、けど……でも何だか少し様子がおかしかったです。随分荒れてるみたいな感じがして。」 言い知れぬ不安感に奏は口を噤んだ。 前に一度、酔いつぶれた狩元をマンションに泊めたことがあったことを不意に思い出したのだ。 「叶? どうした?」 市ノ瀬に肩を叩かれ、弾かれたように車を加速させる。 路肩で急ブレーキをかけた時には、流石に市ノ瀬と志野屋から悲鳴が上がった。 「おい……っ、叶、お前な!」 市ノ瀬が掴んだ奏の肩を強く引く。けれど振り返った奏の切羽詰った様子に手の力は緩んだ。 「雪葉が居るんだ……っ、すまないがここで降りてくれ!」 「は? 雪葉? 待てって! 雪葉ってお前、誰だよ? 叶!?」 「いいから、頼む!」 降りてくれと急かす奏に、市ノ瀬は呆気に取られていた。 しかし奏の鬼気迫る様子に何かを悟ったのか、静かに運転席を見返しながら後部座席にいる志野屋に指示を飛ばした。 「わかった。とにかく俺も行く。志野屋、お前は降りろ。」 「え? あ、はい!」 徒ならぬ雰囲気を感じ取ったらしい志野屋が慌ててドアを開け車を降りると、繁華街に志野屋を残して車は狭い路地を急発進した。 「……っ、おい、事故るぞ、ちょっと落ち着け……っ!」 アクセルを踏み込んだ車に、重く衝撃が掛かる。その反動でシートに市ノ瀬が沈み込む。だが、低くうめき声をあげた市ノ瀬に目もくれず、奏はいつもであれば決してしないであろう乱暴さでハンドルを繰っていた。 「市ノ瀬、頼みがある。俺の携帯がそこにあるだろ? 履歴に名前があるから。雪葉に連絡を。」 「だからちょっと待っ、」 「頼む。」 抗議は全て黙殺し、前方を見据えたまま奏が言う。 市ノ瀬は暫く物問いた気にしていたが、諦めたように奏の携帯電話に手を伸ばすと操作し始めた。 「……雪葉、だな。」 ボタンを押す電子音が何度か。そしてかすかなコール音。 この時間であれば雪葉は必ずマンションに来ているはずだと、奏は焦燥を募らせながら市ノ瀬の応答を待った。 「――出ないな。」 十数回呼出が続いた後で、市ノ瀬は僅かな険しさを覗かせながら呟いた。 ハンドルを握る奏の指の色が白くなり、力のこめられた手の甲にははっきりと筋が浮かぶ。 奏の頭はいやがおうにも最悪な事態を考えてしまう。 帰り際、何故メールでなく直接電話をかけなかったのかと、自身を責める言葉ばかりが頭に浮かぶ。 コール音のみが響く。雪葉に繋がらない。 奏の冷静沈着な仮面は徐々に剥がれ落ちて来ている。 もしかしたら寝入ってしまっているのかもしれない。何事もなければそれでいい。 けれどもしも雪葉に何かあったとしたら――奏は自分が何をするかわからなかった。 *** 呼び出し音と共に震える携帯。床の上を転がって壁の突き当りで主を呼びつづけているそれは、誰にも省みられることなく空しく電子音だけを鳴り響かせていた。 押さえつけられた両手首。 男の息が首筋に掛かる度、肌が粟立ちぞっとする。 目の淵に浮かんだ涙は零れ落ち、こめかみを伝って断続的に髪の中へと流れていく。 口に押し込められた男のハンカチは埃くさい。 余りの苦しさに咳き込むが、それすらも咽もとを過ぎることなく口の中に篭ってしまう。 既に声を出す事も出来ない状況に追い込まれている自身を、雪葉は頭の片隅で夢であって欲しいと願っていた。 恐怖に襲われる中それでも必至に冷静さを保とうと、自分の状況を理解しようと雪葉は懸命に思考を巡らせる。けれど今自分を押さえつけている男に見覚えは無い。恐らく奏の知り合いなのだとは思うが、何故自分にこんな真似をするのかは見当もつかなかった。 ――奏、ちゃん……っ! 男の手が肌を這い回る。きつく目を閉じ嫌悪感を遣り過ごそうとするが、いつまでたってもそれは拭えない。 今雪葉の頼れる拠り所は、奏からきたメール、そして今鳴っている携帯の音だけだ。 奏のメールを受取ってからかなり時間が経っている。 ならばそろそろ奏がかえってくるに違いない。 だとすればきっと今携帯を鳴らしているのは奏なのだと、雪葉は奏の帰りを只管に待ち望んでいた。 ――大丈夫、大丈夫だから。奏ちゃんがきっと帰ってくる。だから……。 だから? ふと浮かんだ考えを雪葉は反射的に拒絶した。 嫌だと、そんな真似は出来ないと心の深い部分に怖気が走る。 だがそうしている間も男の手は止まらなかった。ブラウスのボタンが弾け飛び、無骨な感触に素肌を撫で上げられ、喉の奥ではくぐもった悲鳴が漏れる。 形振り構っていられる状況などではないのだと、雪葉は本能で察した。 ――時間を、稼がなくちゃいけない。 その為にはどうすればいいのか。抵抗すればするだけ男は激昂する。 だから雪葉は、抵抗を止めた。 男がどう出るかはわからない。それ程世事に長けた駆け引きが雪葉に出来るわけも無い。 けれど力で叶わない以上、今はどうにか策を考え自分の身を守るしかなかった。 「なんだ大人しくなったな……諦めたのか?」 雪葉にとっては見知らぬ男――狩元がつまらなそうに呟く。 雪葉は泣き濡れた瞳で男を見上げた。 先程まで全身に込めていた力を抜き、訴えるように甘く喉を鳴らす。 男の目が驚いたように見開かれる。 しかし雪葉がゆっくりと瞬くと、その意味を理解したらしい狩元は嘲るかのように笑った。 「……はっ、流石だな! 痛い思いをするよりは楽しみたい、か? 叶もとんだ女狐を囲っていやがる。」 承知して取った行動の結果とはいえ、狩元の言葉は一々が雪葉の心を傷つけた。 けれど怯むことなく、雪葉は激しく鳴る自分の鼓動を数えながら圧し掛かってきている男の反応を待った。 「そうだな……そのほうがおもしろいかもしれないな。帰ってきた時の叶の顔が見物だ。」 独り言のように男が呟き、雪葉の口に詰められていた布が引きずり出される。 咽の奥に触れていたそれが急に取り払われ、雪葉は激しく咳き込んだ。 引き攣れたように喉が鳴り、解放された両手で胸元を押さえながら体を丸める。 「おいおい、大丈夫……、」 雪葉の態度に気を許したのか、余裕が出来たのか。狩元が呆れたように笑いながら雪葉に手を伸ばしてくる。 押さえつけていた男の体が浮き、雪葉の上から重みが和らいだ。 「……っ、誰、が……っ、誰が、あんたなんかに!」 まだ苦しい息を無理やり押さえ込みながら、男の腹を思い切り膝で蹴り上げる。急所は外れたようだが効果はあったらしく、狩元が呻きながら身を折った。 雪葉は体を起こした反動で狩元を突き飛ばし、よろける足を叱咤しながら廊下の中ほどにある手洗いの中に駆け込んだ。震える指先で鍵をかける。途中何度か指が滑ったが、軽い音をさせ扉はロックされた。 直後に扉が蹴り飛ばされ、振動に雪葉がびくりと身を竦ませる。 ドアの外からは口汚い罵倒の言葉が聞こえて来る。 ――奏ちゃん、奏ちゃん、奏ちゃん……っ! 何度もけりつけられているらしい扉が激しく軋む。 雪葉は両耳を手で塞ぎ、蹲りながらただ奏を帰りを待つしかなかった。 扉が一際大きく軋みを上げ、ノブの外れる音がしたのはそれからどれ程経った頃だったか。 早くもあり、遅くもあった時間の流れ。 雪葉のきつく閉じた瞼の下に廊下の光が入り込んでくる。 肩が、震えた。これから自分を待ち受けるであろう最悪の事態が脳裏を掠める。 