ルール01.魔法が効かないことに、私こと桜侑那が愕然とすること
ならびに、柊一路の特異性について考察すること

14




結局私は二日の間、ばっちりしっかり寝込む羽目になった。

こんなに寝込んだのは、確か小学校に上がる前に一回あったきり。
だけどさすがにずっと何もせずベッドの住人と化していたお陰が、三日目の今日はだいぶ調子も回復してる。大事をとって休んだものの、寝てばっかりだと逆に具合が悪くなりそうなほどだ。

いい加減うとうとしているのも飽き飽きして、のそのそ起き上がってベッドの上に座り込み、ぐいっと伸びをする。背中がぱきっと鳴った。

「寝過ぎでだるーい」

あー、もう学校終わってる時間だ。

ベッド横にある机の上に置かれた時計は六時少し前を示している。
ちらりとそちらを見た後、肺の中を全部搾り出すような溜息をひとつ。

――さすがに明日は、行かなきゃ駄目だよねぇ。ガッコ。
うん、行かなきゃ、なんだけどさぁ。

頭の中に、ちらちら浮かんでくるのは思い出したくもない顔。
具合がここまでひどくなった原因の一端は、間違いなくアレの所為に違いない。

もしかしたら熱で幻覚を見て幻聴を聞いたんじゃなかろうか、とも思ったんだけど。

アレが本当にあったことだった場合。
生まれてこの方十六年。なんと人生初のカレシなるものがデキテシマッタことになる。
ものすんごく成り行き上だけど。売り言葉に買い言葉って気がするけど。

あああ、出来る事なら嘘だって思いたいっ!

しかも。次に会ったとき何事もなかったように振舞える自信が今ひとつ湧いてこない。

かさついた唇を舌でなめ、指先で触れる。

まだ、感触が思い出せるような気がした。
眇められる黒い目。力の込められた腕。すっぽり覆われるように抱きしめられた。

フラッシュバックする記憶。やばいな、また熱が上がりそう。

何が紳士的。どこが紳士的。紳士な男が聞いて呆れる。
あんな、キス。ケダモノで充分だ、あいつ――柊一路なんて。
そもそも柊一路が紳士だなんて聞いたこと無い。聞いたこと、なかった。

そう、私が柊一路について知っている事って実はすごく少ない。

寝込んでいる間につらつらと考えていて、そのことに気付いた。
正直、吃驚した。
柊一路に関して校内で流れてる噂や、家族構成、今までの人生遍歴も、ましてや柊一路本人に関する情報なんて以ての外。

何でこれまで柊一路のバックグラウンドに興味がわかなかったんだろう?
柊一路が提示してくれた情報にこだわって……違うな、柊一路が提示した情報だけを追いすぎて、外堀がまるで見えてなかったのかもしれない。

いつもの依頼ならもっと多角的に攻めていくのに、柊一路がかかわると、どうしてか周りがみえなくなってる。
魔法がうまく使えてないっていうのもあるかも知れないけど、それ以外にも外因がある――ような気がする。

――全体、何がどうなってるんだろう。何か、もしくは誰かが故意に邪魔をしてくれてるのは間違いないと思うんだけど……意図がみえないし、つかめない。
おまけに事態はずんずん頭の痛い方向に進んでくれてるし。
柊一路も何考えてるんだか。あいつの意図もさっぱり見えないし。

これはもう考えれば考えるほど。

「……学校、行きたくない」

学校には行きたいんだけど、会いたくはない。
引っ張り寄せた枕に、ぼふん、と顔を押し付ける。

「問題発言だな」
「そんなこといわれても本心で……な……っ!?」

なぜ独り言に返事が!

がばっと顔をあげれば、開いたドアにもたれかかるように、ありえない姿。
私が学校に行きたくない最たる理由。諸悪の根源。

ひ――柊一路!? なんでここにいるわけ!?

幻かと思って、ごしごし目を擦ってみたけど、やっぱりいる。なぜかいる。

「ゆーな、お友達の一路くんが来たわよー」

柊一路の後ろからママさんがひょっこり顔をのぞかせた。
満面の笑みで柊一路を指し示している。

お、お友達じゃない! ていうか、ママさん、人が来たならきたで先に知らせて、お願いだから……っ。
娘の意向も聞かず、どぉして通しちゃうの、この人はもう。

「それじゃ、一路くん、ごゆっくりね」

ちょ……ママさん、待って。どこ行く気ですか。
可愛い娘が悪魔と二人っきりになっちゃいますから。お願い、いかないでーっ!

