07.好き(1)


「――まるで・・・夢を見ているようです・・・。」

カロの去った窓辺をじっと見つめながら。ビズが、気の抜けたような声でぽつりと囁く。


クラは、呆然と窓の向こうに視線を向けるビズのその様子を、気づかれないように横目でそっと窺っていた。

いまだ事態をよく理解できていないのだろう。ビズのブルーアイが数回瞬く。そして、そのたびに現れる、青。

――見事だな。

クラが薄い唇に笑みを刷いた。


窓から差し込むのは、薄く色づく月明かり。


クラがビズと出合った晩も、まるで銀板のような白色の月が漆黒の闇の中に浮かんでいた。

本来ならあの日出会うはずも無かった下級貴族の息女。

噂に違わぬ、その容姿。

――噂はなかなかに的を射ていたというわけか。

意思の宿るビズの瞳を見つめ、クラは心の中で僅かに苦い笑いを漏らす。

実は、月夜の晩に出会うその前に、クラはビズの名前だけは耳にしていたのだ。

幾らビズが社交場に現れることはなかったとはいえ、まったく人に会わずに生活することは難しい。
まして、ビズの暮らす屋敷は見事な庭園を誇っている。

偶々そこを訪れた貴族の子息たち。
ビズの姿を垣間見た彼らが、度々その話題を口に上らせるようになったのは当然の結果だった。

大層美しい娘。まっすぐな気性。聡明。

漏れきこえてくるのはどれも随分とありきたりな言葉たち。この噂にクラはまったくといってよい程興味が無かった。
もちろんそれは噂の主となっている少女に対しても同様であり、特に会いたいとも思っていなかったのだ。

美しい娘は、見飽きるほど見た。まっすぐな気性を持った娘も聡明な娘も、確かにいる。
これら全てを兼ね備えた娘は確かに珍しいかもしれない・・・が、所詮噂。

またいつものように、親の権力を振りかざすしか能のない暇を持て余した子息連中が大げさに触れ回っているだけだろうと、クラは半ば以上この噂を本気にはしていなかった。


しかし、その考えは間違いだったと気づいたのは舞踏会の七日前。

クラと行動を共にしていたカロの、珍しい不手際。

だが、忍び込んだ屋敷の家人に気づかれて警吏に追われることになったのは。
今にして思えばクラにとっての、幸運。


『ここがどうやら例の娘の屋敷らしいぞ?』

偶然入り込んだ屋敷の叢の中で。そうクラに耳打ちしてきたのは、カロ。
自分と同じ年の友人であり、主人でもある男。

逃げる時に追った手の傷に辟易しながら、クラはどうでもいいと、いった。
しかし、そういわずにぜひ一目その顔を拝見しようじゃないか、とカロが返し。

そして、無理やりクラを引っ張って屋敷へと向わせたのだ。

よし、きっとあの部屋に違いない、そうカロがいい。クラは仕方なしにその窓から身を滑り込ませ――・・・。

そして、眼にしたのは。

月光の差し込む部屋の中。真っ白なシーツの上に見事な黒髪を散らせ、まっすぐに見つめてきた深い青。


身動きすらできない程。クラは、穢れを知らぬ真っ直ぐなその瞳に魅せられた。

今すぐにこの場を去るべきだと理性は告げた。
でなければ叫ばれ、家人を呼ばれるだろう、とも。

しかし、去りがたくいつまでもこの場に留まっていたいと、理性をねじ伏せる本能。

何をしているんだとの自問自答は堂々巡りを繰り返し。


だが、一瞬の後。クラは軽く息を吐き、そして漸く決断を下したのだ。


今は、去るべきであると。


クラは踵を返そうと足を動かした。

しかし、その時だった。僅かな身じろぎすらせずクラに視線を注いでいた少女の双眸が見開かれたのだ。

彩度が増した気がした。月の光が溶け込んだブルーアイ。


決断は、容易に崩れ去った。


滑るように寝台から抜け出てきた少女。
薄い夜着のまま、まっすぐにクラに近づいてくるその細い体を抱き取ってしまいたい、衝動。

「・・・怪我を?」

クラの前でぴたりと足を止めた少女の涼やかな声。

それと共に、持ち上げられたクラの腕。
血に濡れた手に感じるのは、暖かく滑らかな皮膚。

見下ろす形で視線を落とせば、クラに触れてきたその細い指が真紅の血に染まっていた。

クラは一度瞼を下ろし、再びビズを見つめる。
艶やかな黒髪。開いた夜着の胸元からのぞく白い膨らみ。

触れてみたい、この腕の中で滅茶苦茶にしてしまいたい。クラが自覚したのは、何をしてしまうかわからない己の劣情。
少女から離れようと、捕らわれた腕を引く。

しかしクラのその行為は、思わぬ強さで押し留められた。

少女の指がクラの傷口を確かめるようにそっと動き、躊躇うようにクラから離れる。そして、布の裂ける音。
再びクラの手を取った少女は素早く傷口にそれを巻きつけてしまった。