更にきつく目を閉じ、耳を押さえ体をちぢこませ精一杯の抵抗を試みる雪葉の腕が掴みあげられた。 その次に現れるであろう侵入者の姿を脳裏に浮かべ、雪葉の喉に悲鳴が張り付いた。 *** 奏が鍵の掛かっていない自宅の扉を開けた時、視界に飛び込んできたのは手洗いの扉を蹴りつけている狩元の姿だった。 何故と考えるよりも先に体が動いた。 土足のまま室内に入り、足音に気づき愕然と目を見開いた狩元の胸倉を掴みあげると、何一つ言わず、何一つ問うことなく殴りつけていた。 廊下の壁に叩きつけられた形で狩元が昏倒する。 奏は呼気荒くそれを一瞥すると、手洗いの扉を雪葉の名を呼びながら叩いた。 けれど反応は無く、まさかという思いに駆られながら既に緩みかけていたドアノブを叩き壊した。 「……雪葉。」 中には、耳を塞いで座り込み震えている雪葉がいた。 いやがおうにも目に付く、乱れた制服。綺麗に伸ばされていた髪がくしゃくしゃに縺れている。 目の前が暗くなった。頭の芯が鈍く痛む。知らずに握り締めていた拳が狩元への怒りで震えた。 「……雪葉。」 腕を掴んだ奏に対し、雪葉が酷く怯えた悲鳴を上げる。不用意に触れてしまったことに気づきながらも雪葉の手を耳から外し、奏は自分に意識を向けさせようとした。 「い、や……っ! やぁ……っ!」 「雪葉……!」 互いの声に混じる切羽詰った響き。雪葉を宥めようと奏も必死だった。 暴れる雪葉の爪が奏の頬を傷つけ、銀縁の眼鏡が空に飛ぶ。 弧をえがいて奏の眼鏡は床に落ち、かしゃりと乾いた音を立てた。 そこで雪葉が漸く抵抗を止めた。 ひび割れたレンズに反射する廊下の明り。 奏の頬に滲む血。雪葉の苦しげな、震える息遣い。 薄い瞼が恐る恐る開かれ、濡れた睫に縁取られた黒い瞳があらわれる。 「かな…で…ちゃ…?」 かすれた声で確認するように奏を呼び、見つめてくる雪葉の瞳に理性の色が戻ってくる。けれどそこに奏の姿が映り込むと、零れ落ちた涙で再び焦点を失った様にぼやけた。 「絶対……助けてくれるって……思って……た。」 擦れた声で途切れ途切れに言いながら、雪葉が流れ落ちる大粒の涙を掌で拭う。 「……すまない、もう大丈夫だから……大丈夫だ。」 奏はほっと安堵の息を吐つくと、掴んでいた雪葉の腕を離した。 このまま触れていれば壊してしまいそうな気がした。 だが同時に、腕の中に抱き込んでしまいたい程に儚くも見え、奏は自らの額を片手で押さえると馬鹿な考えを振り切るように立ち上がった。 振り向けば、殴り飛ばされ倒れこんでいた狩元が呻いていた。 傍らには市ノ瀬が信じ難いという様子で佇み、かつての同僚を見下ろしている。 奏は狩元の胸倉を掴むと、無理やり立ち上がらせた。 そのままの勢いで、壁に背を押し付け腹を殴りつける。 その衝撃は狩元の完全な覚醒を促すには充分だったようで、咳き込みながら目を開いた。酔いも大分覚めたのか、呆然としている。 「か、のう……。」 奏は無言だった。 けれど身に纏った殺気が紛れもなく本物であることは誰の目にも明らかだ。 再度、狩元の腹に奏の拳が叩き込まれる。 激しく咳き込みながら体を折り曲げようとする狩元を強引に立たせたまま、奏は冷ややかな目で更に腕を振り上げた。 「叶、止めろ! 殺す気か!?」 「殺してやる……っ」 制止した一之瀬を見向きもせず、ぎりと歯を鳴らし奏が吐き捨てた。 市ノ瀬が舌打ちしながら奏の振り上げた腕を掴み、押し留める。 「馬鹿野郎…っ、頭を冷やせよ! その子だって、怯えてるだろ!」 「……邪魔をするな……っ!」 「――かなで、ちゃん!」 