そんな心の叫びも虚しく、くるりと身体を半回転させたママさんはさっさと部屋を出て戸を閉めようとしていた。
薄情者、とギリギリ歯軋りする私に背を向け、柊一路がすっと腕を伸ばす。
木製の扉が押し留められ、きしりと鳴った。

「――開けておいてください」
「ああ、はいはい、そうね、そうよね」

意味深にママさんがうふふと笑う。
恨みがましく見上げる私と柊一路を交互に見ると、ごゆっくりなんて言いながら摺り足ですすっと姿を消した。

しーん、なんて擬音が聞こえてきそうなほど、しーん。
俯く私と扉近くに立つ柊一路の間に流れるのは、実に白々とした空気。

「ええと……その節は、大変お世話になりまして。それで今日はどのようなご用件でしょうか」

私にしては、かなり低姿勢かつ丁寧にたずねたと思う。

それもこれも、だ。

あの後、保健室に入ったところで力尽きた私に鞄を持ってきてくれたのも柊一路なら、タクシーに乗って家まで連れてきてくれたのも柊一路だったりする、らしい。
なんで、らしい、なんてあいまいなことになってるかって言うと、前後不覚になってたから覚えてない。
不甲斐無い。実に自分が不甲斐無い。

カチカチと時計の秒針が刻まれる音がやけに大きく聞こえる。
耳鳴りすらしそうな沈黙の中、しばらく待ってみても柊一路は無言だった。

――こんだけ丁寧に訊いてるってのに無反応かい。

キリキリ奥歯を噛みしめ、文句の一つも言ってやろうと、ぎっと目を上げる。
半眼の柊一路がもの言いたげに私を見ていて――って、どこみてるわけ?

視線の先を辿って自分の胸元を見下ろすと、何故か肌が見えた。

あ、パジャマのボタン、上一個外れ……外れ?

「……っ!」

がっと両手でつかんで慌てて前をかきあわせたけど、多分どころか絶対手遅れだ。
みら、みら、みられた……っ!

「――微妙」

恐る恐る顔を上げた先で、小馬鹿にするように柊一路はのたまった。
感謝の気持ちが空のかなたに吹っ飛んだ事は言うまでも無い。そりゃもう、キレイさっぱり微塵も無く。

なんだそのフフンって表情は! しかもなんだ微妙って!
私だって寄せてあげればそれなりにある……と思う。
そりゃ、標準よりちょびっとだけ……ほんのちょびっとだけ小さいかもしんないけど――って、なんで私が凹まなきゃなんないのさ。
嗚呼なんだってこの男はこうもデリカシーってものが欠如してるかな。

布団の縁を握り締めた手の甲に血管が浮く。瞬間、がきっ、と嫌な音をさせて、枕もとの目覚まし時計が大破した。
駄目だ、我慢の限界突破。これ以上この男に長居されたら、わたしの部屋が廃墟になる。

「先輩、何の用ですか」

今度は微塵の感謝も感じることなく、暗にさっさと帰れと念をこめまくってとげとげしく尋ねた、が、もちろん効き目なんてない。
机の椅子をベッドの側に引っ張り寄せて座ってくれちゃってるし。清々と居座るつもりかこのやろう。

「とりあえずこれ。アンタの友達から」

布団の上にパスンと茶色の小さな紙袋が落とされ、ベッドの下に転がり落ちそうになったそれを慌てて両手でつかむ。

「友達って……那珂、ですか?」

柊一路が軽くうなずいた。

開けた紙袋の中には、プラスチックの容器が二つ。

あ、桃ゼリー。うん、やっぱり風邪の時は桃だよねぇ。
昨日、大丈夫かってメールが来てたから大丈夫って返信しといたんだけど、こういうときって人の優しさが身に染みるなぁ。

「常識的な友達だな」

私の手元を覗き込んだ柊一路がぼそりと呟いた。
どうやら夏目氏がチョイスしたこの間のお見舞い品を思い出してるらしい。

――まあ、でも類は友を呼ぶっていうし。
夏目氏と柊一路、お似合いといえばこれ以上ないくらいお似合いなんじゃない?
他人の行状を嘆くより、まずは自分の捻じ曲がった根性を直せって話よ。

