07. 幸福の定義


「おはよう。昨日はすまなかったな、志野屋。」

始業前、出社した奏は席についていた志野屋に背後から声を掛けた。
クライアントからのメールに目を通していたらしい志野屋が、はっとしたように振り向き、もの問いたげな表情をする。

が、幾分か迷いを見せた後、志野屋は首を撫でながら明後日の方向に視線を逸らした。

「いえ、おはようございます。あー、昨日のこと……は聞かないほうがいいっすよね、やっぱり。」
「そうしてもらえると助かる。」

内情に土足で踏み込んでくる真似をしない志野屋の気遣いが、内心有りがたかった。
説明し様にも説明できる類のことではない。

「了解です。――あ、と。済みません、ちょっと書類の確認をしていただきたいんですが。」
「わかった、目を通しておく。後で取りにきてくれ。」

丁寧に纏められた書類が差し出される。
それを受取り、その後も志野屋からの仕事上の質問にいくつか答えた後、奏は渡された書類を片手に自席へと足を向けた。



「叶、ちょっといいか?」

奏が市ノ瀬に呼び止められたのは、午前中の仕事を片付け昼食に向かおうと通路を歩いている時だった。
いつに無く硬い表情をした市ノ瀬と連れ立って、会社近くの小さな喫茶店に赴く。

用件の察しが付いていた。
いつもは軽口を叩く市ノ瀬が黙り込み、店員に注文をした後も迷うように視線をさ迷わせている。

水の注がれたグラスを持ち、間を持たせるように何度か口をつける。
しかし料理が運ばれくる段に至って、漸く決心がついたというように市ノ瀬は話し出した。

「あの子……未遂、だよな……?」
「――狩元は何て言っている?」
「逃げ込まれて手が出せなかったとは言ってたんだが。それに最後の方は多少冷静になっていたらしい。」
「そうか。」
「――後悔してたよ……あいつさ、泣くんだよ。謝りながら……。」

遣り切れなかった、と市ノ瀬が苦しげに吐き出す。

奏は、その話にも何一つ心を動かされなかった。
それ程までに狩元を許せない。雪葉にしようとした行為を考えれば当然だ。

「自分で招いたことだ。」
「そうは言っても……やっぱり割り切れない事の方が多いんだよ、世の中には……。」
「そうだな。だが、今回の事でそれは言い訳にならない。」

冷静に話す奏の、取り付く島も無い態度に諦めたのか、市ノ瀬は溜息をついて頼んだランチセットに手をつけ始めた。
余り食欲があるわけではなかったが、繊細にも見える、けれど決して女性的ではない器用な手つきで奏も食事をはじめる。

