06. 拒絶と変化 |
言ってしまえばもう今のままではいられない。 それはわかっていた。 狩元に触れられた自分が汚らわしくて、奏に触れることを躊躇して奏に触れられることを拒絶して。 けれど言わずにはいられなかった。 奏が口元を片手で覆い驚愕の表情を浮かべているのを見上げながら、零れそうになる涙を雪葉は唇を噛んでこらえた。 壁にかけられた飾り気の無いステンレス製の時計が単調な音を立てる中、テーブルの上に置かれた氷嚢の中で氷がカラリと鳴る。 「それ、は――雪葉……勘違い、だよ。」 雪葉から視線を外した奏が、小さく言った。 雪葉は俯き、切れそうなほど唇を噛みながらきつく目を閉じる。 一番聞きたくはなかった答、けれど確かに予想はしていたはずの答だった。 「――なんで…っ、なんで、そんなこと言うの!?」 胸の痛みに耐えかねた雪葉が、奏を振り仰ぐ。 奏のシャツを両手で握り締め、レンズ越しでない奏の瞳を真っ直ぐに射抜いた。 いつも隙無く銀縁フレームの眼鏡をかけている奏の素顔を見るのは久しぶりだ。 以前、何故コンタクトレンズにしないのかと尋ねた時、体質的に合わないのだと奏は笑いながら答えた。 それは本当なのだろうと思う。けれど雪葉は、その中に奏自身と他人を隔てる何かをも含んでいる気がしてならなかった。 ――いつも、そう。どうして一歩引くの? 誰も……私も、奏ちゃんとの間にある線を越えられないの? 「どうして!」 悔しくて悲しくて、奏の胸を叩き雪葉は言葉を投げつけた。 「落ち着きなさい。」 落ち着き払った声。瞳に陰を落とした奏に諌められ、雪葉は両手首をとらわれる。 まるで駄々をこねる子供を叱り付けるかのような奏の態度は、雪葉の心を逆なでした。 「嫌! 私はやっぱり奏ちゃんの一番にはなれないの!? 奏ちゃんにとって、ママのかわりでしかないの!?」 激昂に突き動かされ、感情を吐き出した雪葉の眦に涙が滲む。 助けてくれたとき、奏は真剣に雪葉を抱き止めてくれた。 震える雪葉をまるで恋人を心配しているかのように抱き寄せ、背をさすり安堵の息をついていた。 なのに今、奏は雪葉を拒絶する。 あれは、あの時雪葉が感じた事は、全部錯覚だったのだと肯定されたようで、堪えきれなかった涙が一筋零れ落ちた。 頭のどこかで、雪葉はわかっていたのだ。恐らく奏に、受け入れてはもらえないだろう事を。 それでも踏み出した一歩は戻らない。言ってしまった言葉が無くなりはしないように。 奏を手に入れられるならどんな手段であっても厭わないと、指先が白くなるほどきつく握りこみ、雪葉は俯きながら奏の胸を押して身体を離した。 卑怯な真似をしようとしている自覚は嫌というほどある。それでも、どんな事をしても奏を失いたくなかった。 「ううん、違う……。 違う……いいの……ママのかわりでも、いい……の。だから……だから、奏ちゃん……、私を、抱いて。」 奏が息を呑んだ。馬鹿げた事を言っていると頭の片隅に残った理性が告げる中、雪葉は奏の気持ちに漬け込もうとしている自身の浅ましさに嫌悪を覚えた。 「初めては、奏ちゃんがいいの……だから、お願い……。」 絶句する奏の前で、纏っていたシャツをさらりと肩から滑らせる。 雪葉の足元に白い布が広がる。 暖房の効いた温かな部屋の中で、雪葉は再び奏の胸に身を任せるように抱きついた。 無意識のうちに肩が震える。 身代わりでも良いと自分を偽って、相手を偽って、最悪の方法で情を乞うている。 堕ちてきてほしい、堕ちてきてほしくない。反する二つの感情を鬩ぎあわせながら、雪葉は奏に縋っていた。 長い長い、息の詰まるような沈黙。 奏の手が雪葉の肩に触れた。そのまま静かに押し返される。 視線が交差したのは一瞬、奏は直ぐに雪葉から目を逸した。 雪葉の肩に、奏が拾い上げたシャツが掛けられ震える身体を覆う。 「……ごめん」 一度激しく鳴った雪葉の鼓動。羞恥に火照っていた身体が一息のうちに冷めた。 