09. 桜色のダンスを一緒に(1) |
とうとう来ちゃった、この日この時。 ――今日はブロッサム当日。 あんなことがあった後で凄く顔を会わせ辛い奥丹先輩と、寄りにもよって踊らなきゃいけない日だっていうのに、恨めしいくらいの晴天が広がる空。 それに反してなんだかとっても気が重たい私はというと、チェリー・ブロッサム自体も確かに憂鬱ではあるけれど。 今は……ダンスよりも――つまり、奥丹先輩の事よりも先に済ませてしまわなきゃいけない難題を目の前にぶらさげられていたり、する。 「自分の家なのに入るのにこんなに緊張するってはじめてかも……。」 晴れ渡った空の下、片手を胸元にあて、もう片手は玄関のドアノブを握り締めたまま浅く深く何回か深呼吸。 玄関を目前にして、もうこれを何度も繰り返している。 いつまでもこうしていたって仕方が無いってことはよくわかっているんだけど。 昨日の今日じゃ、自分の家に入るのにはかなりの勇気が必要……なんてことは家の前にたどり着いてはじめて気付いた事実。 ああでもやっぱりここでいつまでも凍りついているわけにはいかないわけで。 志筑としっかり約束したし。そもそも私が一人で帰るって決めたんだし。 ……。 ああ、もう。しっかりしろ、黒河七夜。 ぐっと背筋を伸ばして、自分に気合を一つ。ぐだぐだ悩むな、私! 「うー、よし!」 威勢の良い掛け声と共に、意を決して思い切り良く引っ張った玄関扉。 でもそれは意外な程の手ごたえの無さを持って私の方へと押しやられてきた。 で、ふと気付けば。 あれっと思う間もなく唐突に。次の瞬間には目が真っ暗。 おまけに顔は何か暖かいものが被さってきて。 おおお!? 何これ? 視界が全部その真っ黒な物体に覆われ、しかも勢い良く飛び掛られたお陰でなんとも間の抜けた声を上げながら、私は見事にバランスを崩した。 そのまま玄関脇にある植木の中によろめきながら座り込む……もとい、倒れこんだ。 バキバキバキっと、確実に枝が折れたと思われる音が数回。 漸くその音が止んだ頃、私の顔にはふにふにしてあったかくて柔らかい感触がしっかり乗っていた。しかも何だか舐められてるし。 艶艶の手触りの良い胴体をがっと両手でつかみ、顔から引き剥がす。 何に飛び掛られたのかは、もうさすがにわかっていた。 私が一年とちょっと前に拾ってきた、ふわふわの毛に青い目をした、猫。 やせっぽっちな子猫だった頃が嘘のようにすくすく成長しまくって、どうやら今ではこの界隈の次期ボス猫候補にまで成り上がっているらしいシンが、それはそれは嬉しそうに喉を鳴らしていた。 「うーいたたたー……シンってば何するのよー。昨夜はお留守番させて悪かったけど、このお出迎えはあんまりじゃないの?」 私の文句をよそに、そ知らぬ顔で身体を摺り寄せてくるシンを脇にのけて、腰を摩りながらどうにか起き上がる。 あちこちに葉っぱがくっついているは、腰は痛いは……。 思いっきり出鼻を挫いてくれたし、シンってば。 ううっと唸りながら、何気なしに顔を上げた。 「お帰り、七夜。早かったな……で、早速で悪いが、父さんからお前に言いたいことがある。」 そこには、玄関の中で見事なまでに仁王立ちした真顔な父さんがいた。 察するに、これはどう考えても諸手を挙げて私と志筑との付き合いを認めてくれる――なんて雰囲気とは程遠い。 父さんが私に言いたいことっていうのも何となく想像がついてしまうような、何とも言いがたい空気だった。 ……でも諦めないって決めたし。なら、説得するまでだ、頑張れ私。 自分にエールを送りつつ、スカートについていた葉をパンっと音をさせながら払い落とす。 深呼吸を、一つ。 「ただいま、父さん。