02



互いの唇が離れてから、少し後。

身体を運転席側に向けてシートに寄りかかるようにしている華の、まだ熱の篭る瞳をゆうきは見つめ返していた。

華の滑らかな頬にかかっている髪をそっと掻き分け、細い首筋に触れる。
そのままつと指を滑らせば、擽ったそうに華が身じろぎした。

無邪気なように見えて、妙に艶めいた仕草。

ゆうきは劣情を刺激され、しかし今の状況でキス以上の行為に及べるわけもなく。
軽く息を吐くと自分を宥め、華を囲うように助手席のシートに手をついた。

軋んだ音に、華の表情が問いかけるようなそれに変化する。

「車を降りる前に、一つだけ約束して欲しい。」

「ん…、なぁに?」

不思議そうに首を傾げる華に促され、ゆうきの口元から笑みが消えた。
言うべきだろうかと、瞬間惑う。

けれど。

「―――これからは橡にあまり近づかないでくれ。」

少し間を置くと、ゆうきは低い声で告げていた。

これを華に要求することは、自分のエゴでは無いかと思う。
それでも、不安材料は出来る限り減らしておきたい。
華に興味を持っている男へ、わざわざ近づいてもらいたくは無かった。

それに、橡は興味本位だけで華に近づいているわけでは無い気がする。
ゆうきにも一体橡が何を目的としているかはわからないが、もとより腹に一物も二物も隠し持っているような男だ。

思えば橡は華と再会してから、随分華のことを話題にするようになったと、ゆうきは僅かに眼を細める。それに、ゆうきに華のことで妙に絡んでくるのも気になっていた。


「華?」

暫く待っても返事が無いことに焦れ、ゆうきが華に顔を近づける。
少し困ったように彷徨う華の視線。

「…ゆうきちゃんってば、橡さんはお友達なのにそれはあんまりじゃ…。」

「それとこれとは別問題。」

更に至近距離まで顔を近づけながら、ささやかな反論にゆうきはきっぱりと言い切った。

華の視線が再び彷徨う。
それを確認したゆうきの眉間に、皺が寄った。

「―――華、橡のこと気に入ってるだろ。」

「え?」

ぴくんと肩を震わせ、華の視線が漸く一点を向いた。
そう、不機嫌なゆうきの顔に。

「…俺の思い違いだって言うんならそれでいいんだけどな。」

眇めた目でゆっくりと口元に薄い笑みを刷きながら、ゆうきが問い詰める。

華が何故だか橡に対して、今までもやけに友好的であることを何となくは感じてはいたのだが、今の反応はそれをはっきりと裏付けるものだった。

しかし、ゆうきにはその理由がさっぱり思い当たらない。

確かに華はあまり人見知りはしないが、それでも昔一度会っただけ、しかもつい最近再会したばかりの相手に対して何故、と思う。

まさか、華が橡を恋愛対象の男として見ていることはないだろうが、それでも心に引っかかる。
馬鹿げている…馬鹿げているとは思っても、黒い感情が込み上げる。

華が好意を持つ人間全てに嫉妬するつもりかと、それはあまりにも狭量過ぎるだろうと自らを戒めてはみるものの、やはりゆうきにとってあまり愉快な状況とはいえない。

ゆうきは時間の経過に焦れながらも、困惑気味な華を見据えながら反応を待った。


「…………言っても、笑わない?」

華が溜息を一つ吐く。そして、観念したように低く呟いた。

「笑わない。」

ゆうきが確約する。だが、それでも華はまだ言うことを躊躇しているようだった。

「本当に絶対、絶対、笑わないでね。」

「分かった。絶対だ。」

華からの確認を受け、ゆうきが再度了承する。
すると、やや間を置いてようやく華が重い口を開いた。

「…橡さん、ね…何となく…なんだけ、ど…父さんに…少し似てるかなぁ…て。」

ゆうきにしてみれば、思いも寄らない華の言葉だった。

「―――父さんって…康弘さん?……橡が――…?」

驚きも顕に、ゆうきはこくりと頷く華を凝視する。

入退院を繰り返していた所為か、あまり面識の無い康弘の面影は、ゆうきの中でかなりおぼろげだった。
だが、何とか思い起こしたそれが橡と重なる―――とは、あまり思えない。
どちらかといえば、物静かで穏やかな人物だったという印象が強かった。

―――似ているか?

それは確かに、康弘が華に見せていた面とゆうきに見せていた面が同じとは限らない。

―――なら、似ているのか。

結局のところ、華の中に存在する康弘の姿は華にしかわからないということかもしれないと、ゆうきは自分を納得させた。

ゆうきより格段に触れ合う機会の多かった華が似ているというのだから、やはりどこか似てはいるのだろう。

「なるほどな。…華からはああいう風に見えてたんだな、康弘さんが。」

どさりと運転席に戻り、ゆうきは息を吐いた。
とりあえず今は好意に由来するものが分かっただけで充分だ。

「もしかして、ゆうきちゃんから見たらあんまり似てない?」

不安そうに華が言うのを聞きながら、ゆうきはふと苦笑した。

「あまり、な。橡とは付き合いが長いから、そのせいかもしれない。でも華が似ているんだって言うんならそうなんだろ。…でも、橡に似てるなんて言われたら多分、康弘さんは心外なんじゃないか…?」

