07. 触れ合いたいのは一人だけ(3)


奥丹先輩の唇が、私の首筋に触れている。
それは信じられない、信じたくない感触だった。

自分の心が認めていない人に自由を奪われ、あまつさえ肌に唇を這わされている、なんて。

一度は無くなりかけた現実感が、急速に戻ってくる。肌が粟立つ。
どうにか止めて欲しくて、なのに喉に張り付いた声は、上手く言葉になってはくれない。

「……ゃ……、止め……っ」

辛うじて搾り出した声。でもそれは奥丹先輩により布団に押し倒されたことで、かき消えた。

ばふっと音をさせ、体が柔らかな掛け布団の上に倒れこむ。

私の上には、奥丹先輩が……いて。苦笑いしていた。

「――そんなに志筑君が好き?」

そんなこと、わかりきっているくせに。

多分、ひどい顔をしていると思う。
涙が止まらなくて、声が出せない。喉から嗚咽だけが漏れる。

それでも必死に、頷く。

すると奥丹先輩の苦笑がかき消えて、柔らかな布団にきつく肩を押さえつけられた。

「――君は、どうしてそうやって志筑君を選ぶんだろう……どうして僕じゃ駄目なんだ……っ!」

突然。声を……荒げて。奥丹先輩が。
……吃驚して涙の止まってしまった私の前で、はっとしたように口を噤み、次いで自嘲気味に笑う。

「あの時――ハロウィンのあの時に、やっぱり譲るべきじゃ無かった。まさか、志筑君がなりふりかまわずに、あんな場所で君に告白するとはね。」

譲ったって――それはあのパンプキン・ジャックのことだよ、ね?

あれはでも、譲ったというよりも、志筑が無理やり奥丹先輩を押しのけたっていう方が言い方的に正しい気がする。
あ、でも……奥丹先輩が志筑を挑発したんだっけ……。

「どう、して……志筑を嗾けたり……?」

不思議に思ったのが半分。後の半分はどうにか奥丹先輩の意識を逸らしてしまいたくて尋ねた。

でも掠れた声はまるで自分のものじゃないみたいだった。
おまけに喋ったら乾いていた喉が痛くて、軽く咳きこんでしまった。

……く、くるし……っ。

喉元を押さえてけふけふと咽る。その私の額に奥丹先輩の手が添えられて。
すごく、慈しむ……みたいな優しさで、髪を撫でられる。

酷いことを、しようとしているくせに。どうしてこんなに優しい触れ方をするんだろう。


「怖かった……のかな。」

ぽつりと、私に落とされた言葉。

けれど、それがどういう意味を持つ答えなのかわからなかった。

だって私が尋ねたのは、志筑を嗾けた理由で。
その答えが、怖い? 怖いって、一体どういうことだろう?

「君に触れて、自分が変わってしまうことが。」

どうやら思っていたことが表情に出ていたらしい。
奥丹先輩がそっと囁きながら、私の頬に指を滑らせた。

変わ、る……? 奥丹先輩が……? そんなこと想像出来ない。
だって、他人に影響されて変わる……なんてことを潔しとしないんじゃないだろうか、この人は。

ああ、でも。全然実感なんて湧かないけれど、もし私にその契機となる何かがあると思われていたんなら、それで志筑を嗾けた? 私が、志筑と付き合うように?

でもそれなら尚更、どうして志筑との仲を邪魔するんだろう。志筑との仲を拗らせるような真似をしてみたり、いまさらこんな風に手の内に入れようとしてみたり。

「……どうして、なんで……今更……?」

「変わっていく志筑君をみたから、というのは答えになる?」

尋ねた私の唇をゆっくりと確かめるように、輪郭に添って奥丹先輩が指で辿っていく。

本心が、読めない。

変わった、志筑が? ……志筑は、そんなに変わった?
わからない、かも。だってそんな風に考えたことなんてなかったし。

でもそれが、私がこの状況に陥っている理由ってこと?
ああ、もう! 本当に訳わかんないよ!

今、私の中で一つだけはっきりしていることっていえば。

「志筑が本当に変わっていたとしても、こんなの違う。だって……気持ちがなくちゃ、こんなことしたって意味なんてないじゃないですか……っ!」

多分、これだけ。

話している間に乾いた涙で、瞼が引き攣るみたいに痛んだけど私は相変わらず上に圧し掛かったままの奥丹先輩をきつく睨んでいた。

「――そうかもしれないね。」

苦しそうに顔を歪めて、先輩が肯定する。

絶対否定されるだろうと思っていたのに。
それに、そんな顔……なんでするんですか。まるで私が……悪い事をしているみたいで。

……て……え、あ……、や……っ!?