――父さんの言いたいことちゃんと聞くよ。その為に帰ってきたんだし。」 一気に言い切る。視線は父さんから逸らさなかった。 すると驚いたように目を瞠った後、父さんがやや眉宇を顰めながら溜息を漏らした。 「そうか、なら七夜……単刀直入に言う。彼とは――別れなさい。」 いきなりそうくるか。 覚悟していた言葉とはいえ、はっきり言われると流石に堪える。 でも理由付けも何も無くそんなことを言われても、当然納得できるわけが無い。 「絶対いや。大体どうして別れなきゃいけないの。」 「……理由なんてどうでもいいだろう。とにかく父さんは、お前と彼が付き合うのが嫌だ。」 腰に手を当て鼻息荒く言い切られる。 ……父さん、嫌って……だからその理由が知りたいんだってば、私は。 「だからどうして?理由も言わずに納得しろなんて、今まで父さんそんな分からず屋じゃなかったし。」 「だから、それは……。」 「それは?」 ぐっと身を乗り出して詰め寄ると、父さんが途端に口篭る。 だからその肝心の理由を聞かせて欲しいのに、どうしてそこで黙り込むかな。 「ひ、秘密だ!」 挙句の果てにそれですか。 父さん、貴方は一体幾つなのってなもんだ。 駄々っ子じゃないんだからもう少し大人的な受け答えをして欲しいって願うのは私の我侭じゃない、と思いたい。 脱力する私の前で、父さんが腰に手を当てたまま、更には胸を逸らし気味にして踏ん反り返る。 これはもう完全に開き直っているとみて間違いない。 でも、こうなったらどうあっても父さんの口から理由を聞き出したくなるってものじゃない? 伊達に十数年もこの父と付き合っているわけじゃないんだし。 絶対に口を割らせてやろうじゃないの。 なんてことを決意して。 ――だけども私は、うっかり忘れていた。 父さんと私はとても良く似ているって言われることを。 言い合い出したらお互い冷静でなんてまったくいられないんだってことを。 そして数分後。 そこには見事なまでに激昂しながら玄関先で言い合う傍迷惑な親子が出現していた。 「だーかーらーっ、どーして駄目なの!」 「駄目なものは駄目! 確かに昨日、彼のお母さんからきちんと責任を取るとはいわれたが、やっぱり駄目だ! いいから父さんの薦める人とお付き合いしなさい!」 「嫌だってば! 何その横暴っぷり! 大体、その父さんの言う”薦める人”に昨日えっらいめにあわされたんだから!」 「……なっ!? え、えらいめ!? チョット待ちなさい七夜、それは一体どういうことだ!そういえば昨日座敷から出たとき羽まみれだったのはどういう……。」 「あああ、もう! 言いたくない! 一片の余地も無く、父さんには絶対何にも言いたくないーっ!」 ぜはぜはぜは。私の絶叫を最後に、お互い肩で息をつきながら、小休止。 ぎっと睨みあいながら、物凄くピリピリした時間が流れていく。 どうしてわかってもらえないのかな……私の言葉はそんなに信用出来ない? 凄く悲しいし、父さんの理不尽さに腹が立つ。 だけどこれじゃあ昨日の二の舞だよ、私。 睨みあっていた目線を下げて、俯く。 落ち着け落ち着け落ち着け私。 ぐるぐるその言葉を繰り返しながら、軽く息を吐き出して顔を上げた。 「――どうして、そんなに依怙地になるんだ。彼じゃなくともいいだろう。」 再び父さんが口火を切る。 これは父さんが全然納得していないってことだとは思うけれど、私だって退けない。 今ここで退いたら、こうして家に帰ってきて、父さんと玄関で対峙している意味が無い。 「父さんこそ、どうしてそんなに志筑が駄目なの?」 さっきよりはだいぶ冷静に話し掛けられた、と思う。 まだ頭の中の熱は冷め切ってはいないけれど、激昂という程には酷くない。 