「……それ、は……私を女としては見られないことへの……ごめんな、さい?」 「ずっと娘のように思ってきた。それはこれからも変わらない。」 耳鳴りと足元がふらつくような急激な降下感。 娘のような? そんな関係はいらない、欲しくない、と思い切り叫びたかった。 いつものように我がままを言って困らせて、奏が折れてくれればいい。 けれどそんなことをしても無駄なのだと、奏の示した拒絶に雪葉は悟った。 「――そう、そうなん、だ……そっか……。」 自分でも奇妙なほど静かに雪葉は呟いた。 *** ――何も、考えられない。 ぼんやりとした眼差しで、溶けかけた氷嚢を手の中で弄ぶ。 奏に拒絶され、シャツと制服のスカートを身に着けた雪葉は、ソファに座り込んでから一言も喋らなかった。 不思議と涙は出ては来なかった。 もう奏に何を言っても、何をしても無駄なのだとわかっていたからかもしれない。 奏の気持ちはきっと変わらないのだろうと、いつもの位置でいつものように、何事も無かったように坐って新聞に目を通している奏を雪葉は目の端に捉える。 自分を見てもらうことも出来ず、華の代わりにもなれない――雪葉にはこれ以上どうすることもできなかった。 ただ、今までの関係が壊れてしまったことだけが確かな事実として残った。 ――壊してしまったのは私。多分これが一番可能性の高かった最後だってとわかってた、のに。ただ認めたくなかっただけで……。 氷嚢を頬にあて、膝を抱えて縮こまる。 冷たい感触に、このまま何もかもが凍り付いて砕けてなかった事になってしまえばいいと、ふと思った。 華が迎えにきたのはそれから暫く経った頃だった。 いつも綺麗に櫛の入った髪を少し乱して冷気を纏う華を、雪葉はソファに坐ったままじっと黙って迎えた。 口を開いたら、自分でも何を言ってしまうのかわからなかった。 いっそ成り代わってしまいたい、そうしたら奏に愛してもらえのだろうと自嘲気味に考えている自分がどこかにいる。 雪葉は俯き、氷嚢で顔を隠しながら唇を噛んだ。 「雪葉、帰りましょう?」 心配そうに下から覗き込み、そっと二の腕を撫でほっと安堵の息をつきながら雪葉の頭を胸に抱きこんでくれる温かさ。 酷く泣きたい気分になる優しい響き。 「――うん。」 雪葉なりに、やるだけの事はやった。 踏み出した先に望んだ結末が無くとも、それはもうどうしようも無い。 後悔は残ってはいるけれど、どう進んだとしてもきっと全てが望むとおりの結末はありえなかったのだと自分を納得させる。 今はもう何も考えたくない。否、考えなくていい。 恐らく雪葉と奏の間に流れる違和感を感じているだろう母親の手はそれでもとても優しくて、何故か素直にそう思えた。 不意に零れた一滴の涙を、雪葉は氷嚢の陰で隠し気付かれないように拭った。 触れた手にそっと促され、雪葉は床に足をつき立ち上がる。 黙ったまま雪葉と華の様子を一歩下がって見ている奏を振り返った。 「奏ちゃん……。」 「――気をつけて。」 何かを期待していたわけじゃない。けれど、素っ気無いといえるほど簡単な一言に、心臓が軋んだ。 ――もう、次はないんだね……。 奏が雪葉との関係を断ち切ろうとしている事実が、そこには籠められている気がした。 ――諦めなくちゃいけない。 もう傍にはいられない。傍に置いてくれるはずもない。 幕引きはあっけない程突然で、唐突。 十六年間築き上げた絆ですらこんなにも儚く脆いのだと、雪葉は思い知らされ打ちのめされた。 だが、扉の閉まる最後の最後まで躊躇い、結局雪葉には「さよなら」と言う事は出来なかった。 十六歳を迎えた最初の日、それは雪葉にとって苦く辛い以外の何物でもない一日だった。 *** まだこれから如何すれば良いのか先が見えない、否、見えたとしてもそこに奏はいない未来。 「雪葉、奏のマンションの鍵を寄越しなさい。」 温かなココアの入ったマグカップを両手で持ちリビングの絨毯に座り込んでいた雪葉にの手が、淡々したゆうきの一言に止まる。 「なんで……?」 