「なんだ?」

視線を感じ、奏は手元から目を離すことなく市ノ瀬に問い掛けた。

「いや――ちょっと意外だったからさ。」
「意外?」
「お前って、こう……あんまり目に見える形で感情をむき出しにするってないだろ? 昨日は、正直驚いた。」

奏が伏せていた目を上げると、市ノ瀬は苦笑いの体で手を止めている。

「いいんじゃないか。」
「何が、だ。」
「何がってお前、好きなんじゃないのか?」

驚いた様子の市ノ瀬に当然のことのように問われ、奏は押し黙った。

「何か色々小難しく考えてるだろ? お前の悪い癖だな、それ。よく言えば慎重なんだろうけどよ。」

「――そんなに、わかりやすいか?」

手を止め、奏は観念しながらぽつりと言った。

「昨日のあの姿をみたら、な。」

市ノ瀬に更に苦笑され、嘆息する。
昨日は形振りを構っている余裕は、一欠けらも残ってはいなかった。
だがそれだけに、余計な事を何も考えずに行動できたのだ。

「昨日のあれは忘れてくれ。もう終わった。」
「終わった?」

硬質な声で告げる奏に、市ノ瀬が不審そうに眉宇を顰める。

「終わったってどういうことだ、どうし……、」

市ノ瀬の問い掛けが途切れた。
自動ドアが開いた音と共に、新鮮な、けれど冷たい空気が流れ込んでくる。
入ってきた人物に、フォークを繰っていた奏の手が、止まった。

「――叶。」
「狩元……お前。」

殴りかかりそうになる衝動を堪え、奏はたった今店に入ってきた人物に向け、絞り出すような声で低くその名を呼んだ。



***




「市ノ瀬、お前か。」
「すまん。どうしてもお前と話がしたいって言われた。」

静かに激昂する奏へ、市ノ瀬が気まずそうな顔で両手を軽く上げ謝罪する。
この店を選んだ市ノ瀬の魂胆は、この仕掛けだったのだ。
奏と狩元をあわせる為のお膳立てだったのだと、奏は常に無く苛立ちを感じた。

「――何の用だ。」

緊張した面持ちで居住まいを正して奏の正面へ坐った狩元を、奏は冷たく一瞥した。
狩元の姿はお世辞にも整っているとは言い難かった。
櫛の入っていない髪に髭のあたっていない顎。緊張の為か目元は僅かに痙攣している。

「すまなかった!」

テーブルに頭をつけ、突然狩元は平伏した。

テーブル席とはいえそれなりに人目はある。
周りの何事かという視線に晒され、しかし奏の氷のような態度は一変もしない。

「――叶。」

頭を下げたまま一向に動かない狩元に同情したのか、市ノ瀬が取り成すように宥めるように奏に声を掛ける。
乱れた狩元の頭髪を見下ろし、奏は浅く息を吐いた。

「……随分と馬鹿な真似をしたな。」
「――あの子には、あの子には本当に謝っても謝り足りない、と思ってる……本当にすまなかった……。」

心底悔いている様子で、狩元が何度も何度も謝罪する。
しかし奏は雪葉の件に関して許すつもりも無いが、自分が狩元の謝罪を受ける謂れもないと思っている。
雪葉を傷つけてしまったのは自分も同じだと、自嘲と共に目を伏せた。

「引き抜きがあったんだな?」

淡々とした奏の言葉に、はっとしたように顔を上げた狩元の視線は、直ぐに奏から逸らされた。
テーブルの上に置かれた自らの手にまで徐々に落とされたそれはそこで止まり、狩元は躊躇いがちに話し出した。

「多分、焦ってたんだ……同期のお前らが出生していくのが怖かった……だから誘われて断りきれなかった。待遇良く受け入れてもらいたきゃ、それ相応の代価を寄越せといわれたときにはもう手遅れだったんだ。」

その後も悩んでいた事、何度もやめようとした事。
それでも止める事は出来ずに、とうとう奏に痕跡をみつけられるまで続けてしまった事を、ぽつりぽつりと狩元は語った。

奏も市ノ瀬すらも、ただじっとその話を聞いていた。
暫くして狩元が話し終わったときには、重く息苦しい空気が流れていた。

「どう贖ってもらおうが、お前がしたことは許されることじゃない。」

奏が抑揚の無い声で断罪する。
狩元は俯き、膝に乗せた拳をきつく握り締めた。

「許してもらおうなんて虫のいいことは思ってない。もう元の様に付き合えるとも、思ってはいない……。」
「狩元――わかってるとは思うが、俺はお前の手前勝手な心情に付き合うつもりはまったく無い。」

いっそ怖いほどに何の感慨も無い奏の言い様だった。

「お前のそんな顔は、はじめてみるよ……あの子、か?」
「勘違いしているようだが、あの子は関係ない。二度と彼女の前に姿を見せるな。これは警告だ、次はないと思え。」
「関係ない、か……。でも俺に殴りかかってきたときのお前は、」
「狩元、もう一度言う。次は無い。」