「ん、や…っ」

奥丹先輩により、柔らかな布団に縫いとめられた体。
深く重なってくる、唇。

前に一度だけされた不意打ちのキス。
触れるだけだったあの時とは、全然違う。

明確な意思を持って、私の唇を強引に開こうとしている。

でも私が歯を食いしばりきつく口を閉じて浸入を拒んでいると、奥丹先輩が舌の先で唇を舐めてきた。

しかも、なんだか……胸……胸、触られ……っ!?

服越し、だけど。下から掬うように持ち上げられてる。
強張っていた手足が、震えていた。

志筑にされる時に感じる甘さなんて全然、無い。
やだ、怖い、よ。……志筑、志筑……っ!

ばっと頭の中に、志筑の顔が浮かぶ。

――戻れない。

奥丹先輩に……だか、れ……たら、もう……志筑のところに戻れない。


「……や……や、だ……やだっ!!」

そんなの、嫌だ。

だって、違う。
私――駄目だよ、やっぱり。

触れて欲しいと思うのは志筑だけ、だから。

志筑とそういうこと……つまり、キス、とか……それ以上とかするのは……たぶんきっと嫌じゃない。
頭の中が溶けちゃいそうなくらい、何度も求められるけど。

すごく気持ちよくて。

でもそれは、相手が志筑だから。
私が、志筑を好きだから。志筑も私のことを想ってくれているって、私の心が知っているから。

――だから、奥丹先輩とは……無理、だ。

ああ、もう! どうしてこんなにのっぴきならない状態になってからそんなことを再確認するかな、私は!

……父さん……っ、ごめん! 自分勝手な娘で、御免なさい!!

心の中で思いっきり父さんに謝り倒す。
ここで拒絶すればどうなるか、はっきり全部を想像できるわけじゃない。気持が竦まないかと言われれば、実は竦んでいる。

それでも――私は奥丹先輩を、拒絶した。

「駄目です……っ、私……やっぱり嫌……っ!」

圧し掛かってくる身体を、捕らわれていない手で押し返す。
どうにか逃げ出そうと身を捩り、暴れる。

どかどかとあたりかまわず握り締めた拳で叩いた。

「しー、静かに。騒ぐと辛くなるだけだよ? 大人しくして。」

「んー……っ!?」

けれど、私の抵抗なんてものともしない奥丹先輩の手に、口をふさがれる。
もがもがと篭った声しか出せなくなって。

その間にも奥丹先輩の手がスカートをたくし上げて、私の肌に……深い所に、触れようとしてくる。

や、やだやだやだ!
でもそれを訴えることができない。

志筑以外の人に、こんなこと許せない、のに!

――やだ、やだーっ!

気づいた時には、私は頭の傍に転がっていた何か……手に触れた何かを掴んで、圧し掛かってきている奥丹先輩を思いっきり引っ叩いていた。

ばふっと音がして、確かな手ごたえ。

奥丹先輩が怯んだお陰で、拘束がとかれる。

上に圧し掛かっていた奥丹先輩を力いっぱい押し退けて、私は布団の上からどうにか這い出した。

急いで立ち上がろうとして、足を何かにとられる。床に倒れこみそうになりながらも、どうにか踏みとどまり、慌てて床を確かめる。

何これっ……、滑るんだけど……っ!

足元にあったのは、私の掴んでいる物の中身。
ばしばし叩いたせいで、あたりに飛び散っていたのは、真っ白な羽。

その時になって漸く自分の掴んでいるものが枕だったのだと気づいた。

破れたところから、まだふわふわと真っ白な羽が舞って行く。
私の頭や身体にも、真っ白で柔らかな羽が纏わりついてきていた。

「……黒河さん……っ!」

奥丹先輩が、私の腕を掴もうとしている。

でも絶対もう捕まってなるものかと慌てて立ち上がり、まだ手にしてた枕の残骸を奥丹先輩に向けて放り投げると、廊下側の襖へと駆け出した。

靴……なんて探してられない。こうなったら裸足だろうがなんだろうか、庭に降りてでも逃げようと、しっかり心に決めて。

もうギリギリの気力。限界間近な勇気。

それらを振り絞って……多少自棄気味になっているって言うのも、あったかもしれないけれど……必死に外へ繋がる襖へと手をかけた。

これで外に出られる!

見えてきた希望。なのに。
それ開けて飛び出そうとした瞬間、私は何かに思いっきり激突、した。

痛……っ、何、これ……襖は開けたよ、私!?