目を瞠った雪葉は口元を強張らせながら問うた。 自分が何をしたかったのかすら見失いながら家に帰り着いたとき、ゆうきは無言で雪葉を迎え入れた。 何も問わず、何も言わず。ただ脇を通り過ぎるときに、おかえり、とだけ。 恐らく既にあらましをきいているからなのだろうが、問い詰められなかったことに雪葉は心底ほっとした。 けれど、だからこそやっと落ち着いたところでの一言は重かった。 マンションの鍵を返せと言われているのだ。理由は言わずもがな、だろう。 ココアをテーブルの上に戻して、傍に置いていた鞄からのぞく携帯電話を、雪葉は手に取った。長いリードの先にある小さな鍵を握り締める。 「なんで、か。もうお前を奏のところに行かせるわけには行かないからだな。」 「どうして……っ!」 「親としては当たり前だ。」 「そんなの! 嫌、だってこれは……っ、」 これは――奏ちゃんと繋がっている最後の証なのに、と言いかけ言葉を飲み込んだ。 守るかのように両手で鍵を持った雪葉に、ゆうきが溜息を吐く。 「これは、奏との最後のつながりだから、か? でもあいつにも言われたな、もう来るなって。」 「……っ!」 何も言い返すことが出来なかった。 そのとおりだ、と俯き、それでも雪葉は鍵を胸にあて、きつく抱き締めた。 「――奏の傍にいたいと思うのか? でも奏はもう結婚してもおかしくない年だってことはわかってるな。」 何一つふざけた気配のない言葉に、雪葉がはっと顔をあげ、椅子に座している父親を見上げる。 今此処で奏の結婚話……ゆうきがここでその話を持ち出す意図は、雪葉には一つしか思いつかない。まさかという思いに、目を見開いて、喉に絡まる声を絞り出した。 「パパ……知ってる、の?」 「当たり前だ。気づいてないのは奏くらいじゃないのか? あいつは自分の色恋に鈍い。」 もともと熱を帯びていた雪葉の頬は更に熱くなった。 まさか自分の気持が父親に筒抜けだったとは微塵も思ってはいなかっただけに、気恥ずかしい上に居た堪れない。 「――けどな、雪葉。奏は駄目だ。あいつは諦めろ。」 「ゆうきちゃ……、あなた、今そんな事……っ!」 丁度キッチンから戻ってきた華が、驚いたようにゆうきを諌める。 雪葉は笑い出したいような、泣きたいような不可思議な衝動に駆られた。 諦めるまでも無く、もうとっくに玉砕しているのだ。 寂しい目をして欲しくなくて、傍に居たいと願った。 けれどそれがいつの間にか自分の気持を押し付けて、困らせて、最低な真似をした。 これでは子供だといわれても仕方がなかった。 ――なのに、ここまでしておいて、私は……。 「……出来ない、出来ない、よ……諦めるなんて……出来ない。」 絨毯にぽたりと一滴、涙が吸い込まれた。 一度溢れたそれは、止める術のないまま次々と雪葉の頬を流れていく。 胸が、心が痛い。 いっそ、雪のようにこの気持が融けて消えてしまえば良いのにと思う。 拒絶された思いは行き場をなくし、雪葉の中に凝っていくばかりだ。 はらはらと泣きながら何度も何度も出来ないと拒絶する雪葉を、ゆうきが眇めた目で一瞥し目を逸らす。 「でもね、奏ちゃんにも、もう来ない方がいいって……私、奏ちゃんに嫌われちゃったの……もう、駄目なの……っ。」 握り締めていた鍵が、手の中から滑り落ちる。篭った音を立てた後、毛足の柔らかな絨毯の上で跳ねることのないそれは、鈍く光を反射させた。 「雪葉……。」 華の手が躊躇いがちに雪葉に触れる。そっと抱きしめられて、雪葉は母親の細い腕に縋りついた。 ――恋敵のママに慰められるなんて、おかしーの。 矛盾している状態に、雪葉の口元に笑みが浮かぶ。が、それは直ぐにかき消えた。 くしゃりと顔を歪めて声を上げながら泣いて泣いて。 それは、懐かしくて暖かな華の匂いに、苦しい胸のうちを全てさらけ出すかのようだった。 「――ママ、ごめんね……もう、大丈夫。」 「本当に?」 漸くして落ち着きを取り戻した雪葉は、華の腕の中で頷き、ふと首を傾げた。 