狩元が言い終わる前に、奏は重ねて冷たく言い放った。

「……ああ、わかってる。」

奏の纏う冷やりとした気配に臆したのか、狩元の喉がなる。

「なら、もう話す事はないな。」

殆ど食事に手を付けず、奏は席を立った。
市ノ瀬が引き止めるように声を掛けてきたが、これ以上この場に留まる気には到底なれない。

「昨日!」

声高な狩元の声。奏は眉根を寄せ、無言で振り返った。
狩元は椅子から腰を浮かしテーブルに手をついて、唇をかみ締めていた。

「昨日、帰ったら……留守電に連絡が入ってた……、前に取引のあった会社から、こないかと……お前、だな?」
「何の事だ。」
「誤魔化すな、今日、人事の担当者から聞いたんだ。」
「俺はまた問題を起こすかもしれない、なのにどうしてだ。」
「どうするかはお前の自由だ――ただ、お前は二度も過ちを犯す程馬鹿じゃない……いや、馬鹿じゃないと思っていた、だな。」

奏と狩元の遣り取りに、市ノ瀬が何事かという顔をしている。
だが事の成り行きを見守るつもりらしく、横槍を入れてくるようなことは無かった。

「叶……。」
「買被りだったみたいだがな。」

奏が、狩元を射抜く様に見据える。狩元は力なく椅子に座り込むと両手で顔を覆った。

「叶、すまなかった……すまな……」

狩元の声が途切れ、嗚咽が続く。奏は、躊躇うことなくその場を後にした。



「――お前、いつから根回ししてたんだよ。」

雑踏の中、会社に戻る奏の背後から、どうにも納得が行かないと言うように市ノ瀬が文句をいう。
最初は無視を決め込んでいた奏だが、交差点の信号で歩を止めたところで隣に並んだ市ノ瀬に腕を小突かれ、仕方なく振り向いた。

「何が。」
「何がじゃないだろ、狩元のことだよ。俺には何にも話はなしかよ。つめてーな、まったく。」
「どう転ぶかわからなかったから、黙っていた。それだけだ。」

素気無く答えた奏に、市ノ瀬はまだ不満顔だ。

実のところ、狩元の不正が発覚した時点で、奏は狩元の今後についていくつかの手を回してはいた。
こんな馬鹿なことをするには理由があるのだろうと思っていたし、紹介先で何かあった場合は責任を取るつもりでもいた。

けれど昨日の出来事があった後も話を潰さなかったのは、狩元を目の及ぶ位置に置いておくためだった。
この先狩元が馬鹿な逆恨みをして来たときに、対処できるように。
何よりも二度と雪葉に近づけない為に。


信号が赤から青に変わり、人の波に逆らわないよう二人は足早に歩き出す。

「叶、さっきの話。お前さーもう少し素直になれば。」
「さっきの話?」
「終わったって言ってたやつ。今、ひでえ顔してんぞ?」
「……もうどうすることもできない。」
「自分でそう思ってるだけだろ? お前全体的に引きすぎるんだよ。何を怖がってるのかわかんねーけど、それじゃ望むものなんて何一つ手に入いりゃしないだろ。」

あっけらかんと軽く言った市ノ瀬は、奏の肩を叩くと一足先に目前に迫っていた社屋の中へ消えていった。

――望むもの……。

市ノ瀬に投げかけられた言葉が、漣のように奏の心に波紋を投げかける。
雪葉を得る為に、なくすものがあるのは構わない。

けれどそれを雪葉も強いる事になるのではないかと思うと、どうしても一歩を踏み出す事は出来なかった。
思いはすれ違い絡み合うことなく……。

それでいいと思うのは上辺だけの理性。何も考えずにかき抱いてしまえばいいと、本能は囁く。
雪葉の手を振り払ったことを、どうしようもない事とわかっていながら悔やんでいる自分が、奏の中に確かにいた。



***




等間隔に配置された街灯。
余り人通りが多いとは言えない路地の、道なりにある茶色いタイルで覆われたマンション。
車を持つ住人は、駐車場になっている地下で大抵橙色に点灯した階数表示を見上げながら、エレベータが下りてくるのを待つ。

