Water-Ring

07.　触れ合いたいのは一人だけ（2）

……いつの間にこんなものまでつけられていたんだろう…？
知らない間に服を着替え、化粧までされていたのに全然覚えて無いって、私……。

ちょっとさすがに自分の寝起きの悪さに、冷や汗が流れた。

でもどうやらそのお陰か、ほんの少しだけ頭が冷える。

うん。後、奥丹先輩の行動で気になるのは、いきなりブロッサムの役員になったのは何でなんだろうってこと。

三学年に進級して、普通なら受験の事で手一杯になる、はず。
それをわざわざ役員になった意味ってなんだろう？

「――じゃあ……いきなりブロッサムの役員になったのって……？」

何でなんですか？
ぽつりと独り言のように尋ねる。と、奥丹先輩はさらりと答えをくれた。

「あれはね、単純に黒河さんと踊ってみたかったから。それに、持っている権力なら残り少ない学生生活で使っておいても良いかなと思って。」

「……権力？」

って、一体なんのですか。不穏な言葉に、思わず眉宇が寄る。
けれどこれにも、またもや、奥丹先輩はさらりと答えた。

「ああ。父方の伯父が学校の理事長でね。それにあわよくば、君たちの関係を拗らせるいい口実かなと思ったんだけど。案の定、乗ってくれてうれしいな。」

語られる内容の腹黒さとの対比が激しい、実に爽やかな笑み。
や、でもそれ以上に衝撃的、真実？

「理事長の……甥？」

「そう。言ってまわっているわけじゃないから、あまり知っている人はいないけれど。ああ、でもどうやら志筑君は知っていたみたいだね。」

呆然としつつ呟いた私の言葉を肯定し、奥丹先輩がもう一度、お茶を啜った。

***

な、なんだか一度にあれもこれも言われて…頭がぐるっぐるしています……っ。

そろそろ容量オーバー間近らしい私の脳みそ。額に手を当て、唸ってみる。

えっと。だから。お見合いもブロッサムも、全部奥丹先輩が仕掛けた罠？
私はそれにまんまと嵌って？

志筑とのお付き合いを反対されるのも、計略のうちで？

「な――、何ですか、それはっ！」

「あはは、驚いた？　でも全部本当の事だよ。今日は無しだから。……嘘。」

「今日は、って……。」

それじゃあ、いつもは嘘ばかりって言っているようなものじゃないですか。

がっくりと、果てしなく襲い来る脱力感。
すごく良い様にあしらわれている感じがしてならないんだけど。

――ああ、もう……帰りたい、な……志筑に会いたい。

うん……志筑の体温を感じたい。触れたい。触れて欲しい。
志筑の大きな掌で、触ってもらうの、好き。

……抱きしめて、低く囁いてくれるのが、好き。

……志筑の熱が……欲しい……。

……ん？

……え？……え、ええええ！？

な、何っ、それ！？　……触って欲しいとか……だ、抱きしめて欲しいとか……うわぁ…っ！　熱って……それは、つまり……！？

突然感じた――衝動。

それは彼氏、だし。どこもかしこも志筑に知られちゃってはいる、けど。

いつも強引に迫られている感が強いというか。
こんな風に感じることはあんまりないというか。

――あ、でも……そう、か……。昨日、志筑に抱きしめられて。でもあれはすごく中途半端で。
もう――何日間も志筑とまともに触れ合っていないから？

もしかして、昨日の志筑もこんな感じだったんだろうか。

ふと昨日の出来事を思い出して、どくん、と胸が鳴った。

「黒河さん。」

「え、あ……っ、はい！？」

いきなりの、呼びかけ。

考えていたことが考えていたことだけに、慌ててそれらを振り払う。

けれど、私はかなり動揺していた。
頬が熱くて、まともに奥丹先輩を見ることすらできない。

今、自分がどんな表情をしているか考えると、顔を上げることなんて出来なかった。

んん？　あれ、でもやけに声が近くで聞こえたような？

「質問はそこまででいい？」

「――は？え？」

質問？　まだ何かあったかな？

や、それよりも、やっぱり声、近い？

驚いて、今度は顔を上げる。と、奥丹先輩がまるで当然、というように私の間近で畳に片膝をついていた。

え、え？　何？？　なんで、そんなに寄ってくるんですか。

ぐるぐると混乱して。でも私の体は、坐ったままずるずると自然に後退していく。
普段から身についた言動ってこういうときに現れるものなんだ…なんて妙に納得した。

「いやだな、そんなに警戒しないで。」

「――そ、傍に寄らないでください。」

ものすごく嫌な予感を覚えて、きっと睨む。でもとりあえず、奥丹先輩がそれ以上近づいてくる気配は無いようだった。

よ、よかった。でもこれ以上近づいてきたら逃げよう。うん。

しっかりばっちり逃走計画を頭の中で練り上げ、じっと奥丹先輩の出方を伺う。

すると奥丹先輩は、何事かに感心したかの様に顎に手を当て、思案げに首を傾げた。

「あ、もしかして知ってる？」

「え？　……何をですか？」

にっこりと笑って、奥丹先輩が自分の背後に位置していた襖を開けた。

あれ、そっち側って…？

ほぼ正方形の室内のうち、三方が戸。そのうち一つが庭園に面した廊下に通じるこの部屋への入り口。
後の残りは、左右にあったから違う座敷につながっているものだとばかり思っていたんだけど。