ゆうきの姿が無くなっていた。 いつの間に出て行ったのだろうとぼんやりしながら思い下を見ると、転がった携帯電話が目に留まる。 リードの先にあるはずの鍵もまた、父親同様消えていた。 雪葉は目を伏せ、だが何も言わなかった。 かわりに、まだ雪葉の背を摩り続けてた華に抱き付く手へ、力を込めた。 「ママもパパも……奏ちゃんがママのことをスキだって、知ってるんでしょ?」 問いかけに、雪葉の背を撫でる華の手が僅かに止まった。 「――……随分、昔のことよ?」 「ママにとってはそうでも、奏ちゃんにとっては違う。だって私を通してママを見てる……から」 自分は母親の代替品でしかないということに、身を裂かれるような痛みを覚える。 雪葉の肩口で、華が長く息を吐き出した。 雪葉の肩はそっと押し返され、正面から華に見据えられる。 「雪葉、良く聞いて? 奏にとっても私にとっても、もう昔のことなの。雪葉は、奏のことが本当に好き?」 雪葉はこくりと頷いた。今更確認されるまでも無い。 物心付いてから奏だけを見てきた。例え、奏が違う誰かを見ているのだとわかってもそれは変わることなく、雪葉の心を占めるのは奏だけだ。 「奏ちゃんが、好き。ママには敵わないってわかってるけど、諦められなくて……馬鹿な事まで、したけど……それでも駄目だった……けど。」 「雪葉、そんな風に誰かと比較して自分を諦めちゃ駄目。ママも偉そうな事はいえないけど。でも良く考えて? 雪葉は奏を本当に男性として、好き?」 再び雪葉は迷わず頷いた。雪葉は奏を父のようにも兄のようにも思ったことなど無い。 雪葉にとって初めから奏は男の人、以外の何物でもなかった。それは偽りの無い気持だ。 「とても…とても大変よ? 色々な意味で。わかるわよね?」 「わかってる。でも、私は奏ちゃんが好き、なの。」 「そう……なら、よく考えてみて? 奏は本当に雪葉を通してママを見ていたと思う?」 「だって……っ、」 穏やかな諭すような華の言葉に雪葉は咄嗟に反論しようとして、何かに引っ掛かりを覚えた。 何に、と、はっきりわかったわけじゃない。けれど、確かに棘が刺さったような違和感を感じた。 ――だって、キス、してくれるんだと思ったの。私に。 ――でも奏ちゃんが見ているのは私じゃないんだって、思い込んで。 ――あんな……愛しそうな目、私には見せてくれたことなんてなかった。 ――前に一度だけみせてくれたのは、ママとの思い出を話してくれたときだったの、よ? ――だから、奏ちゃんは――ママのことが女の人として好きなんだってわかった。 ――私には決して見せてくれない表情で、気配で、ママの話をしたの。どんなに頑張っても、ママには敵わないって思った。二番目でも良いから、ママの代わりでも良いからって思った。 ――私、何処で間違えたんだろう……。 *** ――傷つけてしまった。泣かせたくなかったのに。 泣き出しそうな雪葉の姿が、奏のまどろむ意識の中に浮かぶ。 華の身代わりでもいいから抱いて欲しいと請われ、望まれるままにかき抱いてしまいそうになったのは誤魔化し様の無い事実だ。 理性を押し込め、震える雪葉に口付けて……けれどその後は、と考えてしまえば結局触れる事は叶わなかった。 奏にとって自分の保身はどうでもいい。 なのに何故雪葉を受け入れる事が出来なかったのかと言われれば、多分、雪葉の気持に自信がなかったからだ。 本当に男として好かれているのか、疑問だった。 小さな頃から当たり前のように傍にいた。慈しんで、見守っていた。 雪葉はそれに答えようと、勘違いをしているのではないか。 奏の気持に無意識のうちに答えようとしているのではないか。 雪葉が間違いに気づいた時には、きっと取り返しの付かない事態になっているだろう確信が奏にはあった。 ――手離せなくなるのはきっと自分だ。 自嘲と共に、酒気に染まった息を吐く。逃げているのかもしれないが、これが今の偽らざる奏の考えだった。 