書類ケースを抱えた奏も今はその一人だ。だが時間帯の為か、静まり返った地下に奏以外の人影は見当たらない。

――少し遅くなったな。

腕時計を眺め、溜息をつく。

ゆうきの言葉に素直に従い、早めに帰宅した自分に少し呆れていた。
何があるわけでもないだろう。それなのに馬鹿だなと小さく一人ごちる。

幾分も経たないうちに、エレベーターが下りてきた。
機械的に開かれた箱の中から数人の住人が降りて来る。

見知った顔に軽く挨拶をされ、奏は頭を下げた。
冷え込む為か、皆足早に歩き去って行く。箱が空になったところで、冷気を纏わりつかせたコートの裾を翻し、奏は中に乗り込んだ。

慣れた仕草で自宅のある階のボタンを押し、小さな箱の壁に背を凭せ掛ける。
眼鏡を外し鼻の付け根を軽く押さえ、疲れた――口の中で低く呟き、額にかかる髪を緩くかきあげた。

自分の手の半端な体温がやけに不快だった。
同じように体温で暖められた眼鏡を再びかける気になれず、コートの内ポケットに仕舞い込む。

エレベーターが緩い振動と共に止まった。無機質な動作で扉が開き、冷気が流れ込んでくる。
書類ケースを抱えなおし歩き出したところで、視界の先にうつった何かに奏は顔をあげた。

まっすぐ進んだ先、自分の部屋と思しき扉の前に何か黒い物がある。
よくよく目を凝らすと、蹲っている人、のように見える。

確かな予感に胸がうずいた。まさかと思いながら近づき、取り出した眼鏡をかける。
そこにいたのは、雪葉だった。
玄関扉の前に寒そうにしゃがみこんで、手を擦り合わせている。

「……雪葉?」
「あ、お帰りなさい。」

驚きながらの奏の呼びかけに、雪葉が振り向く。

「何故こんなところで……。」

問いただそうとして、ああ、そうか、そういえば鍵はゆうきが持っていたなと、歩幅も大きく雪葉に近づき思い至る。
スカートを手で軽く叩き立ち上がった雪葉は、安堵したような笑みが零していた。

「――どうしてここに?」
「えっと……ホントは中で待ってて脅かしちゃおうかなーなんて思ってたんだけど、鍵、パパに取られちゃって。」

的を外した答えを言いながら、雪葉がばつの悪そうに笑う。
途端、頬が痛んだのか片側の笑みが僅かに引き攣った。
昨日、狩元に打たれたところだろう。ただ幸いな事に、外見上は目立った跡にはなっていない。
内心安堵しながらも、奏は表情を緩めることなく厳しく言い連ねた。

「そういうことじゃない。もう此処には来ないようにいったはずだよ。」
「うん、だから最初に言っとくね。ごめんなさい。――中、入れてもらってもいい?」

首を傾げる雪葉に溜息をつき、奏は無言のまま鍵を開けた。
すっかり冷え切っているだろう雪葉をこのまま追い返すわけにはいかない。

「――入りなさい。」
「ありがとう。」

まるで昨日の出来事が無かったかのように、雪葉は無邪気だった。


暖房を入れ、お湯を沸かしお茶を淹れる――最早習慣となった行動の合間に、奏はソファに大人しく座っている雪葉をそっと覗った。

何を考えているのか、わからない。
思い返せば雪葉にプレゼントを強請られた日からこちら、ずっとそうだった気がする。
今はまるで知らない少女と、否、女性と向き合っている気すらした。

カップに琥珀色の液体を満たし、奏が雪葉を呼ぶ。
けれど雪葉は一度奏を見ただけで、ふいと顔を逸らすとソファから降りて窓際に歩み寄った。
雪葉の指が厚手のカーテンに掛かり、闇色に染まった空があらわれる。
すっかり暗くなっている外の景色を見せる窓には、雪葉の姿が映りこんでいる。

