読み切り短編
シスター・ブラザー



「暑い、溶ける」

じりじりと肌を焼く陽射しに、益体もない文句が零れる。

帽子の一つもなく、木陰でもないこの場所に座ってるって、実は結構なチャレンジャーなんじゃなかろうか、とそろそろ思い始めていた。

この公園、そろそろお昼に近い今の時間なら人が少ないとおもって選んだけど、失敗だったか。

「人間が溶けるって、ちょっとした恐怖映像だね」

鼻の付け根、丁度眼鏡のパットが当たる部分の汗を拭った臣科(おみしな)が、私のたわごとに真顔で答えた。
ついでのように、でも暑いよねぇ、とのんびり呟き、500mlペットボトルに入ったお茶に口をつける。

こいつも、大概だ。私に付き合って三十分近く、ここに居座っているのだから。
そもそも呼び出された理由を尋ねてくるわけでもなく、帰るでもなく。

……ああ、喉、渇いたな。

ベンチに置かれたペットボトルをつかみ、ぐいっと煽る。
当然といえば当然だけど、生ぬるい。あれ? 私の飲み物お茶だったけ?

「美穂(みほ)さん、それ僕の飲み差し……」
「え?」
「……ううん、なんでもない。新しいの買ってくる?」
「別に、いい。そんなに飲みきれない」

意を決した。このままじゃ埒が明かないし、そろそろ頭がくらくらしてきた。これは不味い兆候だ。

「お――お知らせが、あります」

なぜか敬語になった。いままで臣科に敬語を使ったことなんて――いや、あったな、過去に一回だけ。あれは初対面の時だった。

「はい、何でしょうか」

すっと臣科が居ずまいを正す。いつもの猫背がなくなると、格段に威圧感が増した。
こうしてみると結構な美丈夫だ。まあ、あの二人の弟だからな。

野暮ったい黒縁眼鏡と性格をもう少しどうにかすれば、それなりになるだろうに。
まあ、眼鏡は置いておくとしても性格がね……普段はボヤボヤだし、ぽやぽやだ。

……しかし、じっと見ていられると、言いにくいことこの上ないな。

「とりあえず、反対側、向いて」

私の我がままには慣れっこになっているのだろう臣科が、何も言うことなくくるりと反対側を向いた。
見上げる位置に後頭部がある。襟足に大分掛かっている後ろ髪は、そろそろ散髪の頃合かもしれない。

「これでいい? 美穂さん」
「……うん、いい」

唇を噛みしめ、俯く。ああ嫌な役回りだ。仕方がない、けど。これ以上先送りにすることもできない。
膝の上で、ぎゅっと拳を握る。最初の一言が胃の腑に沈んで、何度か、発しかけた言葉を飲み込んだ。

「結婚、」

漸く、最初の一言を搾り出した。

「することになりました」

続く言葉は、割合すんなりと滑り出てくれた。
全身にドクドクと鼓動が響く。緊張感の中に妙な安堵が綯い交ぜになって、ぎゅっとスカートを握り締める。

臣科は、いまなにを思ってるんだろう――悲しい? 辛い? それとも諦め、だろうか。

目の端でちらりと様子を探ってみる。うつむいた臣科は、片手で顔を覆っているようだった。
え、うそ。まさか、泣いてる? ど、どうしたらいいのかわからないから、やめて。

「な――泣くんじゃない。大学生でしょ、仮にも。それにほら、同い年だけど、わたしより臣科の方が誕生日早いじゃないの」

おろおろと無意味に両腕を動かす。何を言っていいのかさっぱりだ。
そもそも大学に入るまで女子校育ちだった私に、泣いている男を慰めるなんて芸当は不可能なのだ。

「誰と」
「え?」
「誰と結婚するの?」
「え? だから、臣科の――お兄さん、と」
「なんで?」
「なんでって……それは、好きだから、じゃない?」

こちらを向かないままに、臣科はポンポンと尋ねてくる。軽快とも言えるテンポに戸惑う。
まさか衝撃が強すぎて、どこかの螺子が飛んだ?

「あの、臣科、落ち着いて――その、気持ちはわかるけど、どうしようもない事ってあると思うの」
「ああ、そう、どうしようもないことなんだ」

あ、泣いてない。

ようやく振り向いた臣科をみて、ほっとする。
まったく紛らわしい。無用に振り回されてしまったじゃないか。

「美穂さん」

木製のベンチがぎっと軋んだ。
私の背にあたっている背もたれに臣科が手を乗せて、こちらに身を寄せてくる。

臣科が、ひどく近い。眼鏡越しの目が――なんだか据わってるのは気のせいか?