不意に、頬に冷たい感触があった。 雪葉の涙、であるはずがない。 はっと目を開く。霞む視界が、徐々に焦点を結ぶ。 濡れそぼったゆうきの姿が、逆光の中にあった。 何故ここにいるのかと問いかけるまでも無い。 奏は驚く事も無く溜息をつきながら、無言でソファの上に体を起こす。 額を押さえ何度か頭を振ると、背後からゆうきの呆れたような声が掛けられた。 「また随分と酷い有様だな、おい。」 「どうも。鍵は閉めておいたはずですが?」 「雪葉からせしめた。」 手にもった鍵を、しゃらりと音をたてながらゆうきが翳す。 雪葉の携帯にぶら下がっていた紐の先にあったはずの合鍵。それが今はゆうきの手の中でひらひらと踊っていた。 それがまるで雪葉との絆が断ち切られた証のように見えて、奏はふいと顔を逸らした。 「雨、降ってきたんですね……。」 そういえば帰り掛けに見た空に星は無かったなと思い出す。 ソファの上には、雪葉が使っていたタオルがそのまま投げ出されている。 奏はそれを取り上げると、ゆうきに放り投げた。 片手で受け取ったゆうきが、濡れた髪を乱暴に拭う。雫が幾滴か床に落ちた。 車で来たのだろうが、このマンションから駐車場までは距離がある。結構な濡れようだった。 普段は年齢に見合ったそれなりの貫禄も、乱れた髪の下では半減して見える。 少し昔に戻った様な気安さに、奏は軽口を叩いた。 「貴方も大概おじさんになりましたよね。」 「お前もだろうが。」 肩をすくめたゆうきに間髪いれずに反論され、奏は声を立て低く笑った。 「何か飲みますか?」 「じゃあそのテーブルに乗っているやつを。ご相伴に預かろう。」 向かい合わせに座ったゆうきと入れ替わるように奏は立ち上がり、キャビネットからグラスを取り出す。 雪葉が帰った後に逃げるように口にしたウィスキーの為か、動くのがやや億劫だった。 「こうしてあなたと話すのは久しぶりですね。」 「そうだな。」 奏がグラスの中に投げ入れられた氷が、からんと乾いた音を立てた。 器用に動く繊細な指。注がれる酒に水。 グラスの半分ほどを満たした液体は澄んだ琥珀色になり、ゆらりと揺れた。 「……用向きはもうわかってるんだろ、奏。 とりあえず率直に単刀直入に聞くがな。お前、雪葉のことをどう思ってる?」 グラスを差し出した奏の手が、止まった。 奏が瞠った目で見たゆうきは、何の衒(てら)いも無いというように手を組み少しだけ身を乗り出している。 「性急ですね。あなたらしいんだか、らしくないんだか……。父親を前にして言うのも申し訳ないんですが、娘のように思ってますよ。」 「そうか。……なら、期待を持たせないで欲しい。」 諌めるわけでも、強制するわけでもない、だが重い響きを帯びた、父親としての言葉だった。 変わったなと、思う。否、それが当然なのだろう。当たり前の事だが、ゆうきは雪葉をとても大切にしている。 普段の態度から窺い知るのは難しい為か、雪葉は不満に思っているようだが、それは紛れも無い。 ――他の男に取られるのは業腹だろう。まして、雪葉と二回りも年の離れた男ではなおさらだ。 奏は眉間に僅かな皺を寄せ、何も言わずに自分のグラスを口にあてた。 「雪葉は、お前のことを一人の男として見てる。」 「……ついさっき、好きだと言われました。」 両手でグラスを転がし、奏がゆっくりと答える。 喉元を過ぎた熱い感触は、飲んだ液体なのか、それとも自ら発した言葉の所為か。 ゆうきが軽く舌打ちし、あの馬鹿、と苦々しげに吐き出した。 前髪をかきあげ、ポケットを探る。恐らく煙草を探しているのだろうが、忘れてきたのだろう。そこに目当てのものは無かったらしく、溜息と共にソファの背凭れに背を預け、天井を振り仰いだ。 「どうするつもりだ?」 「どうするもなにも……雪葉より20も上の俺にどうしようがあるというんですか。」 「年は関係ない。お前がどうしたいかだよ、奏。」 「雪葉はまだ子供です。俺が身近にいるから恋だと勘違いしている。」 