「あのね、奏ちゃん。私、もう一回返事を聞かせてもらいにきたの。」

酷く静かに言葉を紡いだ雪葉は、さらりと髪を翻し振り向いた。

持っていたポットをテーブルの上に置き、奏が雪葉に近づく。
これが最後になるかもしれない、頭の片隅で考えながら雪葉にもう一歩のところまで近づき、足を止めた。

「――もう返事はしたはずだよ。」
「違う、そうじゃない。本当の……本当の答えを、気持を、聞きにきたの。」
「返事は変わらない。雪葉の気持ちに答えることは出来ない。」
「私のこと女と思えない、から?」
「――そうだ。」

しんと重い静けさが流れる。奏は静かに雪葉を見下ろし、雪葉は強い顔で奏を見上げていた。
仕舞いこんだ心を晒して、抱きしめてしまいたいと思う。
けれど奏は嘘を見破られないように視線を逸らさず、少しの感情も垣間見せなかった――はず、だった。

「――嘘つき。」

挑むように口角を上げた雪葉が、確信に満ちた口調で言った。
思いがけない一言に、奏は心の乱れを押し隠しながら緩く首を振る。

「嘘じゃない。」
「ううん、嘘つきだよ。奏ちゃんのことなんて全部、ぜーんぶ、お見通しなの。だからそんな風に逃げないで。」

真っ直ぐな瞳に、本当に全てを見透かされている気がした。
偽りの無い気持を隠すことなくぶつけてくる雪葉に、どうしようもなく気持が揺れる。
抱きしめたい、と思う。

「いい加減にしなさい……っ」
「かな、でちゃ……、」

奏は、強引に雪葉の腕を取り引き寄せた。
聞き分けの無い雪葉に諦めさせるつもりだった。それ以上に、自らの気持に決着をつける為でもあったのかもしれない。

勢いのまま雪葉に唇を寄せる。止めたのはギリギリの距離。
昨日の今日、雪葉が乱暴に扱われる事を怖がるだろうとわかっていながらの行動だった。
間近に、震えながらきつく目を閉じている雪葉がいる。
ずきりと心が痛む。最低だ、と自身を罵倒し、けれど奏はそれを表に出す事は無かった。

「――怖いのなら、帰りなさい。」
「……っ、怖くなん、て、ない……っ!」
「震えているのに?」

雪葉が泣き出しそうに唇を噛みしめ、俯いた。

ああ、また傷つけている。
奏の瞳に陰が過ぎる。手を離した雪葉の腕は力なく落とされた。

「帰りなさい、雪葉。」
「――服、脱げば……い、いの?」

「……雪葉!」
「だって奏ちゃん……私のこと、好きでしょう!」

震える声で、雪葉が言った。
咄嗟に否定出来ず目を瞠った奏を、涙の溜まった雪葉の瞳が射抜く。

「――違うと言って、」

「なら! どうしてそんなに寂しそうなの! 傷ついた目で、寂しそうに、してるくせに。私が離れていくのが、寂しいくせに。昨日私に、キス……しようとしたくせに!」

激昂しながら雪葉が叫ぶ。
呆気にとられた奏に、勢い良く雪葉が抱きついてくる。

呆然としたまま下ろした視線の先には、形のよい雪葉の後頭部。

「ずっと……考えてたの。昨日、奏ちゃんは私を通してママを見てたんだと思った、でも本当にそうかなって。私の好きになった人は、本当にそんな人なのかなって……。一生懸命考えて出した答えは、違う、だったから……。奏ちゃんは私を通してママを見てなかった。ならどうしてあの時、キスしようとしたの……? それとも私、やっぱり自分の都合の良いように解釈してるの……?」
「雪葉」

抱きついてくる雪葉は小刻みに震えていた。
どれだけの勇気で雪葉がもう一度気持ちを伝えにきたのかを知る。

「……昨日、一晩考えて……、たった一晩だけ、かもしれないけど。でも私、何年もずっと考えて考えて、待ってた。だからもう待たない。」

雪葉が奏を振り仰ぐ。ただ純粋に信じて欲しいと訴えかけながら。

奏は耐え切れずに目を閉じた。

偽りに誤魔化されてはくれない。
誤魔化して、そう、誤魔化しているのだ。
結局のところ、望んだものは手に入らないのだから、と。
引き際を間違えたつもりはない。だが、それでは欲しいものはいつまでたっても手に入りはしないのだという事を、もうずっと忘れていた気がする。