嬉々としてゼリーを一つ取り上げる。
ふたの部分にくっついていたらしい白い紙が膝の上にひらりと舞い落ちた。

……? なんだろ、メモ用紙? 何か書いてあ……。

何気なく手にとった紙にさっと目を走らせて、凍りつく。

なにかの間違いかと確認の為にもう一度、今度はじっくりと読み返し、いよいよ思考がとまった。
ぎこちなく顔を上げた先では、私の様子を見た柊一路がいぶかしげに片眉を上げている。

「――先輩、ひとつ尋ねたい事があるんですけど」
「何」
「那珂に、何か余計な事、言いました?」
「さあ? 覚えがないケド?」

覚えがない? 覚えがないだと? しらっと嘘つくんじゃないっての。

「だったらなんで、どうして! ハツカレおめでとうなんてこと、那珂が書いて寄越すんですかっ!」

勢いで布団をひっぱたいたら、ゼリーと紙袋がベッドの下に転がり落ちた。
手の中にはぐしゃりと握りつぶされた、那珂からのメッセージ。

『ハツカレおめでとう。お見舞い品のおまけは、全快したらつかって。 PS.覚悟して学校くるようにね!』

衝撃が強すぎて熱がぶり返した気がする。この男だけはまったくどうあっても信用ならん……っ!

「内容は間違ってないダロ」

ぜいぜいと肩で息をするわたしとは対照的に、柊一路はきわめて淡々と動じた様子もなくさらりとほざく。

「間違……っ」

間違って、ない。まったくもって認めたくないケド、確かに間違っちゃいない。だけど。

わたしをヒキコモリにするつもりかこの男は。
これで決定的に明日も学校行きたくなくなった――って、まさか、那珂以外にも知れてるんじゃ。

まさか、ね。そんな恐ろしい事、まさか……まさか。

「あの、先輩……那珂以外の誰かに、わたしと……その……つきあうことになったって……言ってたりなんてことは」

認めたくない事実を自分で自分に突きつけるなんて自虐的な真似はしたくなかったけど、仕方ない。
背に腹は変えられぬと、厭々尋ねた私に、けれど柊一路は情け容赦の無い返答をした。

「質問はひとつまで」
「は?」
「そっちが言ったんだろ、ひとつって」
「……っ、それは言葉のあや」
「ききたいことがあるならそれなりの報酬、払う気があるんだろうナ?」

報酬? 報酬ってなに。
腕を組んで足を組んで、えらそうなことこの上ない柊一路を凝視する。

仮にもわたしは病人――ほぼ全快しているけど――だってのに、なんだこの態度。
そもそもこいつ、一体全体何しに来たの? お見舞いに来たんじゃないわけ?

まさかとは思うけど、依頼の経過確認の為に来た、とかいいだすんじゃないでしょうね。
そんなのさっぱり進んでないっつーのよ。

……ていうか――何で、立ち上がった挙句、近づいてくるの。

ぎっとベッドが軋って。柊一路の右手が布団の上にのる。

なんだろう、すっごく身の危険を感じます。

「あの、もういいです! 聞きたくないでデス、だから報酬は払いません……っ」
「あ、そう。別にどっちでもいいケド」

どっちでもいいってなに。しかも払わないって言ってるのになぜまだ近づいてくるんだ柊一路!

半ば本能的にパジャマの合わせをつかんだ手の上に、柊一路の手が重なる。
黒い双眸は伏せられているはずなのに、蛇に睨まれた蛙みたいに動けない。

「か、風邪、うつります……っ」

違う、何言ってるんだ私、そういうことじゃなくて。

「いい」
「いいって……先輩がよくても私は」

――よくありません。

文句を言うべく開きかけた唇は、ふさがれた。反射的にぎゅっと目を瞑る。

ゆっくりと重なってくる人肌。
この前みたいな荒々しさなんて全然無く、優しく、やんわりと。

壊れ物を扱うみたいに触れてきたと思ったら、瞬く間に気配は遠のいた。
ぱっと目を開けはしたものの、びっくりして動けないでいる私を、身を引いた柊一路はものといたげに見下ろして。

な、なんですか、いいたいことがあるなら、はっきりいってください。
身構える私に、でも、柊一路は何も言わなかった。

蛍光灯の下、前髪の間から覗く目からは何もうかがい知ることが出来ない。

不意に、違和感を覚えた。

……あれ? なんだろう? なんだかこう、ムズムズするっていうか、脳みそがこそばゆいっていうか。

無心に眺めてるうちに、はっとその正体に思い至った。

光の、加減? 今まで気付かなかったけど、柊一路の目の色、右側、真っ黒じゃない?