じっと息を詰めて、答えを待つ。 私のその様子に、父さんが突然、耐えかねたっていうようにふいっと顔を背けた。 「父さん。」 「なんだ。」 「こっち向いて。ちゃんと私を見て。人と話すときはちゃんと顔を見るものだって昔父さんが言ったんだよ?」 腕を組んで眉間に皺を寄せてむすりと黙り込む父さんに、諭すようにゆっくりと告げる。 でもその言葉も空しく、依怙地にそっぽを向いたままの父さんに溜息が漏れた。 ちっとも進まない話。堂々巡りな会話。これじゃあ、どうにもこうにも打開策を見出せない。 これは膠着状態突入かな、と半ば以上諦めかけた――が。 「まーったく、朝帰りとはやるわね、この不良娘。」 絶妙なタイミングで、父さんの後ろから明らかに今のこの状況を楽しんでいるとしか思えない声があがった。 どうやらキッチンから出てきたらしい母さんが、父さんの隣に仕方ないわねというように苦笑いしながら並ぶ。 それにしてもこの間の良さってば、もしかして母さん、出てくるタイミングを見計らってたんじゃなかろうか。 「さて、貴方もそろそろ諦めたらどう? いつまでもそう頑なになってても仕方ないわよ。」 ぽんと父さんの怒らせた肩を叩きながら母さんが援護の言葉をくれる。 どうも母さんは私の味方をしてくれるつもりらしい。 「な……っ、何を言い出すんだ母さん! そんなの絶対駄目だ!! 七夜は私の決めた人とちゃんと清い交際をするんだ! どうしてあんな手の早い……っ、」 母さんの態度に驚いたらしい父さんが眦を吊り上げて激昂。 でも言葉の途中でしまったというように顔を歪めて、手で口を覆ってしまった。 ――ん? あれ? 何だか今、凄く聞き捨てならない台詞があったような? えー……と。うん、そうそう清い交際、それで手が早……ん? んん? 「え、え……? 清い交際って……、手の早……え?」 呆然とする私の前で、父さんは明らかにむっとしたまま再びぷいっと顔を逸らしてしまった。 「……えっと……と、父さん?」 恐る恐る。何だかとってもききたくないことを聞かされそうな予感が……予感が、ね? しちゃったりとか? 相変わらず貝の如く口を閉ざしている父さん。 だらだらと嫌な汗をかく私。 ああ、まだ四月だって言うのに不思議だよなー、はははーって、そんな暢気な! 脳内で一人呆け突っ込みをしてみるくらいには動揺しながらも、ただ只管突っ立っているしか出来ない私に答えをくれたのは、案の定というかやっぱりというか、にやりと笑う母さんだった。 「あんたも迂闊ねー。少なくともキスする時位はもっと回りを確認した方がいいわよ?」 脳みそに、洒落にならないくらいの衝撃。 「え、えと……? ええええ……っ!? 嘘でしょ!!」 それって、それって! つまり父さんにみられちゃってたってこと!? うわ、一体いつ!? だって志筑とちゅーとかって……とかって……そんなに外じゃしてないってばーっ! ああでもはっきりそんなことしてないって断言できない……できないー! 絶句する私を見て、父さんが眦を吊り上げる。 「……その反応……やっぱり心当たりがあるんだな、七夜。」 「え? ……え!? ちょ……酷っ、ひょっとして鎌掛!?」 だ、騙された!? もしかして母さんと父さん、共同戦線!? 吃驚して母さんを見ると、でも母さんは余裕の笑み。 あ、れ? 違う、かな?? でもだって、ええ?? 「人聞きの悪い、鎌を掛けたわけじゃないぞ……一ヶ月程前、確かに七夜らしき人影を見かけたんだが――まさかと思っていたのに……。父さんは七夜を信じていたのに……やっぱり人違いじゃなかったんだな……っ。」 困惑する私の前で、父さんが実に恨めしげにぼそぼそっと呟く。 