04.恋占い |
心地よい風の吹き抜ける回廊に、ビズがぼんやりと佇んでいた。 その姿を目に留め、回廊を渡ろうとしていたセツが足を止める。 降り注ぐ陽光にビズの白い肌は透き通るように見えた。 結い上げた豊かな黒髪も艶やかに煌き、僅かに伏せられた瞼から覗く空を写しとったかのようなブルーアイが切なげに揺れている。 ここしばらく、よく見かけるようになった哀しげなビズの様子。 理由はわかりきっていた。 ――なんとも厄介な相手に心を奪われてしまったものだわ。 ビズを見つめ、セツが小さく溜息を落とした。 ビズがその胸に秘めているシスとの出会いを知っているのは、セツだけだ。 シスに出合った日の翌日、ビズの様子がおかしいと気づいたセツは言い淀むビズから強引に聞き出したのだ。 シスにここで昨晩出合った、そうビズから聞いた時、セツは随分驚いた。 まさがシスがこの屋敷に侵入していたとはまったく思わず。 しかも、大切に見守り続けていた少女が心奪われていると知った時の衝撃といったら。 相手は、巷を騒がせる怪盗。 貴族の屋敷しか狙わない為市井では義賊との誉れ高いが、やはり犯罪者である。 ビズがシスに出合ったその日。シスは違う屋敷に浸入していたらしいとセツは噂に聞いていた。 おそらく警吏に追われてこの屋敷に逃げ込んだのだろうが、まったく厄介なことを引き起こしてくれたものだと苦虫を噛み潰したような顔でセツが再び溜息を落とす。 しかも、その出会いが齎した効果は負のものばかりではなかった――ということがさらにセツの表情を苦々しげなものとしていた。 ビズはシスに出会ったことにより確かに変わろうとしていた。しかも、良い方向へ。 あれ程興味が無さそうにしていた舞踏会に自ら進んで出席すると言い出したときは、セツを含め屋敷の者皆が驚いたものである。 シスに出会って。今まで屋敷の中だけで過ごしていたビズが、外に興味を持つようになった。 それはどうやら動かしがたい事実。 だが、ビズを変えたその出会いが、今ビズを苦しめている。 ――お嬢様は、クラ様に惹かれていらっしゃる。 セツは、そう思っていた。 そしておそらくそれは的を射ている、とも。 同時に二人の男性に惹かれる、それはまっすぐな気性を持つビズにとってあってはならない気持。だからこそ、クラに惹かれている自分を必死に否定している。 セツとしては、ビズには幸せになって欲しい。だから、できることならクラを受け入れて欲しかった。 でも、おそらく今の状態で、ビズがクラをそう容易に受け入れるとはとても思えない。 ――本当に、クラ様がシスよりも早くお嬢様にお会いになっていれば! セツは行き場の無い怒りの矛先を、クラにぶつける。 今更思っても詮無いことだとはよく分かっていたが、どうにもそう思わずにはいられなかった・・・。 *** 「ビズ・・・貴方もしかしてどなたか想っている方がいるのではなくて?」 陽気の良い午後ののんびりとした時間。日当たりの良い窓辺にいたビズにかけられたのは、実に意外な言葉だった。 少し高めな、でも決して耳障りではない穏やかな声にビズが顔を上げる。 顔を上げたビズのブルーアイに、心配そうに見つめているよく見知った女性の姿が映された。 優しげな表情をした妙齢の女性。ビズと同じような黒髪、ややくすんだブルーアイ。 すんなりした体躯を包むのは、アイボリー色のシンプルなドレス。 ビズの母、マリだった。 「お母ッ・・・痛ッ」 手に刺しかけの刺繍を持ったまま物思いに耽っていたビズが母親の言葉に驚いて、自分の左手、人差し指を針でさしてしまう。 「あらあら、大変。貴方ったら案外そそっかしいのよね。」 ほら手を貸して、とマリがビズの手を取った。 「間違っていたらごめんなさいね。でも、無理はしなくていいのよ。クラ様とのこと。」 ビズの指に滲む血を、マリが取り出したハンカチで手早く拭う。 ビズは何のことを言われたのか一瞬わからなかった。 だが、マリのかけてきた言葉が理解できた途端、内心激しく動揺する。 ――どなたか想っている方がいるのではなくて? ――無理はしなくていいのよ。 「・・・お母様・・・。」 「これでも、母親ですもの。娘のことくらいはわからないとね。」 困り果てて俯くビズに、マリが悪戯めいた笑顔を浮かべる。 