Prologue 災難、はじまる。 |
満天の星空の中、銀色に輝く満月が照らし出す、二月の海岸沿い。 ダウンジャケットにジーンズ姿の男が長身をやや屈めるようにし、両手をポケットに突っ込んで、独り歩いていた。 そこそこに整った顔に縁無し眼鏡、しかし、どことなく枯れた印象のある彼の名前は、高波 閃(タカナミ セン)。県内でも屈指の有名大学に通う二十歳の青年である。 今日も今日とて苦学生である彼は、コンビニでのバイトを終えて帰路についているところであったのだ。 「はー、今日も疲れたなー。」 海風吹きすさぶ中、溜息を落とす。閃の前に真っ白な息が吐き出された。 今日はずいぶん冷え込むと、ぶるりと身を震わせ、早く帰ろうと歩く速度を上げる。 だが、数歩も行かないうちにその歩みが再びゆっくりとしたものへと変化していた。 ―――なんだか今。ありえないものを見たような? 閃の足がぴたりと、止まる。 ポケットから出した手で眼鏡を外すし、ごしごしと目を擦るってみる。 ―――疲れてるのかな。このところ、バイト入れ過ぎてたし。今日は、早く寝よう。 そう思いながら、乾いた笑いを漏らし、眼鏡を掛けなおす。 しかし。彼の前方に見えるものはやっぱり変わらなかった。 「・・・・・・・・・もしかして、まさかとは思うけど、幻覚じゃ、ないのかな、あれ。」 幻覚では、なかった。 閃の行く手に、月明かりに照らされて佇んでいる薄手の白いワンピースを纏った少女。 まあ、そこまでは、いい。 いや、現在の時刻は既に深夜ということを考えると決していいわけではないが、ありえないわけでは、ない。 しかし、彼女はガードレールの上に乗っていた。その下は二月の海、である。 幾ら月明かりがあるとはいえ、深夜の海に飛び込めばどうなるかは自明の理――――。 しかも、何故か彼女は――――まったくどういう訳か、服を脱ぎ始めていた。 閃に気づいていないのだろう彼女は、バサリと着ていたワンピースを脱ぎ捨る。 彼女の立っているガードレールの下には既に脱ぎ捨てられたコートが落ちていたのだが、その上にふわりとワンピースが被さった。 すんなりと伸びた手足。さらりと腰まで流れる髪はつややかな輝きを放つ黒。 白磁を思わせる肌は、白いレースの下着により僅かに隠されているのみとなる。 呆然と事の成り行きを見守る閃。 それも、当然といえば当然である。深夜のバイト帰りにいきなりストリップを始めている少女がいたのだ。 本当に人間かとすら閃は思い始めていた。 だが、閃がそうしてつったっている間にも少女の動きは止まらず。 安定感の悪いガードレールの上に立ちながらも、とうとう純白の下着が少女自らの手により取り払われてしまった。 「!?」 閃が、思わず目を逸らそうとする。しかしその時、少女の体が僅かに傾いだ気が、した。 ―――と、飛び込むつもりか!? ぎょっとして、閃は少女へと向けて足を踏み出す。 そのままの勢いで、ガードレールへと向けて突進していった。 おもむろに服を脱ぎ捨てた後、素っ裸で暗闇に包まれた海へと身を躍らせようとする少女。 その腰にがばりとしがみつく大学生。 「き、きゃあああああああーーーーーーーーっ!」 「うわっ」 二人がもんどりうって路上に転がった瞬間。星が一つ瞬き、消えた―――――。 「い・・・・ててっ・・・・。」 閃が、頭を軽く振りつつ路上から起き上がる。 その下では、うつ伏せになったまま動く気配のない少女の体が横たわっていた。 「君、大丈夫?」 閃の手が、少女の華奢な肩にかけられる。 途端に、少女ががばっと顔を上げた。 すばやく立ち上がると、どうしたことか空を見上げて一点を凝視する。 「あの?」 「あああああああーーーーーーっ!」 閃が声をかけたのと少女が叫んだのはほぼ同時だった。 言葉を無くして少女を見つめている閃を、その少女自身がきっときつく睨みつけてくる。 「ちょっとあんた!どうしてくれるのよ!海に帰り損ねちゃったじゃない!!」 「は?」 ―――海に、帰り損ねた? 意味がわからず、呆然とする閃に追い討ちを駆けるように少女が捲くし立ている。 「もう、もう、人魚に戻れないわっ!」 「は、はあーーーー?」 ―――人魚? 日常会話ではあまり聞かれないであろう単語に、閃の顔が引き攣る。 ひょっとして放っておいたほうが良かったかな、などという非人道的な考えがちらりと閃の頭の片隅を掠めた。 呆然とする閃の目の前には、一糸纏わぬ姿の少女。怒りのためか、白い頬が薄く朱色に染まっている。 黒目がちな大きな眼に、今日の満月が写りこんでいた。 「あんた!ちゃんと、責任、取ってよね!!」 紅色の唇から、少女が衝撃的な言葉を吐く。最早、閃はただ呆然とするしかない。 ―――人助けをした上に、罵倒され、責任をとれといわれ。オレ、なにかわるい事したのかな。日々まじめに生きてるのに。 とにもかくにも―――――こうして閃の受難は、いきなりはじまってしまったのだった。 |
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