震えるソプラノにはっと気づけば、奏の振り向いた先で雪葉が立ち上がり驚愕に目を見開いていた。 奏の腕が、力なく降ろされる。狩元が苦しげに床へ座り込んだ。 「奏ちゃん、もう……いい、もういいから……。」 「――雪葉……。」 左右に首を振りながら奏を止める雪葉は何を思っていたのか。 激情に駆られ雪葉を怖がらせたのだろうと思うと、奏は自分が情けなく居た堪れなかった。 「とにかく、こいつは俺が預かるから……。お前は彼女についててやれ。」 悄然とした面持ちで佇む奏の肩を、市ノ瀬が横を通り抜け様に叩く。 狩元に肩を貸し立ち上がらせ引きずるように玄関から連れ出すと、扉を閉める直前に一度だけ市ノ瀬は振り返った。 「許せとは言えない。けどな、こいつの心情も察してやって欲しい。」 奏は答えなかった。否、答える事が出来なかった。 どう考えても狩元が雪葉にした行為を許す事など出来ない、それは当然だ。 心情を察する事も今は到底出来ない。冷静になれる筈も無いのだ。 暫く扉を押さえていた市ノ瀬が、諦めたように扉を閉める。 冷やりとした廊下で、奏は雪葉に向き直った。 *** 奏が視界に収めた雪葉は、何故か少しだけあげた手を握り締め、何かに驚いたかのように佇んでいた。 名を呼びかけるとはっとしたように手を引き、一歩後ずさる。 不審に思った奏が雪葉の傍に寄ろうとしたが、傍に寄れば怖がられるのではないかと躊躇し、思いとどまった。 着ていたスーツの上着を脱ぎ、ゆっくりと雪葉に差し出す。恐る恐るといった体で受取った雪葉が袖を通す間、奏は廊下に投げ出されていた眼鏡を拾い上げ、間違いなくそれが壊れている事を確認してズボンのポケットに仕舞い込んだ。 例えどんなに親しい間柄だったとしても今は不用意に雪葉へ近づくべきではないのだろうと思う。 「雪葉……怖い目に合わせたね、すまなかった。」 「……ううん、だい、じょうぶ……だった、から。何も、何もされてない、急にあの人が入ってきて、頬をぶたれて……圧し掛かられて……でも、それだけ、で……。だから心配しないで。」 奏から顔を背け、伏目がちに言い募る雪葉はやけによそよそしい。 まるで嫌悪しているかのように、奏と一度も目線を合わせ様とはしない。 今までであればありえなかった雪葉の態度に、奏は強い胸の痛みを覚えた。 しかし言葉に偽りが無いかを見極める為に見据えた雪葉の姿は傍目から見ても酷いもので、奏は何も言う事が出来なかった。しかもこの事態を招いてしまったのは、自分なのだ。 痛々しく腫れている雪葉の頬に眉を顰める。けれどそれ以外、短いスカートの下から覗く細い足には暴行の形跡はみられないようだった。奏がほっと息をつく。 「雪葉、でも頬が腫れてる……病院へ行こう。」 「いい、大丈夫。そんなに大げさにする程じゃない。病院は、やだ。それよりも奏ちゃん……お風呂、借りる、から。」 大事を取るに越した事はないと言ったのだが、はっきりと雪葉に拒絶されてしまった。 髪を翻し逃げるように雪葉が小走りに風呂場へと向かう。その遠ざかる小さな背中に、奏は掛ける言葉がなかった。 バスタブの中に溜まっていくお湯。それは激しい水音を立て、瞬く間に辺りを湯気で充満させていく。 雪葉はそれすらも目にとめることなく、脱衣所の冷たい床に座り込み項垂れた。 ただ何も考えたく無かった。 なのに、こうしている間にも、瞬く間に起こった出来事が何度も何度も繰り返し頭の中を巡って行く。 奏が助けに来てくれたのだとわかった時の、安堵感。 狩元と呼んだ男を殴りつけた時、奏がまるで見知らぬ人のように見えたことに対する衝撃。 