母親に打ち明けるべきが否か、今ビズは迷っていた。 あるいは母なら今のこの自分の気持が何であるか答えをくれるだろうか、とも思う。 だが、すべて話すのは矢張り躊躇われた。 「・・・わからない、のです。自分の気持が。クラ様のことが嫌なわけでは、なくて・・・。」 戸惑いつつ、ビズがゆっくりと口を開く。 「・・・私は・・・もう誰を想っているのかも・・・わからないんです・・・。」 ぱたりと、ビズの膝の上に雫が落ちた。 それが涙だと、自分が泣いているのだと気づき、ビズは困惑気味にじわりとスカートに広がる涙の跡を眺める。 自分が酷くふしだらな人間に思えた。 シスに惹かれたはずだった。なのに、クラに出会い、クラといることで・・・高鳴る胸。 こんなにも簡単に変わってしまう気持の持ち主だったのかと、酷く自分が情けなくて・・・辛かった。 「ビズ・・・。」 マリが、そっとビズの手を両手で包み込む。 それは、とても暖かくて。 ビズは、はらはらと落ちる涙を拭うことも無く、小さく声を漏らして――泣いていた。 *** 「あの、お母様・・・ごめんなさい。いきなり泣いたりするなんて・・・小さな子供のようね。」 まだ僅かに涙を滲ませながら、でも漸く落ちついてきたビズが、頬を片手で拭った。 マリに向けて、微笑む。 本当に。まるで小さな子供のように泣いて。 何年ぶりのことだろうかと、ビズはとても気恥ずかしい気分だった。 マリが、ふふと笑う。 「少しはすっきりしたかしら?」 「・・・はい。」 ビズが俯きながら小さく頷く。 まだ、自分の気持ははっきりとはしなかったが、泣いてみたことで大分楽になっていた。 マリがそのビズの様子を見て、にこりと笑う。 「そう。じゃあ、母様がビズにとっておきの良いことを教えてあげる。」 マリがすっと人差し指をあげて、ビズの目の前に翳した。 ビズがその指を見つめ、首を傾げる。 いつも突飛なことを言い出すこの母が何を言い出すのか、ビズはさっぱり予測がつかなかった。 「良いこと?」 ビズが尋ねる。するとマリは、一呼吸置いて――・・・ 「『――貴方の想い人は、既にやってきている。』」 厳かに、告げた。 「・・・?・・・お母様、それは?」 困惑も顕にマリを見つめ、ビズは告げられたことの意味を考える。 ――おもい、人・・・?しかも、既に・・・やってきている? 「貴方を占ってみたの。」 マリがちょっと得意げに、ビズに対して軽く片目をつぶって見せた。 「占い?」 そうぽつりと言葉を落とし、ビズはそういえばマリがこのところ占いに凝っていたことをようやく思い出していた。 つい先日も、怪しげなカード占いに付き合わされたばかりだったのだ。 「ええ、恋占いよ。ビズ、貴方の想い人はもう既に現れているの。」 「想い、人・・・・・・。」 ――想い人。・・・シスと・・・クラ? 「そう。もっともそれを誰かと決めるのは、貴方だけれど。・・・ビズ、貴方の・・・望むものは?」 マリが穏やかに優しくビズを見守りながら、尋ねる。 「・・・私の・・・望む、もの・・・」 ビズが、小さくマリの言葉を繰り返した。 ――望む、者。 ビズの脳裏に浮かぶのは、舞踏会の七日前のこと。 それは、ビズの心を奪った出会い。 その日、なかなか寝付かれなかったビズが漸く浅い眠りに落ちた後。 ふと、頬に感じた心地よい風。 ビズは、目を覚まし。 そして、煌煌と照る月明かりを眼にした。 ビズが眠る前は、厚い雲に覆われていたはずの満月。 月光。開かれている、窓。 そして、それを背にして――ゆらりとうごめくシルエット。 ばっと寝台から上半身を起こし、ビズは息を呑んだ。 不審者だと叫ぼうとしたのか、あるいは誰何の声を掛けようと思ったのか。 今となってはもう思い出せない。 ただ、月明かりの中。 シルエットだったはずの姿が、僅かにその細部を見せた時、ビズははっと、した。 逆光で顔はよくわからなかったが、右手から何か黒い液体が滴っているのがわかったのだ。 はじめビズにはそれがなんだかわからなかった。 だが、窓辺から流れてくる風に乗って、微かな鉄の匂い。 血だと、気付いた。 侵入者は、男。 漆黒の外套に包んでだしなやかな身体。シルクハットから僅かに覗く黒髪。 正直とても怖かった。 