的確なきつさで巻かれた布にじわりと出来る血の染み。


「早く、お医者様に。」


気丈な意思を含んだブルーアイを覗かせ、顔を上げた少女の表情が一瞬困惑気味に揺らめいた。

仮面のせいだったのだろう、とは今にしてクラが思い至ったこと。
だが、この時は揺れた少女の表情を疑問にすら思わず、ただ只管に・・・触れたかった。

そして、クラは己がシスの姿だということすら忘れ去り、少女に自ら手を伸ばした。


滑らかな頬に触れる。柔らかに色づくその唇に指をのせ、形をなぞり。

無垢なる少女に己の唇で刻印を施そうとクラが身をかがめようとし――・・・


「・・・おい、シスッ、いい加減にしろ。」


邪魔が、入った。


魅入られていたようにクラを見つめていた少女が身を強張らせる。

クラは潮時だと悟った。


身を翻し、言葉少なに少女に告げた。「礼を言う。」と。

そして、来た時と同じように窓の外へと身を躍らせた。


幸いにして警吏隊は別の場所に移動していたようで、その後の逃走は実に容易く。

月光の照らし出す夜の街をクラとカロは縫うように駆けた。


『ずいぶんと気に入ったみたいじゃないか?』

横に並んだカロがにやにやと人の悪い笑みを浮かべながらクラをからかい。
だが、ビズの巻いた布にちらりと目を遣りながら、クラは否定も肯定もしなかった。


カロの軽口すら上の空だったクラの心を占めていたのは、たった一人の少女。

あの少女が欲しいと――、ビズの全てを自分のこの腕の中に欲しいと、思った。



***




「何か私に仰りたいことがございますか、クラ様。」

真っ直ぐに、クラに向けられたブルーアイ。

現在の状況を理解し終えたのだろうビズの、幾分厳しさを増したその瞳をクラは視線を外すことなく見つめ返す。

シスであることがビズにばれれば、こうなることはわかりきっていた。

「貴方こそ、私に聞きたいことがあるのではないですか?」

クラが質問し返すと、ビズは微かに目を細めじっと考え込んでしまう。
ビズの返答を待ちながらクラが口元に笑みを刷いた。


しかし、それでもクラの胸を突くのは苦い感情以外の何物でもない。

そもそもクラは、最初ビズに対して自分がシスであることを隠すつもりなどなかったのだ。
この少女になら告げてもいいと、思っていた。
現にクラはビズが出席すると聞いた舞踏会に向う時、敢えて手袋を嵌めることなく出席している。

表面的には傷があるとわからないように隠してはいたが、触れればすぐにわかったはず。

シスであると告げ、ビズと秘密を共有すること、それがクラの目的だった。
クラはビズと共通の秘密を持つことで、ビズの心に近づこうとしていたのだ。

共通する秘め事は人の心を親密にさせることのできる甘い、蜜。

この時点でクラはビズが共有した秘密を誰かにしゃべるような娘ではないと確信していた。
ましてやクラがシスとなっているのには、カロの密偵という最大の理由がある。

それに、ビズが舞踏会に出るようだと嬉々として情報を持ってきたのは、ほかならぬカロ。

『私はこの日公務があって出席できないんだけどね。ビズ嬢と楽しんでくるといい。』

にこりと、明らかに面白がっているカロの笑顔。
このカロの態度には、ビズにシスの秘密を打ち明けるかどうかはクラの判断に任せるとの意味合いを含んでいた。

こうして舞踏会の時にビズに対しての秘密は秘密でなくなるはずだったのだ。

そう。先程カロはビズに対して『うっかり自分がシスだと言うわけにはいかなかったんだ』と言い残していったが、これはカロの小さな嘘。

密偵としての仕事をしていたから、クラは自分がシスだとビズに告げられなかったのではない。
カロから特に告げるなといわれたわけでもない。寧ろカロはビズに云ってしまえと言外にあらわしていたくらいだ。

クラの中にあった葛藤と矛盾。おそらくそれらを全て知った上で、カロがクラを弁護した言葉。
直接心の内を云ったわけではないが、カロとは長い付き合いだ。語らずとも自ずとわかってしまう部分もあるのだろう。

付き合いが長いもの考えものだと、クラは本気ではなく考える。

ビズに対して、自分がシスだと気づかせるために赴いた舞踏会。
だが、ビズに対してシスの秘密を共有するというクラの考えが揺らいだのも、またその舞踏会でのことだった。



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