勝手に空けちゃってもいいのかなと見守る私の前で、何の抵抗もなくするすると開いていくその先。

さすが高級な作りだな、なんて暢気に覗き込んで。

脳みそが……ぴしっと音を立てた気が、した。

「ここ、泊まりもできるんだよね。」

薄暗い室内。中央にあるのは、お布団。
それってつまり……つまり……？

見事なまでに、私の思考容量を遥かにオーバーした事態。
微動だにすることが出来なかった。

「ごめんね。手段は選ばないことにしたんだ。」

どんな時でも、大抵にこやかに奥丹先輩。
言われたことを上手く頭の中で処理できずに、私はぎこちなく薄暗い襖の向こうから、奥丹先輩へと焦点を戻した。

「しゅ、手段を選ばないって……？」

「これでも僕はおじい様のお気に入り、でね。お父さんの職を奪いたくはないよね、黒河さん？」

お、おおおお脅し！？

やっぱり腹黒狸だーーーーっ！！！

ぎりぎり音がしそうな程歯を噛みしめて奥丹先輩をにらみつける。
でも、ぜんぜん効果はないようで。

どうしよう、どうしよう、どうしよう…。
その単語だけがぐるぐると頭の中を巡る。

奥丹先輩のお爺様は、父さんの会社の会長さんで。
父さんの職を奪うわけには、いかなくて。でも、ここで私が承諾しなきゃそうするってことだよね？

「なんで、こんなこと……。」

ようやく搾り出した私の声。情けない程頼りなげなその響きに、自分で吃驚する。

「うーん、ほら。君の性格からするとさ、僕に抱かれたら志筑君のところには戻れないでしょう？　前にした、不意打ちのキス一つであれだけ悩んでたしね？」

――だか……っ、抱か、れ……！？

愕然と、言葉を失う。そ知らぬ顔で笑うこの人が、本気で怖いと思った。

や、多分……お布団を見た時にそれはわかってはいたんだけれど。
それでもはっきりその事実を目の前に突きつけられると……その生々しさが怖くて仕方が無い。

どうしよう、怖い。………もう、助けにこいっ！　志筑の……阿呆……っ。

きっと奥丹先輩を睨みつけて。

精一杯強がって。

でも、もう――涙が零れそうだった。

***

「黒河さん……七夜。」

びくっと、身体が震えた。

名前を呼ばれただけ、なのに。
でも、志筑を裏切ったみたいな……どうしようもない気分になる。

「……や……っ、やめてくだ……さい……っ。」

唇が震える。腕に強い力を感じる。奥丹先輩が私の腕を、掴んでいた。

頬が、熱くて、冷たい。
とうとう瞳から零れ落ちた熱い雫が、空気に晒され、冷たくなっていく。

「……や、ごめんなさ……ごめんなさい……っ」

「どうして謝るの？　黒河さん……。」

理由なんてわからない。どうして私、謝っているんだろう。
もしかしたら――泣き出した私を奥丹先輩が悲しそうな寂しそうな顔で、見下ろしているからかもしれない。

「ごめんなさ……、志筑が……好、き……なの。」

「うん――知っているよ。それでも良いって、言っても？」

左右に激しく首を振る。髪が涙で頬に張り付く。
くらりと、頭の奥が眩暈を起こしたように揺れている。

でも、拒絶することを止めたら、そのまま何も出来なくなりそうで。