うわ、ちょっとそんな泣き出しそうな表情、しなくても。 しかも信じてたって言いながらも、思いっきり疑ってたじゃない、父さん! や、だけど確かにそれは私本人の可能性もあるわけで……というか、多分かなりの高確率でそう、だと思うんだけど。 でもつまりどうやら。今の私の態度で父さんは確信してしまったらしい、ということで。 て、うわ、私の馬鹿ーっ、でもだって、あああ……。 あー……だけど、そっか。 父さんがどうして見合い話なんて受けてきたのか、納得。 普段の父さんなら絶対、幾ら上司からとはいえ、私にそんなこと無理強いしないはずだもん。 話を持ち出されたときは冷静に考えられなかったけど、今ならなるほどって思える。 ひょっとしなくても、凄く心配、とか……掛けちゃったんだろうか。 もし私が親になったとして、娘が見知らぬ男の子とちゅーとかしてたらそりゃ気になるし心配だってするはず。 「――父さんが見たの……それ、多分……私、だと思う。」 「……な、ななや……っ!」 申し訳ない気分で一杯になりながら正直に話す。今更取り繕って嘘をついても仕方がないから。 でも今度こそ本当に泣き出すんじゃないかっていう勢いの父さんを見たら、ちょっとだけ後悔した。 「ごめんなさい、否定できない。それと、心配掛けてごめんなさい。」 ぺこっと頭を下げる。 志筑との付き合いを反対されるのは全然納得できないけれど、それとこれとは別問題。 やっぱり心配を掛けた事に関しては謝っておきたかった。 下げた頭の上で、父さんの溜息。 同時に母さんが笑いを含んだ声で「あらでも責任取ってくれるんでしょう?」なんて言い出す。 責任――って。ちょっとそれは聞き捨てならないかも。 ゆっくり頭を上げる。言うべき言葉をさがしている様子の父さんから、母さんへと頭を巡らす。 「私は責任を取ってもらおうなんて考えてないから。だって、これってどちらか一方が責任を取るようなことじゃないって私は思う。」 「あら、でも女の方がリスクは大きいわよ? 当然の権利なんじゃない?」 「そういう考え方もあるかもしれないけど……私は、嫌だ。」 上手く説明できないんだけど……自分の中で母さんの言う考え方が全然しっくりこない。 なんていうのかな、お互いがお互いの責任なんだと思う。 私は志筑に無理強いされたわけでもないし、自分で考えて行動した結果だから。 志筑に助けてもらうことも多いけれど、でもそれは全部を依存してしまうって言うことじゃ、きっと無い。 「父さんはそれじゃ納得できない。」 黙って事の成り行きを見守っていた父さんが、低く呟く。 「――うん、私のこと大切にしてくれているからだよね?だけど、苦しいこととか、自分が嫌になることもあるけど、今私は志筑と一緒にいられて嬉しいよ?この先――後悔はしないと思う。」 「絶対なんてことはいえんだろう。」 「それは……言えない、けど。だけど父さんに認めてもらいたい。私、まだまだ子供だけど……わかってるけど……ちゃんと自分で決めて、自分で進んでいきたいから。」 確りと父さんに向かいあって。 確かに志筑とは……その、清い関係、じゃないけれど。でも志筑とならそうなってもいいって思ったから。 興味本位だったわけでも軽い気持ちだったわけでもない、と思う。 そういうことが全てなわけじゃないってわかってるけど、志筑に私を知ってもらいたかったし、志筑を知りたかった。 その結果がどうであろうと、志筑だけに責任を被せて知らぬ存ぜぬなんて、絶対嫌だ。 「七夜……。」 色々と全部吐き出してすっきりした私の前で、父さんの眦がみるみる下がっていった。 そうすると、かなり情けなさ全開、だったりして。 