そして、奏と共にやってきたもう一人の男が予期せぬ闖入者と共に居なくなって――奏と二人きりになって、緊張と安堵の狭間で、奏が辛そうに目を伏せている様をどこか呆然としながら見つめていたこと。 その姿はとても痛々しくて、奏ちゃんの所為じゃないからと、雪葉は奏の腕に手を伸ばしかけていたはずなのに、弾かれたようにその手は止まってしまった。 ――奏ちゃんに、触れない。違う、今の私が触れちゃいけない……。 ただそれだけが雪葉の頭を占めていた。行き場を無くした手。奏に名を呼ばれ、怖くてどうしようもなくていつの間にか遠ざかろうとしていた、大好きで大好きで仕方の無い人から。 蹲る雪葉を包み込むように一層濃くなる蒸気の中、バスタブから湯が溢れ出す。 雪葉は緩慢に持ち上げた手をきつく握りこみ視線を落とした。 はだけたスーツの下から、ボタンの取れたブラウスの合わせ目が嫌でも飛び込んでくる。 眼鏡を掛けていない奏は気付いていなかったのだが、雪葉の白い胸元に散っている紅は、紛れも無くあの男の残した痕だった。 両手で奏のスーツを掻き合わせ、雪葉が更に深く俯く。 遠くに流れる水を感じながら下唇を噛み、胃の腑から込み上げる不快感と身体の震えに耐え、雪葉は枯れた声を絞り出した。 「――汚い。」 *** 風呂場から流れるお湯の音を聞き、コードレスフォンを取り上げた奏がプッシュしたのは慣れた番号だった。 数回のコール音の後に奏の鼓膜を振るわせたのは、穏やかで優しげな声。 『はい、瀬守です。』 「――華?」 『奏?』 「ああ。連絡が遅くなって済まない。華……実は、雪葉のことなんだが……。」 言葉に――詰まった。否、何から説明すればいいのか何も考えていなかったのかも知れない。 しんと静けさが流れ、奏は意を決して喋りだそうとする。けれど先に尋ねてきたのは華だった。 何があったのと、穏やかな声が奏を促す。 促されるまま、奏は簡潔に事の次第を話し始めていた。 だが雪葉に何が起こったかに話が及ぶと、受話器の向こうで華が息を呑んだのがわかった。 狩元の行った不正を詳細に話す訳にはいかなかったが、それ以外を一切の言い訳をせず、奏は自分の所為だと華に謝罪した。それ以外、どんな言葉が出てくる筈も無い。 「すまない。俺の責任だ。」 『奏……。それで、あの子は……? 怪我は?』 話を聞いている間、奏を責めることなく無言でいた華の声は震えていた。 「風呂場にいる……頬が腫れているが、病院は嫌だと。」 『わかった――とにかくこれから迎えに行くわ。』 「ああ、そうしてやって欲しい。」 幾ら親しい間柄であるとは言え他人である奏と一緒に狭い車中にいる事になるのは苦痛だろうと、奏は華の申し出を受け入れた。 受話器の向こうが静かになる。華は一言も奏を責めようとしない、それが逆に奏にとっては辛かった。 『――奏、あの子貴方に何も言わなかった?』 何故か間を置いてからの躊躇いがちな華の問いかけ。「……いや?」と奏は答える。 そもそもここに駆けつけた時も後も、雪葉と何かを話せるような状況ではなかった。 『そう……、なら、いいの。』 安堵か落胆か、不思議な響きを含んだ華の声に、きしりと床の軋む音が重なる。 奏が振り向くと、扉の傍に奏のシャツを着た雪葉が肩にフェイスタオルを掛け、濡れた髪のまま佇んでいた。 「ママ?」 「――そう。」 受話器を少し離して答えた奏の元に雪葉が無言で歩み寄る。 手を差し出してきた雪葉に請われるまま、奏は受話器を渡した。 「ママ?」 『雪葉? 雪葉ね? 大丈夫よ、今迎えに行くから。』 