「……右目、が、茶色い?」

自分自身に確認するように呟くと、途端にものすごい勢いで二の腕をつかまれた。

「アンタ、それ」
「……い、たっ、な、なんですか、ちょ、腕、腕、痛いですってば」
「……わけじゃ、無いのか」

かすれたような声は、上手く聞き取れなかった。不自然に言葉を途切れさせ、柊一路が黙り込む。

切り込むような凝視。でも顔をそらすことが出来ない。

やっぱり蛇に睨まれたかえるよろしく冷や汗をじわりと滲ませて。
つかんだときと同じような唐突さでぱっと手が放された後は、全身の力が抜けた。

「いや、いい。なんでもない」

そっけなく云った柊一路が、鞄を持って立ち上がる。

なんだなんだ、なんなんだ、柊一路。意味不明過ぎて、ワケわかんないっての。
悪態をついてみても、全身の熱さが引かない。息をふっと吐き出すと、胸の動悸だけは、少しおさまった。

「――帰るんですか?」
「アンタが居て欲しいって言えば、いてやってもいい」
「とっととお引取りくださいっ」

針の先ほども隙間を開けずに答えたら、柊一路がくっと喉を鳴らした。
何がおかしいっての。もうさっさと帰れ。速やかに即刻、退去しろ。

「アンタの友達、なかなか面白いものくれてるな。でもそこに転がしておくのはどうかと思うケド?」

はあ? 面白いもの?
お見舞い品はゼリーでしょ? なんでゼリーが面白いの?

もののついでといわんばかりの一言に促され、ベッドから床を覗き込む。
転がっているのは紙袋と、桃ゼリー。それに紙袋から飛び出たと思しき、銀色の四角い……。

「……っ」

な、那珂っ!? なにしてくれるんだアンタは!

ばしっと手を伸ばしてそれを覆い隠す。
知ってる! 知識としては何か知ってるけど!
な、なんでこんなもん寄越すの、これならまだチョコレート粥の方が数十倍ましだ!

冷や汗を掻きながら、そろりと目線だけをあげる。
わたしの慌てっぷりを一部始終眺めていたのであろう柊一路とばちっと目が合った。

「使いたいなら協力するケド?」

だ、誰が使うか! ああ、違う、この先使うときが来たとしても、相手は絶対アンタ以外だ!
つか、淡々とそういうこというってどうなの。そりゃあ感情込めていわれてもやだけど。

「――微妙な乳はお好みじゃないんでしょ」
「別に嫌いだとはいってない」
「そうですか。じゃあ私は先輩の好み外ですね。微妙じゃありませんから」
「へぇ……それ、自分で言って空しくならないわけ?」
「なりません!」

は、腹立つ。悪かったわね、私の胸のサイズなんて、アンタには関係ないでしょうが!

「明日、ちゃんと来いよ?」
「言われなくても行きますから」

つっけんどんに答えてやると、開いたままの戸から柊一路がさっさと出て行こうとする。
……ん? ちょっと待って。さっきの、ちゅー。まだ質問に答えてもらってないってことは、もしかしてこのまま柊一路を帰したら私ってば報酬の払い損じゃない?

「ちょ……、ちょっとまってくださいっ」
「何」

慌てて引き止めと、柊一路は実にぞんざいな態度で振り返った。

「報酬払ったんだから質問に答えてから帰ってください」
「ああ。一つだけならいいケド」

……つまり私のキスは質問一つ分の価値ってことかい。

煮え立つ腸にぐっと耐える。
ここは大人の対応だ私。言い合いしてもいいことなんてないんだ私。

「えーと。じゃあ、ですね」

さて、なにを訊いてやろう。支払った分に見合う答えを引き出さないのも払い損になるしなぁ。
やや考えて、何とはなしに居心地の悪さを感じ、ふと柊一路の方を見た。

……ええと? すんごいガン見されてるような気が。

入口近くの壁にもたれかかって腕組をした柊一路が、どうしたことか眼光鋭く私を見据えていた。

自分の部屋なのに居心地の悪さ、最高潮。
わかんない、つくづく柊一路って人間がわからない。

考えがまとまらなくなるから、じっと見るの止めて欲しいわけですが。
ああ駄目だ。

「あのですね、夏目先輩とはいつからのお知り合いなんですか?」

幾つかの質問事項から、とりあえず一番手直に役立ちそうなものを選び出す。
本当はもっと考えたかったけど、それよりも柊一路のどこか責めるような視線からさっさと解放されたかった。