不思議と私の方が申し訳ない気持ちになる。 そういえば母さんが以前、父さんの情けない姿に絆されちゃったのよねぇ、なんて嘯いていたけれど、あれは案外本音だったのかもしれない。 「もう諦めなさいな、貴方」 母さんの華奢な手が父さんの肩をぱんっと叩いた。 項垂れた父さんが、ほんのちょっと恨めしげな視線を母さんに送る。 「だってだな、母さん……七夜が……私の七夜が……」 「貴方の、じゃないでしょ、七夜は私たちの。――だけどね、それ以前に七夜は七夜のものなの。だから自分で起こした行動の後始末くらいは自分で出来なくちゃ。」 「そんな母さん冷たいじゃないか……っ!」 「そうねぇ。でも頭ごなしに何でも否定したってどうしようもならないでしょう。だからね、七夜。自分で間違っていないと思うなら、あんたの好きなようにしなさい。それくらいにはあんたのこと信用しているから。でもね、どうしようも出来なくなったら、私たちに頼りなさい。その時は、絶対どうにかしてあげる。」 最初の部分は父さんに。後の部分は私に。 これって一応信頼してもらえてるって思って良いのかな。……聞きようによっては超放任主義みたいだけど。 「あ、だけどね。頭ごなしに否定はしないけど、もちろん口出しはするわよ? 帰りが馬鹿みたいに遅くなったら怒るし、間違ったことを仕出かしそうならそれで本当に良いのかじっくりしっかりしつこーく尋ねるし。まあ、その辺は覚悟して頂戴な。」 が、最後の補足、と言わんばかりに母さんにびしっと釘を刺される。 「……うん、わかってる。私も自分が全部正しい、なんてどう考えても言えないし。母さん、ありがと。」 これは本心から。 でもやっぱりちょっと悔しくて苦笑いで答えると、母さんの腕が伸びてきて私の頭を数度ぽんぽんと軽く叩いた。 「な、待ちなさい、母さん……っ、そんな勝手に……っ!」 あ、しまった。そういえば父さんが蚊帳の外だった。 納得し合った母さんと私の隣で実に不満げな父さんに、母さんがやれやれというように腰に手を当て、片目を眇めてみせる。 「あのねぇ、貴方?みっともないわよ、最後の足掻きは。実は人のこと言えないってこと忘れてない?私と付き合い始めた頃のこと、まさか本気で忘れたわけじゃないでしょうね?」 「……う……っ!」 おお、父さんが遣り込められてる! なんてことを思いつつ、ついうっかり自分の現在の状況も忘れ「え、何? 何かあったの?」なんて興味津々に尋ねちゃう私は結構野次馬根性豊富だと思う。 でもそれに乗った母さんも母さんだ。しかも人の悪い笑みで私の肩を抱き耳元に口を寄せたりなんかして。 「そうなのよ、一寸きいてくれる?この人ったらねぇ。」 「あーあーあーっ! かかか、母さん! それは言わない約束だろう!」 慌てた父さんが、私からべりっと母さんを引き剥がして自分のもとへと引き寄せる。 すっとぼけた様子で、カラカラ声を立てて笑う母さんって……ちょっとあくどいかもしれない。 「あーら、そうだったからしらぁ? だってあんまり貴方がわからずやなんですもの。ついうっかり口も滑ろうってものじゃないの、ねぇ、七夜?」 や、そこは私に同意を求められても。 どうにも口が挟めずおろおろする私をよそに父さんと母さんの話はどんどん進んでいく。 「母さん、それは脅迫なんじゃないのか……。私への愛情が感じられない……。」 「いやぁね、ちゃんと貴方のことは愛してるわよ?」 「な……っ、こ、子供の前で何を言いだすんだ!」 自分で愛情が感じられないとか言い出しちゃったくせに、母さんに肯定された途端、父さんは見事な狼狽っぷりをみせた。 あー、もうどうしよう、この夫婦……。 そして。