「いつのまに臣丈(おみたけ)兄さんに乗り換えたのか教えてくれる?」
「お、臣丈さん?」

臣丈さんの話なんて、今、してなかったはずだ。

無言の臣科が更に近づいてくる。普段が普段だけに、こうもむすっと黙り込まれると……正直戸惑う。

じりじりと、ベンチの端に追いやられた。
逃げ出そうにもスカートの裾が臣科の手で押さえつけられていて立ち上がることができない。
スカートは失策だった。ジーンズにすればよかった。
両手で引っ張って、どうにかスカートを引き抜いてみたけど、今度は背中と腰の境目あたりを片腕でホールドされ、やっぱり身動きができない――どころか、むしろ状況は悪化している。

近い。すごく近い。
やっぱり螺子が一本、どころでなく二桁単位で吹っ飛んだか、臣科。

私を支えていないほうの手で、ほぼ臣科のトレードマークと化している黒縁眼鏡があっさり外された。
たった一枚、隔てるものがなくなっただけなのに、ずいぶんと印象が変わる。

「キスしていい?」
「――え?」

さらりとした黒髪が私の額に触れた。
臣科が上から私を覗き込み、私は上を向いている。吐息を感じるほどの距離だ。

「美穂さん、いい?」
「え?」

臣科の作る影に覆われ、呆然としていた。

首元から流れる汗が胸元に伝い、なんとも不快だ。
今日は暑い。

そう、朝から暑かったから、前髪をピンで留めておでこ全開な髪型にしてる。
高校のとき、友達にいいデコだね、といわれたことをふと思い出した。

「あの、おでこに、とか?」

もしかして暑さで血迷って私のデコに触ってみたくなったのかもしれない。

「まさか」

即否定された。臣科の親指がそっと私の唇を撫でる。

「美穂さんの、ここが欲しい」

……ここって……ここ?

頭に血が上る。動悸がおかしい。いや、臣科がおかしい。

こんな芸当のできる奴だったとは知らなかった。

臣科の首筋から、つっと汗が鎖骨に流れる。
しっかりした骨格。肩幅。腕の筋肉も、私とは違う。
ぼやぼやした雰囲気が払拭されると、二人の兄に負けず劣らずだなんて反則だ。

いつだって私のどんな我が侭も聞いてくれた。優しくて穏やかで、声を荒げるところも、ましてや怒っているところなんて見たことがない。
だから想像なのだけど、これはすごくすごく怒っているんだろうか。

そうか。いまでもそんなに好き、なのか。

きゅっと唇をかんでうつむく。

「美穂さん?」

人の気も知らないで。

「臣科、こんなことしたって芙美(ふみ)姉さんの結婚は、壊れない」
「……芙美さん? なんで芙美さんの名前がでてくるの」
「だから、芙美姉さんと臣一(おみいち)さんの結婚が決まったって、言ったでしょう」

一瞬、不可解な表情をのぞかせた臣科が、どっと疲れたようにベンチの背凭れに崩れ落ちた。

「え? なに、どしたの? 気分悪い? 水、とか? ええと確か自販機が近くに」

立ち上がりかけたわたしの手首が、がっちりつかまれた。
半端に腰を浮かせたまま振り返ると、いつの間にか眼鏡を掛けた臣科が。
見慣れた薄いレンズ越しの眼が、今度はしっかり呆れていた。

え、なんで?

「美穂さんは決定的に言葉が足りない」
「なにそれ」

気色ばむわたしの頬を、臣科の両手が覆う。

「芙美さんと臣一兄さんの名前なんて、ひとことも出してませんでした」
「……そうだった?」

そういえば、言い損ねてたかもしれない。緊張しすぎて、いうべきことをすっ飛ばしたような……。

「びっくりした、美穂さんが結婚するのかと思った」
「私?」

結婚? 付き合っている人もいないのに?
どこをどうまかり間違って、そんなとんでもない誤解が生じたのやらまったく謎だ。
いや、つまるところ私の言葉が足りなかったのか……。