傍にいる奏にも、華の柔らかさを残した声が漏れ聞こえてきた。 けれど、安心させるような優しい響きに、雪葉は静かに首を振った。 「違うの。待って、お願い……迎えに来るのは待って欲しいの。一時間でいいから奏ちゃんと話をさせて。」 『雪葉?』 「ごめんね、ママ。」 問い掛けるような華の声。けれど雪葉は、静かに通話を終了してしまった。 切れた子機が奏に差し出される。 受取った奏と差し出した雪葉。奏に触れること無く雪葉の手が離れる。 「雪葉?」 「――奏ちゃん。」 何かを諦めたかのような、まだ迷っているかのような瞳で雪葉が奏を見つめていた。 空調の音だけが響くリビングで、雪葉と奏が向かいあう中、床に雪葉の髪から落ちた雫が染みを作っていく。 雪葉の首筋にも透明な雫が伝っていた。 纏ったシャツにも染みていっているそれは体温を奪うだろうと、奏は無意識のうちに雪葉が肩に掛けているタオルへ手を伸ばしていた。 触れる寸前、雪葉がびくりと身を震わせ僅かに身を引く。 「……あ……っ、」 後悔の混じった雪葉の声に、奏は拳を握り腕を下ろした。自分の軽率さが腹立たしかった。 「――すまなかった……驚かせて。」 「違……奏ちゃ……ごめ……っ、違う、違うの……っ!」 「いいんだ、配慮が足りなかった。雪葉は坐っていなさい、何か暖かいものを入れよう。テーブルの上に氷があるから頬に充てておくといい。」 目線で指し示した先のテーブルには、そろそろ上がってくるだろう雪葉の赤く腫れた頬にあてさせるつもりで、氷嚢を作り置いてあった。 ――即席の簡単なものだが何もしないよりましだろう。 「待って!」 踵を返した奏の背に、一拍の間を置いてシャツ越しの暖かな熱がひろがる。 続いて、雪葉の嗚咽が静まり返った室内に響いた。 「違うの……私……、だってもう、奏ちゃんに触れてもらう資格がない、から……。」 驚いて振り返ろうとした奏よりも早く、寄り添うように奏の背中に凭れ掛っていた雪葉がぽつりと言った。 「……資格?」 「いろんなところ、あの人に触られた……。キス……もされ……たんだ、よ? 何とかしなくちゃって思って、自分からあの人に抱きついて……。奏ちゃんに直接触れてもらうのが、怖い。汚いって、思われたく、な……」 嗚咽交じりに、雪葉の篭った声が途切れる。 奏の表情に滲むのは驚愕。雪葉が何を言ったのか頭の中で租借し、漸く奏は理解した。 雪葉は奏を怖がっていたのではなく、狩元に触れられた自身が許せないのだということを。 奏はゆっくり振り向くと、雪葉の肩に触れた。 雪葉がびくりと身を振るわせる。 肩に触れたまま雪葉を見下ろせば、開いたシャツの胸元は、強くこすったのだろう、痛々しい程赤くなっていた。 そこに狩元が触れたのだ。 指を伸ばし、直に雪葉の肌に触れる。 「雪葉は何も汚れていない。」 「――奏、ちゃん。」 はらはらと雪葉の頬に涙が流れる。 奏は、雪葉を怖がらせないようにそっと、その細い頼りなげな体を腕の中に抱き込んだ。 ――雪葉の何もかもが、いとおしく思えた。 *** ゆっくりと怖がらせないように奏は暫くの間、雪葉の背中をさすっていた。 堪えていたものが溢れ出したかのように徐々に雪葉がしゃくりあげはじめる。 「……怖かっ、たの……いっぱい……触られて……キス、初めてだったのに……怖かっ……奏ちゃ……。」 雪葉に気付かれないよう歯をかみ締めた奏の眉間に皺が刻まれる。 守れなかったことが、悔やまれて仕方が無い。 どうして配慮してやれなかったのかと思う。 狩元がどういう行動にでるか、頭の中に入れておいてしかるべきだったはずなのに。 