それが怖くて、私はただ只管頭を振り続けた。

「罵られるより――謝られる方がきついかもしれないね。」

「……っ！？　奥丹、先輩――っ！？」

自嘲気味な声と共に、突然、腕を強く引かれた。
顔が、身体が何かにぶつかり、受け止められる。

それは、奥丹先輩で。

私は奥丹先輩の腕の中に抱きしめられていた。
志筑とは違う、匂い。志筑じゃない、腕。

「――や……っ！　いやだってばっ！　放して……っ、放してくださいっ！」

「ごめん……泣かれても、拒絶されても、僕には君が必要だと思う。……君がいれば、何かが変わる気がするんだ。――だから、ごめん。」

――な、一体どんな理由ですか！？　……私が居たら何かが変わるなんて、そんなことあるわけがない！

私はそんなに大層な人間なんかじゃない。

ただの女子高生で……、彼氏の気持がいまいち分からなくて……右往左往しているような、極普通の女の子だから。

抱きしめられている腕の中で、一生懸命にもがく。
暴れて、掌であたり構わず引っ叩いてみて。

でも、健闘むなしく私は開いた襖の向こうに、引き込まれた。

怖い、ふざけてるわけじゃ、ない。逃げる隙をまるで与えてくれない。
身体が、布団の上に投げ出される。上質な布。やわらかな感触。

「……っ、い、や……志筑……っ、志筑じゃなきゃ、やっ！」

がばりと布団の上で起き上がると、丁度、部屋の境目に立っていた奥丹先輩と目が合う。

「そう？　じゃあ、逃げてみる？」

――お父さんがどうなってもいいなら。

言外に告げられ、言葉に詰まった。
黙り込んだ私を見て、奥丹先輩が薄く笑う。

「それが賢明だと思うよ？　……もう志筑君のところには返さない。そのかわりに、君を大切にする。」

私を大切にしてくれるなら、志筑の所に返してください。
喉元まで出かかった言葉。でも、言っても無意味だって事は、わかる。

「……こんなことをしても、私はあなたのことを好きにはならない……です。」

「どうだろう。試してみなきゃわからない。少なくとも志筑君のところにはもどれなくなるわけだしね？」

どうにか懸命に搾り出した私の言葉を、肯定とも否定ともとれる受け答えであっさり流し、奥丹先輩が布団の端に足を掛けた。

志筑のところに、戻れない。
それは、胸をきつく叩かれたかのような……予想以上の痛みだった。

「それこそわからない、じゃないですか……。」

私が志筑の元に戻れなくなるかどうか、なんて。

自然と小さくなる声が、震える。

「――君は、僕に抱かれた君を志筑君が許すと思うの？　……いや、それ以前に、君は自分のことが許せる？　何食わぬ顔で彼の元に戻ることが出来るの？」

しゅっと音をさせ、奥丹先輩がシャツの襟からネクタイを抜き取る。

畳の匂いが、やけに鼻につく。

――志筑は、許してくれるかな？

頭の芯が揺れ、ぼんやりと思う。

頼りなげな布団のさわり心地。

掌に感じるそれが、私の奇妙な現実感の無さに拍車をかけている気がした――。

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