「手、熱いね」

ぽつりと臣科が呟いた。たしかに体温はかなりあがってる気がする。
でも原因の半分は、多分臣科にある。

「そう? あの、そろそろ離して」
「気づかなくてごめん、場所変えよう」

私の言ったことが聞こえたのかどうなのか、臣科は私を引っ張って歩き出した。




「だいたいね、期待するじゃないか」

灼熱のベンチからやや歩いたところにあるちょっとした木陰の中。
一息ついて小さなタオルで首元をぬぐっていると、臣科が咎めるように喋りだした。

「期待?」

期待してもらうことなんて、あっただろうか? と首をかしげる

「僕に告白してくれるんじゃないかって、思った」

手にしていたタオルが、草の上にぱさっと落ちた。
臣科が身をかがめて落ちたタオルを拾い上げる。硬直したままでいた私の手にはい、と渡された。

「な、なんで」
「臣一兄さんが好きだって言った時と同じだったから、美穂さんの態度」

そ――そんな数年前の話を今更持ち出してくるなんて卑怯な。

「いい加減、気づいてくれたと思ったのに、僕が美穂さんを好きなこと」

タオルが再び落下した。今度も臣科がひょいっと拾い上げて、けれど私の手にではなく、足元に置いた鞄の中へ戻された。

とんでもないことを、あっさり、言われたような。臣科がいま、私のこと好きって。
天地がひっくり返りそうだ。瞬きするのも忘れるくらい自分の足元を凝視してしまった。

さっきに比べればかなり涼しい木陰にいるのに、くらくらする。

「……臣科は、芙美姉さんが好きなんでしょ」

ようやく搾り出した一言に、ずきっと胸が痛んだ。
臣一さんも姉さんも、多分気づいてないと思う。私にしたって、はっきり尋ねたのはいまが初めてだ。けど、何気ない仕草からなんとなく感じでいた。

「どうしてそう思うの?」

どうしてって……。

冷静に聞き返されて、言葉に詰まった。
臣科のことをよくみていたから――なんて、いえるわけがないじゃないか。

「理由なんて、どうだっていい。芙美姉さんが好きなんでしょう」

意外なほど語気が強くなってしまって、驚いた。
はっとして臣科を見上げる。

「……臣科?」

なにか、うれし、そう? え、なぜそんな反応?
図星をさされたんだから、少しくらい動揺してもいいんじゃ?

「ん、芙美さんのことは好きだけどね」
「やっぱり」

心臓が鷲づかみにされたみたいだ。
芙美姉さんのことが好きなのに、私のことも好きだなんて。冗談にしても性質が悪い。
今日の臣科はひどく意地悪で、どうしていいかわからなくなる。

……美穂姉さんが結婚するってわかったから、美穂姉さんの妹である私ともう友好的な関係を築く必要も無くなって、色々、かなぐり捨てた、とか。

ぎゅっと手を握り締める。
それは、とても考えたくない可能性で、ぐすっと鳴りだした鼻を慌てて押さえた。

「私、帰る」

ここにいたら思わぬ失態を晒してしまいそうで、うつむいたまま踵を返す。

「待って、美穂さん。ごめん、違う」
「なにが違うの」

進行方向に回りこまれ、行く手を阻まれた。

「どいて」
「だめ。ちゃんと説明させて?」
「いい、聞きたくない」

がばっと両耳を押さえる。 地鳴りのような音が自分の中に篭る。
駄々っ子みたいな真似をしている自覚は、たっぷりある。でもどうにもできない。

臣科が、ためらいがちに私の両手首をつかんだ。
でも無理に引き剥がすことはされなかった。代わりに、唇がゆっくりと言葉をかたどる。

――美穂さん、お願いだから。

「……ずるいよ、臣科」

そんな風に懇願されたら、拒めるわけがない。
臣科の僅かな力に引かれて、両耳から手が離れる。

「なにを、説明してくれるっていうの」

情けなさとやるせなさで、ついぶっきらぼうな物言いになってしまう。
けど臣科は気にする風もなく、私の手をおろすと確かめるようにひとつ頷いた。

「うん、簡単に言うとね、思慕と恋情の差、かな」
「……? よく、わからない」

両者にあんまり違いがあるようには思えない。
納得できずにいると、臣科がちょっと困ったように首を傾けた。

「そうだな、思慕は憧れだね、恋情は劣情と言い換えてもいいかもしれない。美穂さんに対してはね、抱きしめてキスしたいって思う。もちろんそれ以上もしたい」
「それ以上……?」
「うん、それ以上」

にっこりと微笑まれて、わたしにどうしろっていうのか。

「つまり芙美姉さんは憧れの人で、私は即物的対象ってこと……?」

眉間に皺が寄る。
それって、やっぱり微妙に納得できない。

「じゃあ訊くけど、美穂さんは臣一兄さんとキスしたりエッチしたりって想像した?」

ちょっと首をかしげながら、臣科はさらりと言った。
あまりにさらりとしていて、言われた意味がしばらく理解できなかったほどだ。

「……え? ……え、ええええっ」

ぶんぶんぶんと頭を左右に振る。
お、臣一さんと? まさかそんなこと想像するわけがないし、想像できない。

「うん、多分そういうことかな」

う? うう? なんとなく、わかったようなそうでないような。
うまく言いくるめられている気が、しないでもないような。

「それじゃあね、もうひとつ質問。僕とは?」

……僕とは? それは臣科と……キスってこと?

『美穂さんの、ここが欲しい』

ただでさえ熱を持っていた頬が、さらに熱さを増した。
私ってば、なに考えて……っ、臣科の唇が……ああ駄目だ消えろ幻。

……あ、あれ? これって、想像できてるってことなのか?