知らず雪葉の髪に頬をつけ、奏が苦しげに顔を歪ませる。 「雪葉……済まない……ごめん。」 「……も、いい……もう、謝らないで。奏ちゃんが、悪いわけじゃない。私が、ドアを開けるとき確認しなかったから……。」 「――俺だと思ったんだろう?」 ぴくりと雪葉の肩が震えた。 何故雪葉がそうも無防備に扉を開け狩元を侵入させてしまったのか。 ――それは俺が帰ってきたと思ったからだ。 「も、う……もう。奏ちゃんたら、嫌だな。違うよ、私が馬鹿だったの。大丈夫、もうホント、私大丈夫だから。」 自責の念にかられる奏の胸に手をついて顔をあげた雪葉の目元は赤く染まっていた。 無理をして笑おうとしている事がわからないはずもない。 奏は無言で、雪葉の額に触れた。一瞬雪葉は身を引きかけたが、拒絶する事は無かった。 奏のシャツに躊躇いがちな雪葉の手が伸ばされる。 手の甲で額を撫で、指先でこめかみを辿り、目元をそっとなぞって、掌で頬を包む。 片側の、涙の下で腫れた頬は思ったよりも腫れてはいなかった。 奏は安堵しながら首筋に手をすべらせる。奏を捉えているのは、雪葉のまっすぐな視線。 冷たい髪が指先に触れる。奏はそれを纏め上げ、雪葉の肩にかかっていたタオルを持ち上げ軽く叩いた。 吃驚したらしい雪葉が見守る中、奏は溜息をつき口元に笑みをのぞかせた。 「ちゃんと拭かないと駄目だろう? これじゃあ風邪をひくよ、雪葉。」 「――うん……うん、そだね……何かいつもの奏ちゃんだ。」 ほっとしたように、雪葉が僅かに顔をほころばせる。 それは、まだ幾分ぎこちなくはあるものの、ゆっくりと二人の間に穏やかな空気戻ってきていることを感じさせた。 何度か髪をタオルでとんとんと叩き、奏の手がゆっくりと離れる。 雪葉が奏の背に腕をまわし、今度は躊躇うことなく抱きついてきた。 「……雪葉?」 「ちょっとだけ、このままでいさせて。」 小さく言った後、心地よさそうに目を閉じ、雪葉は信頼しきって奏に身を預けてくる。 茶色味を帯びた髪が雪葉の様子を隠してしまう。 前にも一度、大切な少女が男に組みしかれている光景を目撃したことを不意に思い出した。 あの時は、華がゆうきに押さえ込まれていた。あれから随分時が過ぎたというのに鮮明に覚えている。 胸の痛みと、嫉妬心。華の怯えた表情に、安堵したこと。 同意の上で無いという憤りに任せゆうきを殴りつけはしたが、結局華はゆうきを選び、奏の予測した未来が変わることはなかった。 自分の気持を告げた上での玉砕だ。今更後悔は無い。 とっくに気持の整理はついている。 そう、華への気持ちは決着がついているのだ。 だた華への気持ちを上回るほどの情熱を他の女性に見出せなかっただけで。 では、今雪葉に対して自分が持っているこれは何なのだろうと自問自答する。 腕の中に収まっている雪葉を見下ろす。 温かな身体は、湯上りのしとやかさを纏い薄いシャツ越しに柔らかな感触を伝えてくる。 「奏、ちゃん……?」 雪葉が濡れた瞳で奏を見上げる。 奏の指が雪葉の頬にかかり、奏が身をかがめる。 雪葉の瞳が驚愕に瞠られる中、奏の陰が雪葉に重なる。 雪葉がゆるりと瞼を閉じ、僅かに顎をあげる。 けれど唇が重なる寸前。 「……誰をみてるの?」 雪葉の低い一言に、奏は目を瞠り動きを止めた。 「離し、て……離して……っ」 雪葉が拒絶の声と共に奏の胸を押し返した。 はっとしたように奏が雪葉を離す。 ――今、自分は何を考えていた? 雪葉に何をしようとしていた? 呆然とする奏を雪葉が強張った表情で凝視する。 まるで邪な思いを見透かされたようで、奏は後ろめたさにそれ以上手を伸ばすことが出来なかった。 