思って見上げようとしたら、息が苦しくなって。
それは、すごくきつく……身体が締め付けられているからで。

はっと気づけば、私はその何か、じゃ、なく、誰かの腕の中にきつく抱きしめられている真っ最中だった。

や……っ! 何、誰!?
この料亭の人!? 奥丹先輩の、味方、とか?

ああ、でもそんなこと考えている場合じゃ全然なくて。
とにかく、逃げる! 逃げるに限る!

「離してっ! 私は志筑の所に、帰るんだからーっ!」

どかっと、ローキックをかまそうと。

でも、私の鼻腔を掠めたのはとても覚えのある、匂い。私の一番近くまで来た人の……そう……覚えのある、それ。

しかも、私を包んでいるこの腕の感触。

「――七夜。」

決定付けるように、私の耳元で囁かれたその声は。

――どうして?何で?志筑……が、いるのぉ?

ますます訳がわからなくて。

でも、一つはっきりしているのは、私がすごく安心しているということ。
あまりにも安心し過ぎて、再び泣きそうだった。

志筑がいてくれるだけで、こんなに安心するなんて。

後は、もう何も考えられなかった。
怖くて、不安だった。でも志筑の姿を見たらほっとして。

私を抱きしめる腕の力が緩むと同時に、志筑の頬を両手で包み込んだ。

「黒か……っ」

奥丹先輩の制止の声が聞こえた気が、する。
でも、全然頭の中には入ってこなくて。

気づいたときには、志筑の唇に自分のそれを思いっきり押し付けていた。

「しづ、き……志筑……。」

ああ、もう私の涙腺、壊れているんじゃないかな、今日は。
閉じた瞼の奥が熱い。ぼろぼろと瞳から零れ落ちる涙は、頬を伝って首筋に流れていく。

「――七夜。」

口付けの合間。志筑の熱い吐息。

短く息を吐いて瞼を開けると、志筑が熱の篭った目で私を見下ろしていた。

志筑、だ。
当たり前のような事実。それが嬉しくて仕方が無い。
じっと目の前にいる志筑へと見入る。

けれどそのうちに、すっと志筑の目が眇められて。
大きな手が、私の肩に触れた。

……んん? ……あ。

肩口……開いたワンピースの胸元が、見事なまでに乱れている。
薄いピンク色の下着が覗いていて、慌てて手で隠した。
多分、髪の毛もぼさぼさだろうし……、口紅もとれちゃってるっぽい。

奥丹先輩から逃げようと必死に立ち回った結果、なわけだけど。
我ながら、随分酷い出で立ちになってるんだろうなと思う。

……あ、そういえば。奥丹先輩、は?

恐る恐る、背後を振り向く。すると、まだ室内にいた奥丹先輩と、ばっちり目が合った。
にっこりと、今の私には凶悪としか見えない笑顔を向けられて、再び志筑の胸に顔を埋める。

こ、怖っ!

「思ったより、早い登場だったかな。でも残念。少し遅かったね、志筑君。」

背後から、足音。
奥丹先輩がこちらに近づいてきているらしく、話す声がはっきり私の耳に届く。

「……黒河さんの中、すごく気持ちが良かったよ?」

何だか思わせぶりに間を置いて、しかもなんだか楽しそうな奥丹先輩の声。

ん…ん? 中…って、何が? 気持ちよかったって…んん?

安心感で気の抜けている私を抱きとめる志筑の腕に、力が篭る。
守るように抱き込まれて、志筑の胸に私の頬が押し付けられた。

……あ、志筑の心臓の音。 とくとくと鳴る響きが心地良い。

「――だから?」

志筑が喋る声も、いつもよりずっと近い気がする……。でも、やけに低い声は……志筑の不機嫌バロメーターなわけで。……つまり、滅茶苦茶機嫌が悪い、らしい。

「随分と余裕だね。……なんとも思わない?」

「無理やり抱いて、それで満足か?」

いつもより十割り増し位の、地を這うような口調。
私に言われているわけじゃないってわかっていても、ちょっと怖いなって思ってしまうような、響き。

うわぁー……志筑の機嫌、最悪だぁ……。

ん? でも待って……。
今、何気に志筑が言ったのって……抱い……とか、なんとか?

あれ??

――もしかして。

さっき奥丹先輩が言った、中が気持ちよかった、とか……とか……え、ええええ!? つまり……ま、まさかそういう意味!?

「え、や…、違…っ、違う…っ!」

がばっと志筑の胸から顔を上げて、仰ぎ見る。
私の後ろにいるのだろう奥丹先輩を真っ直ぐに睨みつけているらしい志筑に、されてないって……そんなことされてないからって必死に訴えた。

でも志筑の視線が、私には向けられることはなく。篭った腕の力も、緩まない。
や、だ……、やだ、誤解……されて、る?