「奏ちゃんが、好き。勘違いなんかじゃない。お願い、信じて、私を。」

信じて、それは何よりも奏こそが望んでいた。信じたい、雪葉を。雪葉の気持ちを。

瞼をゆっくりと持ち上げる。開いたカーテンの向こうに白く何かが舞った。
雪、だった。白い雪が。

――許してもらえるだろうか。慈しんできたこの子に手を触れることを。

守りたいと思う。共に歩みたいと思う。娘のようにではなく一人の女性として傍にいて欲しい。
強くて、脆くて、確りしているようで危なっかしい雪葉に。

「もう一度、私をみて。今度はもうママの代わりで良いなんて絶対言わない。だから私を見て。幸せにしてあげる。私が、奏ちゃんを幸せにしてあげる。」

まっすぐに奏を射抜く確信に満ちた雪葉の眼差しに、到底敵わないと思った。

――もう誤魔化せない、逃げられない。逃げたいとも、思わない。

華奢な身体を両腕で引き寄せ、抱き締める。髪のかかった肩口に顔を埋める。
腕の中で雪葉が息を飲み、身を強張らせるのを感じた。

「――もう拒絶は聞けないよ? 雪葉、好きだ。」

この先何があっても雪葉を守ろう、抱き締める以上の覚悟を決めて奏は腕に力を込めた。



***




息が、止まるかと思った。

往生際が悪い、でも一縷の望みを捨てる事が出来ずに、考えて考えて。
震える足を叱咤しながら、ここまで来た。

奏の迷惑そうな表情に、泣きそうになった。
でもこれが最後だからと、思いの丈をぶつける為に笑った。

奏が自分を好きでいるかもしれない、そう考える端から、そんなことあるわけがないと打ち消して。
勘違いでもいい、確かめようと心を決めて。

そして、焦がれて焦がれて、けれど、一度は失ったはずのものが今、雪葉の手の中にあった。

「……これ、夢?」
「夢だと思う?」

かすかに笑みを浮かべた奏に首を振ってみせる。夢だとしたら覚めなければ良いと思いながら。

いつもより早い奏の鼓動が、胸に押し付けた耳に聞こえて来る。

「後悔、しない?」

指をそっと雪葉の頬に触れさせた奏に、少し不安の色を滲ませ問いかけられた。
後悔なんてするはずが無い。髪を揺らしながら雪葉は首を振った。

言葉が、出てこない。何か一言でも喋ったら嗚咽が漏れそうだった。
嬉しくて、嬉しくて。感情の激しさに心がついていかない。

「雪葉、本当に俺でいい?」
「……じゃ、なきゃ……奏ちゃ……じゃなきゃ、嫌。」

ぐっと泣き出しそうな自分をこらえて雪葉が答える。
まっすぐな思い、迷いの無い気持。それだけが強みだった。

親子程年が離れていることはわかっている。
それでも奏が欲しいと思う。その気持ちが間違っているとは、どうしても雪葉には思えなかった。

守りたい、と思う。寂しそうな目をしたこの人を。
幸せにしたい、と思う。自分よりも人の気持ちを優先してしまえるこの人を。

幼い恋なのかもしれない。それでも雪葉にとってこれは、一生物の恋だったから。
どんな結末になったとしても後悔しないと、それだけは決めていた。

「好き、奏ちゃんが、好き。」

奏のシャツを握り締め、雪葉は伝えたくて仕方の無い言葉を必死に紡いだ。
まだまだ全然足りない。それでもこれ以上どうしたら良いのかわからない。
もどかしさに、奏をぎゅっと抱きしめ返す。

