08.息もできない



「妻・・・。」

どこか呆然としながらビズはその言葉を口にしていた。
頭の芯が痺れたような、足元が覚束ない感覚に戸惑いを隠せない。

窓から流れ込んでくる風が僅かにビズの夜着を揺らしていく。

冷やりとした感触を伴う夜風を受け、ビズは軽く身震いしながら深く息を吸い込む。
長年慣れ親しんできた緑の香りを感じた。

ブルーアイが見つめる先には、ビズを見下ろしながら首を傾けやや目を眇めたクラがいる。


「もう、否とは言わせませんよ?貴方を私の正式な妻に迎えさせていただきます。」

―――正式な、妻。

クラを見つめていた自らの双眸にゆっくりと瞼を落としながら、ビズはクラの言葉が意味する現実を冷静に受け止めようとしていた。

下級貴族の娘であるビズと伯爵家の跡取り息子であるクラの婚姻。
それは不可能なことではないだろうが、クラにとってのメリットが少なすぎる。
いや、寧ろまったく無いと言っても過言ではない。

クラに望まれることはあるだろうと思ってはいた。が、ビズは最初にクラが自分を妻にしたいといってきた時には、実は正式な妻としてではなく内縁、愛妾としての意味合いであろうとその言葉を捉えていたのだ。

クラが通ってくるようになった最初の頃、何故自分なのかと不可思議に思っていた。
皇族からも妻を迎えることのできるクラの地位。

しかし、正式な妻として迎え入れるわけでなければ問題が無いのだろうとビズはいつしか悟っていた。

もちろんその人物の人柄にもよるが、大貴族であればあるだけその身辺にいる愛妾の数も増すというのがビズが身をおく世界の常である。
愛妾であったとしてもある程度の立場は保障されていることもあり、自ら進んでその立場に身を投じる女性すら珍しくは無い。

正直、ビズは伯爵家へと正式に嫁ぐことは考えていなかった。


「私とクラ様では身分が違います。安易にクラ様の妻になることを承諾するわけにはまいりません。」


ビズの閉じていた瞳が明確な意思を持って開かれる。ぐっと腕に力を込めるとビズはクラの胸を押し返した。

唇を軽く噛みしめビズが俯く。

クラは簡単にビズを妻にと言うが、それにはかなりの尽力が必要だろうことはビズにもわかっていた。
愛妾という立場であれば、家同士の内々の話し合いで決着がつく。
だが、正式に婚姻を結ぶとなれば一族郎党、親族たち全ての承認を得て、その上で王家の許可を取り付けなければならない。

おそらくビズの方は問題ないだろうが、伯爵家の親族たちがビズをクラの相手として認めるとは到底思えない。


「貴方は・・・。そんなことを気にしていたんですか?」

微かな苦笑と呆れを含んだ声と共に、クラの胸を押し返していたビズの両腕をクラが掴んだ。
ビズの手首を包んでもまだ余るクラの手を見つめながら、ビズが眉根を寄せる。

これから自分がクラに告げようとしている言葉を思うと、胸が痛んだ。

伯爵家に嫁ぐことはできない。だがクラの愛を受けたい。クラと共に在りたい。
だからこそ、今ビズは自分が取れる選択肢を一つしか思いつくことが出来なかった。

例え他の妻を娶ることになるとしても愛妾として傍に置いてくださいとクラに請う。

それが、ビズの答えだった。

ふと脳裏にセツの顔が浮かぶ。
自分のことをとても大切に思ってくれている5歳年上の侍女は、きっとビズの選んだ答えに酷く反対するのだろうなと思うと心の中で小さな笑みが零れた。