本当に違うの、に。どうしたらいいんだろう。
志筑を見上げたまま、ぐるぐるぐると考える。

なのにその私の背後から、またもやとんでもない一言が飛び出した。

「ああ、否定したくもなるよね。黒河さんも楽しんでたし?」

な、何を言い出すんだ! この腹黒狸は…っ!

楽しんだって、何をだ、何を。

――これ以上……志筑に誤解されるようなこと、言わないで。

だって。誤解を解くために必死になったら……奥丹先輩の言ったことを肯定するみたいで。事実だから、必死になっているのかって思われそうで。

言うべき次の言葉が見つからずに、私は俯くしかなかった。

志筑に突き放されそうで、怖い。
奥丹先輩に襲われていた時とは違う怖さに、身体が竦む。

私を抱きしめていた志筑の腕が緩んで、どくっと止まりそうなほど大きく、心臓が鼓動を刻んだ。

「身体だけが――欲しいわけじゃないだろう。」

静かな、口調。
腕の力を弱めているとはいっても変わらずに私を抱きしめてくれている志筑。

私の頭の上から降って来た言葉の、意味。
私は咄嗟に、勢い良く顔を上げていた。

志筑の視線は、まだ奥丹先輩に向けられたまま。

私も少しだけ後ろを振り向いてみる。

奥丹先輩が目を瞠って――唇を引き結んで、黙り込んでいた。

……二の句が継げない、とでも言うんだろうか。
そんな奥丹先輩の様子は初めてで、かくいう私も、実は吃驚だった。

肩越しに後ろを見ながら固まる。
が、暫くすると、顎が手で覆われて、優しく前に向き戻された。

――ん? ……あれ? えっと? ……あ。

漸く、志筑が私を見てくれている。
見下ろしてくる志筑は、無表情だったけど。

……怒って、ない? 突き放され、ない?

私の目の縁に、志筑が触れる。
少し冷やりとした指が、ひりつく皮膚の上を優しく滑る。

それがやけに心地よくて……目を閉じた。
閉ざされた視界の中、志筑のくれる感覚だけが全てになる。

「本当にあんたに抱かれていたんだとしても、気持は裏切ってない。――楽しんだ……? こんな姿でか? 七夜を手離すつもりは無い。――無駄なことは止せ。もう、泣かせるな。」

低い、声。

――志筑……私がもし奥丹先輩とそういうことになっていたとしても……ここに、この腕の中に戻るのを、志筑は許してくれる、の?

……胸が、きりきり痛んだ。

だって、ごめん。私、凄く自分がずるい気がする。
志筑に甘えてばっかりで、ごめん。

そんな表情をさせて、ごめんね。

そっと瞼を上げた私の瞳に映る志筑はとても辛そうで。

……もうこんな事態にならないように、したい。ううん、する、から。

ごめんねと呟いて、私は志筑の背中に両手を回して抱きついた。

少し驚いたような志筑が――なんだろう、これって、大切…? 愛しい?
全部ひっくるめたような気持、とでもいうのかな? あったかい。

「自信満々だね。」

突然、冷たく言い放たれた言葉。
はっと振り向くと、廊下へ出てきた奥丹先輩が冷ややかな一瞥を志筑に向けていた。

「それに、泣かせるな? 君には言われたくない。」

凍りつくような冷たさだと思った。
奥丹先輩が、後ろ手で背後の襖をぴしゃりと閉める。

雰囲気が……というか、二人の醸し出す空気が余りにも険悪で。

「……奥……っ」

私は志筑にしがみついたまま、奥丹先輩に声を掛けようとした。
今更何を言う気なのか、自分でもわからないけれど、このままじゃいけない気がして。

でも、廊下の曲がり角。その向こうから、数人の話し声が聞こえ、私は口を開けたまま固まった。

姿はまだ見えないけど、この声って父さん…?

ざあっと顔から血の気が引く。

だって、この姿。こんな格好を見られたら一体どんな事態になるか。
今よりさらに複雑化することは目に見えている。

慌てて志筑の腕の中から身体を起こし、ぐしぐしと目元を拭う。
ささっと服を整えて、はらはらと舞い落ちる羽を払いのけ、両掌で髪を撫で付ける。

――その直後。

やっぱり廊下の曲がり角から現れたのは、庭の散策を終えて楽しそうに歓談しながら歩いてくる父さんと卯月会長さんだった。



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