酷い言い様だなとゆうきに悟られないよう自嘲する。 雪葉は子供、誰よりもそれを望み、けれど同時に誰よりも自分がそれを望んではいないことを奏はわかっていた。 せめて後十年、否、五年雪葉が誕生していれば……詮無いことだとわかっていながら思わずにはいられない。 「お前な。雪葉は俺と華の娘だぞ? 男からの電話なんてしょっちゅうかかってきてる。ガード固いがな。そうじゃなくて、お前は否定して逃げたいんだろ? 雪葉から。」 はっとゆうきが鼻で笑った。奏の眉間に皺が刻まれる。 「違います。」 「違わないね。」 手にしたグラスを、普段の奏では考えられない乱暴さでテーブルの上に打ち置いた。 グラスとテーブルがぶつかり合った鈍い音。 けれどゆうきに動じる様子は見えない。 険しい視線を床に逸らし、奏はどうにか自分を宥めながらすみません、と呟いた。 しかし、何故こうも嗾けるような事を父親であるゆうきが言うのか、奏は理解できなかった。 組んだ手の上にゆうきが溜息を落とす。 「せめて、雪葉の気持ちを否定だけはするな。その上でどうしても駄目だって言うなら、そういってやってくれ。」 「……もう言いました、答えられないと。」 間を置いた奏の答えに、ゆうきがこめかみを僅かに痙攣させた。目元に険しさが滲む。 「――それは本心か?」 「もし、違うとして……俺が雪葉と付き合いだしたらどうするつもりです?」 ありえない未来だと思いつつも、問わずにはいられない衝動。 挑むような思いでいる自分を奏は自覚していた。否、多分真実挑んでいるのだ。 自分の心の中に踏み込んでくるというならそれなりの代償を寄越せ、と。 睨み合う様に、お互いがお互いの視線を受け止める。 しばらくの後、張り詰めた糸を緩めたのはゆうきが先だった。 「高校を卒業するまで手を出すなって言うだろうな、多分。」 皮肉な笑みを口元に浮かべ、冗談めかして答える。 「……あなたの言える台詞じゃないですね。」 奏は暗に華との事を揶揄した。 ゆうきが苦笑いで時効だと言い、グラスを手に取る。 奏も気を緩め、グラスに手を伸ばした。 「――奏、お前、雪葉のことを恋愛対象としてみられないわけじゃないな? ……いや、むしろ今回の事で自覚した。違うか?」 不意打ちだと思った。 言い当てられ、返答できない奏は言葉に詰まった。否定すべきだと頭ではわかっている。けれど突然の問いかけに、上手い言葉は何一つ出てこない。 確かに、恋愛対象に見られないどころか先ほど自分の気持ちを自覚したばかりだ。 ずっと見守っていたと思ったはずの少女は、いつの間にか、時折とはいえ大人びた気配を纏うようになっていた。 焦がれるように見つめられ、理性の箍が外れそうになりもした。 否、内心では他の男が雪葉に触れたことが、許せなかった部分もあったのかもしれない。 ここまできては、もう自分の傲慢さにもう呆れるしかない。 どうして気づいてしまったのだろう。雪葉が愛しい。けれど、それは――娘のようではなくて。 雪葉を娘のように思っているはずだった。大切に大切に見守ってきた。見守ってきた、はずだった。 それを自分の手で摘み取ることなど考えた事も無かったはずだというのに。 「良く考えろ。その上で雪葉のことが迷惑だって言うんなら、もうお前の元には来させない。」 手にしたまま口をつけていなかったグラスの中身を一気に飲み干し、ゆうきが席を立つ。 身一つで来たらしいゆうきは実に身軽そうに歩き出そうとし、何かを思い立ったかのように奏を見下ろした。 「因みにお前、雪葉が襲われていた時、何を考えてた?」 「……は?」 問われた意味を理解できないまま、何を突然と言外に漂わせ、奏はゆうきを見上げた。 「なら、俺が華を押し倒してたときには?」 「何を言っているですか、あなたは――そんな昔のことは忘れました。」 嘘だ。まだ記憶の片隅に残っている。 あれは身のうちが滾るような怒りと―――多分、それは諦めだった。 「お前が手離すなら、いつか雪葉は違う男のものになるってことだぞ、奏。」 