「美穂さん、答えて」

臣科の手のひらが、わたしの手の甲を覆う。そのまま持ち上げられ、臣科の頬に添わされた。
唇の端が、手のふちに触れてる。親指の先に口付けられる。触れられた肌が、熱い。

「臣科、こわい」
「うん、ごめん。美穂さん、基本は男が怖いんだよね、知ってる」
「急に変わられても、困る」
「うん、気をつける。美穂さんがちゃんと答えてくれたもう焦らない」

穏やかな口調はいつもの臣科だけど、行動には若干、強引なところが残ってる。

……でも、よくよく考えると今までもそうだったような。
私の我が侭を聞いてくれるけど、最終的には臣科の望んだ展開になっていた気がする。

「美穂さんは、まだ臣一兄さんのことが好き?」
「好きというか、家族になる人だし……嫌いなわけがない」
「そういう意味で聞いてるんじゃないよ、わかってるだろうけど」

黙り込むわたしを、臣科が覗き込む。

「あのね、芙美さんが臣一兄さんと付き合うことになったとき、それなりに衝撃的だったよ? 芙美さん、僕の家庭教師だったし。でも、美穂さんの結婚する発言ほどじゃ、ぜんぜんなかった」

最後の一押し。私の陣地に臣科が踏み込んでくる。

「私にどうしろっていうの」
「美穂さんのひとことが、どうしても欲しい」

臣科は、私の気持ちに気づいてる。いつからかわからないけど。
なのに、私の口から言わせようっていうのか。

「悪辣」
「うん、ごめんね。でもそれは僕の欲しい言葉じゃない」
「極悪」
「それも違うかな」
「……なんで笑ってるの」
「だって、威嚇する美穂さんが可愛くて」
「……腹立つ」

こんなときだけ甘やかしてくれないなんて。

「……臣科、かがんで。届かない、から」

視線をさまよわせながらの要望は、すぐに聞き届けられた。
臣科がいつもよりはるかに近い。あ、耳の縁にも髪の毛がかかっている。
はじめてあった時はもう少し短かったな。

「美穂さん?」

不思議そうに見つめてくる瞳。ああ、敵わないなあ。

耳元で、臣科にだけ聞こえるように小さく――降伏宣言を囁いた。
もうしょうがない。だって、好きだから。

「美穂さん、大好き」
「……や、ちょ……っ」

思いっきり抱きついてきた臣科を両手で押し返す。

「調子に乗らない」
「うん、乗らない。キスしていい?」

しっかり調子にのってるでしょう。

「焦らないってさっき」
「焦らないよ。でもずっと我慢してた僕にご褒美は?」

にこにこ笑顔でにじり寄られてきても、とても困る。

「じゃあ、目……、目をっ、閉じて」
「はい」

苦し紛れの一言に、臣科はなんの迷いもなく眼を閉じた。
私がこのまま帰っちゃうとか思わんのか。思わないんだろうな。
だって、逃げ出せないよ。こんなに素直にされちゃったら。

きょろきょろと周りを見回す。よし、大丈夫、誰もいない。

しばらく迷ってから、そっと臣科の頬に触れた。
あ、意外にひんやりしている。眼鏡、取ったほうがいいのかな。

フレームを持って、そろそろと臣科の眼鏡を外す。

眼鏡の無い顔をこんなに近くで見るのは始めてかもしれない。

意を決して、唇を寄せる。
ちゅっと小さな音がして、耳まで熱くなった。恥ずかしさに目が回りそうだ。

「美穂さん……」

目を開けた臣科が、とてつもなく不満そうに、うめいた。

「な、なに」
「……二十歳の男にほっぺちゅーは……」
「ものすごくがんばったの。これ以上は無理。無理無理無理」

これ以上を望まれても、いきなりはハードルが高すぎる。急に人が変われるわけもなく、いまはこれが私の限界ギリギリだ。

ぶんぶんと両手を振る私を見て、臣科が苦笑する。

「じゃあ、ちょっとづつね」

仕方ないなといいたそうなところが引っかかったけど、とりあえずぶんぶん上下に頷いておいた。

「はい、これ返す」

手にしていた眼鏡を臣科に突き返す。

ああよかった、これ以上を要求されないで。
いやなわけじゃないんだけど、なにしろ初めてづくし。私にだって色々準備が必要なのだ。主に心理面で。

くるっと臣科に背を向けてほっと胸をなでおろす。
それじゃあそろそろ帰ろう、と声をかけようとしたところで、背後から臣科の楽しげな呟きが聞こえた。

「さし当っては僕の誕生日だよね。美穂さん、来月は覚悟を決めてね?」

なんの? とは怖くて聞けなかった。



〜Fin〜



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