「えっ!そ―――そう、かな?」

心底驚いた様子で目を見開いた後、俯いた華がうんうんと唸りながら考え込む。
ゆうきはその華の頭に手を載せると、くしゃりと撫でた。

「―――華の言い分は分かったから。でも一定のラインから先は踏み込まないこと。それと、最低限の警戒心は持ってくれよ?」

「…うん。わかった。」

ゆうきの持ち出した約束事に、今度は華も素直にこくりと頷いた。

それを見て、ゆうきは更に華の髪をくしゃくしゃと撫ぜた後。
「さて、じゃあ昼飯食べに行くとするか。」と、笑みを浮かべながら言った。



***




「あ!待って、あのね、ゆうきちゃん。私も車を降りる前に一つ聞いて良い?」

それは意識しないうちの、咄嗟の行動だった。
橡の話題を終わらせ、まさに車を降りようとしているゆうきの袖を、華は掴んで車中に引き止めた。

「ん?…ああ。」

ドアに手をかけたまま、ゆうきが華を振り返る。

ほんの少し何と言うべきか迷い。
けれど直ぐに、華はゆうきの袖を掴んだまま慎重に言葉を選んで喋り始めた。

「ええと…ゆうきちゃん、橡さんとの事、怒ってたんだよね?でも、それでなんでお昼ご飯…外食になったの?」

それは今日ゆうきに会って、最初に華が感じた疑問だった。
マンションを訪ねるなり外に連れ出されたことが、不思議で仕方なかったのだ。

話をするなら―――特に、今のような話であれば、直のことマンションの方が良かったのではないかと華が首を傾げる。幾ら今居る駐車場に人気が殆ど無く、止まっている位置が奥まっているからほぼ人目は届かないとはいえ、まったく人目が気にならないというわけではない。

「ゆうきちゃん?」

考え込むように動きを止めていたゆうきが、ドアにかけていた手を離し、口元を覆いながら天を仰いだ。
ちらりと華に流される視線は、それがとても言い難い理由だということを如実に現している。

けれど、それでも華はゆうきの答えを待った。
先程ゆうきが華に橡の事を問い詰めた時とは、まるで逆になった立場。

暫くすると、ゆうきは諦めたように華から顔を背け、顰めた。

「―――まったく人目が無いところで話したら、ちょっと自分を抑えられそうに無かった。」

「…?…それって…つまり?」

「―――華の意志を無視して酷いことをしそうだったって事。」

「酷いこと?」

まったく見当のつかないその内容に、華が目を瞬かせる。
ゆうきは変わらず明後日の方向を見たまま、黙り込んでしまった。

―――酷いこと…。ゆうきちゃんが…私に?

一度目を瞑り、考え込む。と、不意に華はくすくすと笑い出していた。
目を開けると、ゆうきが驚いたように華を見ている。

「華?」

不思議そうに名を呼ばれ、華は躊躇うことなく、ゆうきの腕に自分のそれを絡ませた。

「―――ゆうきちゃんは私に酷いことなんてしない。」

絶対の確信を込めて華が囁く。
僅かに見上げた先には、ゆうきの呆れたような、驚いたような顔。

華はにこりと微笑んだ。

「本当に酷いことをしても…知らないぞ?」

「―――ゆうきちゃんは私に酷いことなんてしないよ。…例えされたとしても、大丈夫だもん。」

低く呟くゆうきに、華はふるふると頭を振りながらもう一度否定する。
ゆうきが今度こそ呆れたような顔をした。

「そういう台詞を言われると、自惚れる。」

「…うん、いいよ……私は、ゆうきちゃんになら何をされても平気。」

しっかりとゆうきの腕に掴ったまま華が小さく呟く。
直後、あっと思う間も無く、華は身体ごと向き直ったゆうきの胸の中に抱きしめられていた。

「―――他の男には、絶対そんなこと言うなよ?」

熱く、熱の篭った声でゆうきが囁く。
華はきつく抱きしめてくる腕の中で身じろぎして、ゆうきを振り仰いだ。

「…もう。私…そんなに信用が無い?…あのね、私は多分ゆうきちゃんが考えているよりも、もっとずっとゆうきちゃんのことが好きなんだよ?」

頬を紅潮させ、華は回した手でゆうきの背中を抗議の意味を込めて軽く叩く。

「それを言うなら、華もだろう。俺をもっと信用してくれ。華が思っているよりずっと華に溺れてるよ。……だから、簡単に別れ話かもしれないなんて考えないようにな?」

前半部分は甘く囁き。後半部分は華をからかう様に、ゆうきは悪戯めいた笑みを浮かべていた。
華が、ぐっと言葉に詰まる。的を射たことを言われているだけに反論のしようがなかった。
ゆうきを信じていないわけではないが、以前の関係の方が良かったと―――以前の関係に戻ろうといわれたら…と、不安はある。
ずっと大人びた女性ばかりを相手にしていたゆうきにとって、自分は物足りないかもしれないと華が思っても仕方の無いことだった。

「…それは、ごめんなさい。何だが凄く動揺してたみたい。だってゆうきちゃんの様子がおかしかったんだもん。」

「それは華の警戒心が薄いのが原因。」

ゆうきの胸に顔を埋め小さく呟いた華の頭上から、やはりからかうような声が落とされる。
華は、自分の思い違いと軽率な行動を深く反省しながら、ゆうきのシャツを握り締めた。

「…その……以後、気をつけます…。」

「ぜひともそうしてくれ。」

二三度ぽんぽんとゆうきに頭を軽く叩かれ、華は小さく頷く。
そして、きつく抱きしめられていた腕から解放され、ゆうきを見上げると、触れるような軽いキスが降って来た。


「さて。他に、聞きたいことは?」

「…無い、です。」

突然のキスに驚き、朱色に頬を染めながら華が答える。
ゆうきが甘く笑み、車のドアに手をかけた。僅かな音を立て、ドアが開かれる。

「よし、じゃあ今度こそ行くか。」


車を降りた二人は、どちらからもとなく手を繋ぎあった。
それは店内に入る僅かな距離の間。

けれど互いの暖かな手の温度は、二人にとって何よりも大切なものだった。



〜Fin〜



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