呆れながら見守ること数分。 「いいじゃないの。どうせ娘はお嫁に行っちゃうし、そしたら夫婦二人でのんびり仲良く暮らす事になるんだもの。」 押し問答の末、どうやら勝利の女神様は母さんに微笑んだようだ。 もっとも始まった時から父さんに勝機はなさそうだったけど。 「……当分嫁になんぞやらん……。」 かなり悔しそうに、低音で父さんがぼそっと呟く。 母さんが口の端に笑みを浮かべながら溜息を落として。 「そうね、もう少し先の話ね。さて、じゃあこの話はここまで。中に入りましょ。こんなところで朝から言い合いだなんて、ご近所迷惑も甚だしいわ。暖かいお茶でも皆で飲みましょうか。」 こうして母さんの脅迫……もとい、娘への信頼と父さんへの愛情で事態は一応収拾をみる事と相成った。 後には、リビングでソファに坐ってのんびりお茶を飲む父と娘。 母さんは鼻歌を歌いながら庭で洗濯物を干している。 暖かいお茶を飲んで、でもまだなんとなくぎこちない、かな。 父さん、ふらふらと視線をさ迷わせながら、明後日の方向をみたりなんかしてるし。 「――七夜……その、だな……なんだ……ほらあの彼……。」 「志筑?」 カップからお茶を一口。 ほっと息をついたところで、意を決したらしい父さんにたどたどしく話し掛けられた。 出来るだけ自然に、何気なさそうに答えたんだけど、さすがにまだ声が硬かったかも。 やや間があいて。 父さんが咳払いをひとつ。 「……そう、その志筑君……今度家に連れてきなさい。」 「え? いいの?」 まさか父さんからその申し出がくるとは。これはちょっと本気で吃驚。 「仕方が無いだろう。母さんにああまでいわれちゃ。」 あー、ああ。さっすが母さんの鶴の一声。 笑い出しそうになるのを堪えながら、お茶をもう一口。 「ん。一応近いうちに話してみる。」 なんだかだいぶ気分が解れてきた感じだった。 窓から差し込むお日様は暖かいし、お茶は美味しいし。 しみじみと幸せをかみ締めるってこういうことかも。 ゆっくりと息をついて目を細める。 父さんが窺うようにこちらをみているのに気付いたけれど、何も言わなかった。 なんていうか、私から言うべきことは全部言ったかなって気がしていたから。 「見合いの話、だけどな……父さんが悪かったよ。」 おずおずと、言い出しにくそうに父さんが言う。すまなそうに項垂れて、手にもったカップに目を落として。 そんな風に謝られたら、もう怒る気なんてなくなるってば。 「もーいいよ。でも二回目は本気で勘弁して。」 苦笑いに冗談めかした雰囲気をこめて、父さんの言葉を受け入れる。 そこで父さんが今度は物といたげに私を見ているのに気付いた。 ……んん? ……何か気になることでもあるのかな? あ、あれ?そういえば私、さっき勢いに任せて豪い目にあった、とかいっちゃった気が……? 「え、と……。かなり大変なことにはなったけど、私、大丈夫だったから。それより父さんは大丈夫?」 一応フォローになってる、かな?まさか襲われかけました、とは言えないし。 でも私より父さんの方が気になるんだけど。お見合い、結局有耶無耶の内に終わっちゃったし。 奥丹先輩が何か仕掛けてきたりとか……あ、ありえそうで怖い……。 「ああ、父さんのことは大丈夫だ。元々イレギュラーな打診の仕方で持ちかけられた話だったし、七夜は心配しなくていいよ」 私の尋ねたいことを正確に汲み取ってくれたらしい父さんが、安心させるように少し笑みを浮かべる。 「――そっか、うん、わかった。」 やっぱりまだ不安ではあるけれど、今は父さんの言葉に安心しておきたくて、私は素直に頷いた。 ふと、会話が途切れて。手持ち無沙汰になって、だいぶ冷めてしまったお茶を一口。 ――…て。うん、何? どうやら私をじっとみていたらしい父さんが、深くため息をつく。 「まだまだ子供だと思っていたのになぁ……。」 「――んん? ……うーん、と、私、子供だよ? 父さんの。」 ちょっとだけからかい半分に笑いながら言ってみる。 少し寂しそうに笑いながら、父さんが手にしていたお茶を一気に飲み干して。 ソファから立ち上がり、私の頭をがしがしと撫でるとリビングから出て行ってしまった。 父さんの言いたい事、なんとなくわかったけど。 私はまだまだ子供なんだよって、返すことは出来なかった。 「あらあら、父さんたら逃げ出しちゃったの?」 に、逃げたって……。 リビングに入ってくるなり、開口一番それですか、お母様。 「んー、多分逃げ出したわけじゃないと思うけど。」 すっかり中身の無くなったカップを両手で弄びながら、いきなりドアを開け放った母さんを苦笑いで向かえる。 その手には銀のお盆。上にはポットと新しいカップがひとつ。 「しょうがないわねぇ、折角二人きりにしてあげたのに。」 さっきまで父さんが坐っていた場所に腰を下ろした母さんが、新しいカップと私の差し出したカップにお茶を注ぎながら不満げに呟く。 や、父さんは結構頑張ってくれたと思う。 でも私の方がね、うん。 「ね、母さん。父さん、本当にちゃんと納得してくれたと思う?」 これが少し引っかかってるのかも。 父さんが渋々認めてくれたのも、結局母さんが助け舟を出してくれたからだし。 「大丈夫よ。さっきの玄関口の遣り取りだって、最後の抵抗だったんだから。ちゃんとあんたのこと信じてるわよ。」 カップを口元に運びながら、父さんのことなら全部お見通しよっていう雰囲気で。余裕綽々。 こういうところ、敵わないよなぁってつくづく感じる。 「ああ、そうだ。それにしても彼、いい男ねー。」 「ん? うん、でしょ?」 ぼんやりしていたところに、突然からかうような母さんの言葉。 特に意識せず、自然にするっと答えてからはっとした。 ……あれ、今わたし何言った……? 吃驚して思考が止まる。 でも自分の言葉を反芻する間もなく、母さんが、おっていうような不思議そうな顔をした後、にやりと笑った。 「我が娘も言うようになったわねー。」 「あーっ、今の無し! 忘れて! 結構一杯一杯なんだってば、これでも!」 「い、や、よ。忘れないわよー、母さん。」 は、恥ずかしー! ぼんやりしている時に話し掛けられると、意識がどっかにいっちゃってるから駄目なんだってばーっ! こ、ここはとりあえず、会話の方向性を変化させるべし! ええと、ええとー。 「あ! そうだ! そういう母さんこそ、結局父さんと付き合い始め頃に何があったわけ!?」 思いついた話題を手当たり次第。 でもこれは思わぬ具合に母さんの意表をついたらしい。 一瞬、黙り込み、あらぬ方向へ視線を流す。 「あー、ああ、あれね。――そんなの秘密に決まってるじゃないの、父さんと私の愛のメモリアル、そう簡単に教えられないわぁ。」 「……それって何だか微妙に誤魔化されてる? 凄く気になるんだけど。」 「そうねぇ、じゃあ――あんたが結婚する前日になったら教えてあげる。」 食い下がってみた私に、ふふんと鼻で笑いながら母さんが言い、さっさとソファから立ち上がる。 あ、逃げるつもり? そうは思っても、楽しそうに笑いながらキッチンに消えていく母さんの背中を大人しく見送った。 結婚かぁ……。 だけど、そんなのまだまだ先のことだよなー。 少しさめたお茶を飲みながら、苦笑いが漏れた。 |
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