ビズは僅かに震える唇をクラに悟られないように俯いたまま口を開く。

「大切なことです。正式な妻として迎え入れていただくことはできません。・・・ですから、私をクラ様、の、」

愛妾にしてくださいと、告げるよりも早く。

指に触れた柔らかな感触にビズがはっとする。

視線を向ければ、クラの唇がビズの細い指へと落とされていた。

「貴方以外の女性を妻として迎え入れるつもりはありません。第一、私を選んだ貴方を私が逃がすとお思いですか?」

ビズの手に唇を触れさせたまま、クラはビズへと目を向けている。
泣きたい様なじんとした頭の感覚と、締め付けられるような胸の圧迫感にビズはクラから顔を背けた。

「逃げたくて云っているわけではありません。」

冷静になろうとすればする程クラに全てを見透かされているようで、ビズは震える声を止めることが出来なかった。

「私が今聞いているのは、貴方が私の妻になるつもりがあるかということですよ。」

ビズの中の一片の欺瞞も許さないというように、クラの言葉がビズを射抜く。

「私、は・・・。」

もちろんなれるものならばと、ビズは言ってしまいたい衝動に駆られる。
でもそれは出来なかった。自分の心を押し留め、ビズは無言で首を左右に振る。

「ビズ。」

頑ななその態度にクラが軽く溜息を落としたらしいのを、ビズは切なく揺れる瞳で見つめていた。



***





クラにはビズの迷いが手に取るようにわかっていた。
正式な妻として迎えるよりも愛妾として扱って欲しいとビズが考えていることが。

確かにビズを伯爵家を迎え入れる為には相応の労力が必要である。
だが、そんなことは今のクラにはたいした事ではなかった。重要なのは、公式にビズが自分のものであることを宣言するということなのだ。

その為であれば、多少の裏工作―――親族たちの弱みをちらつかせて承諾を得ることなど造作も無い。

だが、そのことをビズ対して告げるつもりは無かった。
まだ自分の負の面を晒してしまうことには若干の抵抗がある。

それにこの無垢な少女が自分の為に愛妾という立場で構わないと言う姿に心が昂ぶっていることも確かだった。

人の心とは何と身勝手なことか。
今更ながらにクラは自分の身勝手さを感じずにはいられなかった。

クラはビズの心を知るためにビズを欺き、しかしビズはそれでもクラを受け入れてくれた。
だというのに、今またクラはビズを試しているのだ。

「私を欲しいとは思いませんか?それとも私が他の女性に触れても、貴方にしたように抱きしめて・・・口付けても貴方はまったく構わないということですか?」

「そんなっ!」

ビズの眉根が寄り、辛そうに顔が顰められた。
冷たささえ感じさせる表情でクラはビズを見下ろす。

「貴方が私の妻にならない限り避けられない事態です。」
「それ、は・・・ですから仕方の無いことだと・・・」

冷静に言葉を紡いだクラに対して、ビズの返答は酷くたどたどしかった。

クラの指がビズの顎にかかり、仰向かせる。月の光がビズの表情を照らし。

「貴方は嘘つきですね、ビズ。」

苦笑しながらクラが見つめる先には、予想通り今にも零れ落ちそうな程涙を溜めたビズの真っ青な瞳があった。

「・・・・・・・。」

無言のまま固く唇を結び合わせてクラを見据えてくるビズの目尻を、クラの指が拭う。

「すみません。意地悪な遣り方でしたね。泣かないで。私なら本当に大丈夫なんですよ。ですからどうか貴方の本心を聞かせてください。私のことを思ってくださっているなら。」

「卑怯です。その言い方は。」

拗ねた様に責めてくるビズが愛しくて、クラは声を立てて笑い出していた。

「私の妻に、なっていただけますね。」

最早問いかけですら無くなったクラの言葉に、ほうっとビズが諦めたような溜息をつく。

「クラ様が、本当にそれで構わないというのであれば。」

ビズの承諾にクラは笑みを浮かべながら、細い体を抱き寄せビズの甘い香りがする艶やかな髪へと顔を埋めた。

気持が浮き立つ。
ビズの心を手に入れられたことで感じられたのは、今までに無い程甘く切ない心だった。

「クラ様っ、くるし・・・っ」

腕の中でビズが身じろぎクラがはっとする。
ビズが息もできないほど・・・クラはきつくビズを抱きしめていたらしい。

「ああ。申し訳ありません。」

ビズを包み込んでいた腕の力をクラはやや緩めた。

けほっと軽く咽るビズの背を片手で摩りながら、クラはもう片手でビズの髪をやさしく梳く。
ビズのやや強張っていた体がゆっくりと解れていくの感じる。

窓から忍び込んでくる冷気を含んだ夜風の冷たさは既に感じなかった。
ビズの鼓動が規則正しくクラへと響いてくる。

暖かな体温とビズの香りに酔いしれながら、クラは目を閉じていた。



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