「……私は、ママのかわり、なの?」 「……っ」 違うと言いたかった。華と思ったわけではないと。雪葉と華を重ね合わせた事は無いと。 けれどそれを言えば、もう引き返せなくなるとわかっていた。 雪葉に、雪葉自身に口付けたと思った事実を、認めないわけにはいけなくなる。 吐く息も荒く、雪葉はじっと奏の答えを待っている。 だが認めるわけにはいかない。ましてやそれをいえるわけが無かった。 「――もう直ぐ華がくるだろう。着替えておいで。」 雪葉から顔を背け、重い沈黙を破り奏は苦く呟いた。 「嫌……嫌、帰らない……っ! どうして答えてくれないの!?」 雪葉が左右に頭を振り、声を荒げる。 奏は雪葉を直視できないままに、背を向けた。 「――雪葉……もう此処には来ない方がいい。」 「……なん、で……っ!?」 背後から、納得のいっていないだろう雪葉の追求を受ける。 本当の理由は、言えない。言えるわけが無い。 雪葉を奪われたくないと思っている。建前も何も無く、これは決して父性からだけ生じている感情ではなかった。 「独り暮らしの男の元に、独りで女の子が通ってくるものじゃない。今までは、俺が迂闊すぎたんだ。」 「いや! 絶対、いや! どうして!? 私が汚いから? あの人に触られたから!?」 「違う!」 激しい剣幕で奏は振り返った。狩元に触れられたからといって、雪葉が汚れるわけが無い。 「じゃあ、どうして……?」 頼りなげな、今にも泣き出しそうな姿。合わせた雪葉の両手はかすかに震えている。 「……頼むから聞き分けてくれ。もう子供じゃないだろう?」 身を切られる思いで奏が雪葉に告げると、最後の部分で雪葉がびくっと身を竦ませた。 俯いて黙り込む雪葉の顔の横に流れる茶色がかった髪が、表情を覆い隠す。 「――そうだよ、子供じゃない。奏ちゃん……私、16になったの。」 「雪葉?」 「私の欲しいもの、わかった?」 どこか切羽詰った感の中に、先ほど華からの通話を切ってしまったときにみせた、何かを諦めたような気配を滲ませ雪葉が奏に尋ねる。 奏は雪葉の意図を掴みかね、しばらくじっとしていたが、雪葉がそれ以上何も言うつもりが無い事を悟ると、ソファに放り出されていた鞄の中を探った。 そこには宝石店のラッピングが施された可愛らしい小さな紙袋が一つ。 紙袋を開けた奏の指が器用に繰り、中にはいっていた化粧ケースを開ける。 ぱちりと音を立て開かれた中で、中央に収まっている物が室内の灯りを受け銀に輝いた。 悩みに悩んだ挙句、会社近くの宝石店で偶々目に付いたのは、雪の結晶をチャームとしたホワイトゴールドのブレスレットだった。 「正直に言うと、まるで見当がつかなかったんだ。」 雪葉は、じっと奏の手元を見ていた。感情の読み取れない、不可思議な色を秘めた瞳で。 雪葉の素足が奏に近づく。 近づいてきた雪葉はそっと腕を伸ばし、奏は差し出された細い手首にブレスレットを嵌めようとするが、雪葉の腕はさらに伸ばされた。 奏が状況を理解した時には、奏の腕の中に雪葉が飛び込んできていた。 「じゃあ答え合わせだね。――奏ちゃんの答えは外れ。」 そこで一旦言葉を切り、雪葉はいつの間にか手にしていた深い紅色のリボンを奏の首にさらりとかけた。 意味をつかみかね瞬きをする奏を見上げ、雪葉が泣き出しそうな顔で笑う。 「正解はね……奏ちゃん、なの。――私の欲しいものはね、今も昔も、奏ちゃんなの。」 |
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