「――ありがとう。」

耳元で低く囁かれて驚いて顔を上げると、そこには綺麗な奏の笑顔があった。
ぱたりと雪葉の頬に涙が一粒零れ落ちる。

「雪葉?」
「――もう一回言って?」
「ありがとう?」
「ううん、そっちじゃなくて……。」

ふるふると頭を振った雪葉の意図を察したらしい奏は「ああ」と頷き、両手で雪葉の頬に触れ仰向かせた。

「好きだよ。」
「……っ、嘘だった、なんて言ったってもう絶対きかない……っ!」

奏の首に腕を回して、力一杯抱きつく。
雪葉の背に回された奏の腕に力がこもり、抱き返された。

痛むほど激しい鼓動。信じられない、と雪葉は無意識のうちに呟いていた。
けれど、宥めるように背を撫でる大きな手の感触に、これが夢ではないのだとはっきり意識する。

頬が、熱くなる。
昨日は奏の前で一糸纏わぬ姿をすら見せたというのに、何故か気恥ずかしくて身じろぎすると、不思議そうに顔を覗き込まれた。

「あ、の……。」
「……?」
「あの……奏ちゃんからあんまり積極的にこられると……ちょっと慣れない、みたいな……ね、その。」

顔を真っ赤にして瞳を潤ませる雪葉に、数回瞬きした奏がはっと短く声を立て笑った。

「なるほど、それは良いことを聞いたな。」
「良いことって……な、何考えてるの奏ちゃん……っ」
「――雪葉には随分翻弄されたからね、さてどうしよう?」

人好きのする穏やかな笑みでそんな事を言う。
雪葉はぎょっとしながら身を固くした。

「冗談だよ、そんなに警戒しなくても大丈夫。」

雪葉から身を離して両手を挙げた奏に「お茶にしよう」と促され、こくりと頷く。
向けられた背中を見つめながら熱を持った自分の頬に触れ、雪葉は震える息を吐いた。

知らない奏の一面、けれどそれはまったく不快ではなくて。

――どうしよう、どんどん好きになる。

膨らむ気持ち。行き場を見つけたそれは大きくなるばかりだ。

「雪葉、おいで。」

暖かなお茶をテーブルに置いた奏が雪葉を呼ぶ。
雪葉は満面の笑みで奏の傍に走り寄った。



***




楽しそうにしていた雪葉がまどろみはじめたのは、お茶を飲み始めてからそう時間の経たないうちだった。
どうやら昨夜は余り寝ていないらしい。
気づいた奏が傍に寄り肩を軽く揺すると、雪葉はいやいやをするように身を竦めた。

「雪葉? 眠いのなら送っていくよ?」
「ん……や、いい、まだ……帰らな……。」

たどたどしく言った雪葉が、奏に凭れかかる。
瞼が完全に落ち、規則正しい寝息が聞こえ始めた。

「……参ったな。」

どうしたものか逡巡しながら、奏がぽつりと言う。
真剣に困っているわけではないが、このまま寝室に連れて行って寝かせるのは流石に拙い気がする。
かといってこのままにしておくわけにはもっといかないだろう。

暫く考えた末、奏は雪葉を抱き上げると、独り住まいにしては大きいソファまで運んだ。寝室から持ってきた毛布ですっぽり包む。

むずがるように何度か体を動かし納まりの良い場所を見つけたらしい雪葉は、ソファの上で猫のように丸まった。
随分と無防備な姿に、本当に自分を男として意識しているのだろうかと奏が苦笑する。
毛布から零れ落ちるやや茶色味を帯びた真っ直ぐな髪。丸みを帯びた頬に、乱れた前髪からのぞく額。