だが、ビズはするりと寝台を抜け出すと、その侵入者に向けて歩み寄ってしまったのだ。 何故だか、放って置けなかった。そのまま、叫んで人を呼ぶこともできたと思う。 ビズは、そうしない自分に何故と問いかけ、しかし答えは出なかった。 「・・・怪我を?」 ビズが、侵入者の手を取る。 そこは、矢張り真紅に染まっていた。かなり深い切り傷。 引こうとする手を強引に押し留め。ビズは手じかにあった薄布を引き裂くと、傷口にあて、きつく縛り上げた。 「早く、お医者様に。」 ビズが縛り上げた傷口から顔を上げる。 ビズの視線を受け止めたのは、酷く冷たい・・・白磁の仮面だった。 シルクハットの下に覗いているそれは、顔全体を覆っていた。 ただ瞳の部分だけが空洞となってる。 そこから覗く双眸。暗くて、あまりよく判別はできなかったが、ビズは確かにその男に見つめられているのを感じていた。 布の巻かれた男の手がビズの手を離れ、そっとビズの頬に触れてきた。 血の匂いが色濃くする、すこし冷たくて骨ばった手。 ビズは、僅かな身じろぎもできず、固まったようにその場に立ち尽くす。 男の手が、ビズの唇をゆるゆると撫ぜる。 月光の下、まるで時が止まっているようだった。 そう。窓の外から呆れたようにかけられた、新たな見知らぬ男の声がするまでは。 「・・・おい、シスッ、いい加減にしろ。」 ビズがはっと身を強張らせた。 時が、動き出す。 シスと呼ばれたその男は、すっと身を翻し。 「礼を言う。」 仮面越しに、くぐもった声。 たった一言、言い残すと、男は窓の外に消えていった。 強く、惹かれた。たったこれだけの出会いで。 ――でも。 クラの笑顔に、背筋が震える。鼓動が早まり、胸が締め付けられる。 クラといると、落ち着かなくなる。 クラに対して気を許している。 ――自分にすらわからない不可解な二つの心。 その間で酷く困惑しながらビズは揺らめいている。 ビズがすっと顔を上げる。真っ直ぐにマリを見つめる。 優しく見つめてくれているマリと視線を会わせ、ビズは自分の両手をきつく握り合わせた。 実はビズには、もう一つ。自分の気持とは別に気がかりなことがあった。 「でも・・・でも、お母様。お父様は、クラ様が私を望むようにと・・・」 そう。父・ライのことである。 あれだけ一生懸命にクラをもてなしている父の姿を見るにつけて、ビズは父に申し訳なく思ってしまう。 クラがビズを望むかは、もちろんまだわからない。 が、それとは関係なく。 自分の気持がふらふらとしたままだというのに、ライが嬉しそうであればあるだけビズは父に申し訳ないという気持を強く持ってしまうのだ。 しかし。真剣に見つめるビズの前で、マリが不思議そうに首をかしげた。 「まあ。何故?」 心底不思議そうに尋ねられた。 「・・・お父様が、クラ様にお会いする為にと、ドレスを贈ってくださって・・・」 まさか、そういう反応が返ってくるとは思っておらず、ビズは数回瞬きしながら躊躇いがちに口を開いた。 これにはマリが僅かに目を見張り。ついでふっと微笑んだ。 またも不可解な反応を示すマリに、今度はビズが僅かに首を傾げる。 そんなビズの様子を見てマリが再びそっとビズの手を取った。 その口元は笑い出したいのを堪えているように綻んでいる。 「誤解だわ、ビズ。お父様が貴方にドレスを贈るのはね――・・・」 マリが秘密を打ち明けるようにビズに告げようとし、ビズが固唾を呑んで次の言葉を待つ。 ばんッ!! 「ビズ、こんなところにいたのか。さあさあ、新しいドレスが届いたよ!」 突然、だった。はっとした母子の視線が、重厚な木製の両開きの扉に移動する。 そこには、勢いよく足を進めながらにこやかな笑みを浮かべるライの姿。 驚くビズとマリを尻目に、両手でもった華やかなドレスを嬉しそうにビズに差し出してくる。 ビズは諦めを含んだ目をマリに送ると、寂しげに微笑んだ。 マリが何か言いたげに口を開きかけ、だが、ライに視線を移してそっと溜息を落とした。 ――結局ビズは何故父がドレスを贈ってくるのかを、マリから教えられることは無く。 意外な事に、それを教えてくれたのはこの日ビズの元を訪れたクラだった。 |
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