予想以上の衝撃が、胸にきた。 いつの日か、雪葉が自分とは違う男に笑いかけ、焦がれた目を向け、愛を請う。 考えたくは無い未来以外の何物でもない。 「それが……当然です。」 「諾々と認められるのか?」 見透かすような、何もかもをわかっているかのような言葉に、奏は黙り込むしかなかった。何を言ってもこの男はきっと嘘を見破る。何も答えようがない。 口を閉ざして顔を逸らした奏の耳に、ゆうきの溜息だけが響く。 「……お前も大概強情な奴だな。」 「放って置いてください。」 「――俺は、雪葉の気持ちもお前の気持ちもわかるよ、だからもうこれ以上何も言うことは出来ない。」 「……そうでしょうね、貴方なら……。」 かつて華への気持に葛藤したゆうきになら、今の自分の心情が理解できるのだろうことは奏にもわかっていた。 だが、ゆうきと奏は、まったく対極の結論を出した。 葛藤の末に自らの気持を押し通したゆうき。諦めようとしている奏。 どちらの答えが正しいのか、今の奏にはわからない。 「でもあれだ、気をつけろよ? お前、一人で突っ走ることは無くても相手が良いといったらどこまでも堕ちていくタイプだよ。冷静そうに見えて女に溺れる。」 にやりと笑い、重い空気を払うようにゆうきが奏をからかう。 昔の色を濃く残しているその様にどこか安心しながら、止めてくださいと奏は苦く笑った。 「どうだかな、案外自分のことって言うのはわかってないもんだぞ。まあ、良く考えろ。――じゃあな。」 ゆうきが片手を挙げ、背を向け歩き出す。 見送るつもりの無い奏はそのままゆうきの背中を目線だけで追ったが、数歩いったところで、ゆうきがふと何かに気付いたように振り向いた。 「ああ、そうだ。最後にもう一つ。これは一応確認なんだが、今日の男がまた雪葉に手出ししてくる事は無いと思っていいな?」 返答如何ではどうなるかわからないと、剣呑な気配を隠そうともせずゆうきが言う。 奏は一分の偽りも無く、それは絶対に無いと確約した。 ゆうきに言われるまでも無く、二度と狩元を雪葉に近づけるつもりは無い。 「そうか……奏。」 「はい?」 返事をした奏に、ゆうきが大股で近づいてきたかと思ったら、拳を振り上げた。 しかし右の頬に触れる寸前、ぴたりと止まる。風圧だけが奏の頬を打った。 「本当はお前の事も殴ってやろうと思ってたんだけどな。雪葉が泣くから止めとく。」 「――殴ってくれても良かったんです……。」 微動だにしなかった奏は、ぽつりと言った。 雪葉を守れなかった――否、雪葉を傷つけたという罪悪感を軽くしたいが為の弱さだとわかってはいたが、言わずにはいられなかった。 それを察したのか、ゆうきが溜息をつき、呆れたように馬鹿野郎と短く吐き捨てた。 「そんなもので罪悪感を誤魔化すより、お前はもっと自分に正直になれ――だから明日、覚悟を決めとけよ。」 「――は?」 「明日も仕事だろ? でも早く帰って来い。」 「なんですか、それは。」 「もう箍は外れたって事だろ? まったく誰に似たんだかなぁ?」 わけがわからない。しかし、そんな奏のことはまったく眼中にないのか、ゆうきは一人何事かを不満げに呟き、頭をかく。 「話がみえませんが……ちょ……、ゆうき?」 「顔色悪いぞ、もう今日は何にも考えないで寝ろ。」 若干の不機嫌さを含んだ声で告げると、用は済んだとばかりに、ゆうきは奏の疑問をそのままに帰ってしまった。 後に残されたのは、一体何のことかと、やや呆然とグラスを手にした奏だった。 一方、マンションを出たゆうきは、借りた傘越しに奏の部屋を見上げながらこの程度の仕打ちは許されるだろうと一人苦笑していた。 「――諦めろ、なんて言ってもやっぱり無駄か……。」 甘いよなぁ、と一人ごち歩き出す。 けれど泣く子に敵わないことは、誰よりもよくわかっていた。 |
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