奏は指で雪葉の頬に触れ、前髪を掻き分けた。
床に膝をつき、雪葉の上に屈みこむ。額への軽いキス。
無意識なのだろうが、その途端に雪葉がふふと笑った。

――忍耐力を試されている気がする。

つい思ってしまった自分に溜息をつき、とりあえず気付かない内に熱くなっていたらしい頭を冷やそうとベランダへ向う。

外気は凍える冷たさだった。けれど今の奏にはそれが心地よい。
肺一杯に吸い込んだ空気が身のうちを冷やしてくれる。

仰ぎ見た空から、白い粉雪が舞い落ちてくる。
暫くそれに見入っていた奏は、ふと視線を下に転じた。

自然と目が向いた外灯の下に人影。

奏は踵を返し室内に戻ると、雪葉が良く眠っていることを確認し玄関へと急いだ。


外灯に照らされた中、粉雪が舞っている。
光源の下に、長身の男が一人佇んでいた。

口元から漏れているのは、紫煙か呼気か。

判別がつきかねるなと、冷え込む外気を吸い込み、奏は真っ直ぐその人物の元へ進んだ。
近寄るとやけに煙くさかった。どうやら揺蕩っていたのは紫煙らしい。

「よう、覚悟は決まったか?」
「お陰様で。」

咥えていた煙草を離し口の端を持ち上げたゆうきに、奏は顎をそらせ泰然と答えた。
皮肉気な笑みのまま、ゆうきがコートのポケットから携帯灰皿を取り出し片手で器用に開いて煙草を押し付ける。中には随分たっぷりとした本数が溜まっていた。
一体いつからここにいたのかと奏が尋ねたが、ゆうきは肩を竦めただけで答えようとはしない。しかし恐らく大分前から居たのだろうことは想像に難くないだろう。

「そんなに心配しているくせに何故嗾けたんですか。」

半ば呆れながら呟くと、ゆうきの眦にやや剣呑な気配が浮かぶ。

「阿呆。子供の幸せを願わない親なんていないだろ。……癪だがお前のことは信用してるんだよ、一応。」
「それはありがとうございます。――なら、良いんですね?」
「何が。」
「もう離しませんよ。」

質問でも確認でもなく、奏はただ事実を言う。
ゆうきは一瞬射抜くように奏を睨み、次いで諦めたように深く息を吐いて舌打ちした。

「――今日は置いていく……が、手は出すなよ?」
「あなたじゃあるまいし。」

間髪いれず返した奏に、ゆうきが実に苦々しげな顔をする。
しかし身の覚えがあるだけに何も言えないらしい。

「雪葉は?」
「眠ってます。」

頭をかきながら尋ねてきたゆうきに、肩を竦め正直に答える。
ゆうきの手がぴたりと止まった。胡乱な目で奏は再び睨まれる。

「――お前、まさか。」
「言ったでしょう。貴方じゃあるまいし、何もしてません。」
「本当だろうな?」
「本当ですよ。何ならご想像にお任せしますが?」
「――心臓に悪いな、それは。一応信用しておこう。」

多少投げやりな奏の言い分にとりあえず納得を示したゆうきは、冷えるなと言いながら奏に背を向けた。

「いいんですか?」

雪葉をこのまま置いて行っても、という意味合いを込めたつもりだった。
その意を正確に汲んだものかどうかはわかりかねるが、ゆうきは片手を上げそのまま足を止めることなく歩き去った。



***




奏のマンションからやや離れた場所に止めた車に乗り込み、エンジンをかける。
コートから取り出した煙草ケースの中身は、ほぼ無くなりかけていた。
近頃めっきり本数が減っていたが、今日はもう何本目になるかわからない。

「年甲斐も無く浮かされやがってあの馬鹿。」

まるで華を手に入れたときの再現だと思った。立場はまったく逆になってはいたが……。
父親として最後の尊厳を示しては見たが、無駄だとわかっている。
熱を孕んだ目で、焦がれた目で――情熱に駆られている男を前にそれは意味のある行為ではないだろう。
不遜な態度で自分を見返してきた男は、まさに小憎たらしい隣の恋敵だった頃の奏そのもので。
娘を取られる父親という立場上、恋敵だった頃とまた同じような立場になっているのだろうと思う。
最も今回ばかりは完璧な負け戦になることは目に見えているのが悔しいところだが。

「……当分嫁にはやらん。」

父親としての常套句を呟きながら、ふんと鼻を鳴らし、ゆうきは紫煙を燻らせた。



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