「――生まれたときから」
「は?」
「だから、生まれたときから。産院が一緒だ」

……へぇ、そんなに長い付き合いなんだ。
じゃあ夏目氏が柊一路の過去についても色々と知ってるってことは間違いないわけで――。
これって結構良い収穫じゃない? ちょっとそっち方面から攻めてみるかなぁ。

「多分アンタが考えてるそれ、無駄」

考え込む私に放たれた一言は、ばっさりすっきり切り捨てるようなものだった。
壁に凭れた天敵の姿をむっとして睨みつけると、理由を尋ねるより早く答えが返された。

「秋人は会ってない」

つまり、柊一路の捜し人と夏目先輩は面識なしってこと。
ちっと舌打ちしたら、そんなに簡単にいくならアンタに頼んでないカラ、なんて呆れ顔で言われた。

まあそうか。そっちの方は期待薄っていうのは残念だけど、柊一路に魔法が効かないほうは、何かつかめる可能性がないかなぁ。
たとえば幼児の時にとんでもない事があった、とか。宇宙人に攫われてみたとか、未知の生命体にとりつかれてたりとか、実は生まれた時は人じゃなかったりとか、そんな感じの。

「アンタ、なんか失礼な事考えてるダロ」
「……何のことでしょうか」

内心びくッとしながら、引き攣った笑みを浮かべる。
どうしてこうも何もかも見透かしているみたいな言動をするんだこの男は。
やだやだ、絶対彼氏とかにはしたくない――あああぁ、彼氏だったんだよ、そういえば。

なんてことだと落ち込み、頭を抱えたくなるけど、悔やんでも時間は戻らない。
今後はなるべく迂闊な発言はしないよう気をつけて、さっさと依頼を済ませ、馬鹿げた契約は早く解消するしかない。

「わかりました。ありがとうございます」
「――珍しく殊勝」

ぼそっと云われ、むっとする。
私は元来そういう性質なんです。そっちの態度が悪いから、ついついつられてるだけで。

「まあいいけどナ。魔女、さっさといつもの調子に戻れヨ。弱ってると――」
「……? 弱ってると?」

聞き返した私を眇めた目で見遣り、柊一路はふいと顔を逸らした。
なにその態度。だからさ、言いたい事があるならはっきりしろっての。

「――もういいんダロ?」
「え、はい。結構です、けど」

言いかけた言葉をそのまま放置する気満々らしい柊一路は、わたしの言葉を合図に壁に持たせかけていた身を起こした。

「あー、あの。ありがとうございました」
「何が」
「今回は色々とお世話になったので」
「別に」

別にって……随分と素っ気無くない? 別にいいけど。いいんだけど。
振り向きもしないって、どういうことよ?

彼女にした途端のこの態度って、釣った魚に餌はいらない、みたいなさぁ。
結局のところ、自分の思い通りにならないから私にちょっかいだしてきてたんじゃないの、こいつ。

むぅっと睨みつけていた後姿が視界から完全に消え、部屋の中にいつもの空気が戻ってくる。知らずにほうっと溜息が零れた。
すごく、緊張した。柊一路と二人きりなんてもう慣れたと思ってたのに。

そろそろと床に足をついて、ふと、手に握り締めているものがあることに気付く。

――そうだった、これ、どうしよう。

ほっとしたのもつかの間、手の中にあるものどうするか、途方にくれる。
掌に載っているのは銀色の四角い包装物。丸い輪の形に立体が浮き出たそれは。
所謂ところの、避妊具ってやつで。

当然の如く、風邪が全快しても使う予定なんて、ない。

明日たっぷり那珂に文句を言ってやろうと誓って、とりあえず机の引き出しに放り込む。
そろりと部屋の入り口に近づいて、座り込み耳を澄ますと、パタパタと小走りするスリッパの音がした。

「おじゃましました」
「あらあら、お茶淹れたのにもう帰っちゃうの?」
「すみません、お茶はまたご馳走になりに」
「そう? ごめんなさいね、たいしたおかまいもできなくて」

階下から聴こえるママさんの声に、お構いなんてしなくていい、と心の中で突っ込む。
じっと耳を済ませていると、ばたんと玄関の閉まる音がした。

――よし帰ったな。

確認した後部屋から出て一階に下りると、ちょうど居間に戻るママさんと鉢合わせた。

「あらあら、起きても大丈夫なの? ふふ、一路君、かっこいいわねぇ」
「ど、こ、が……っ」

くっきりきっぱり言い放って、けっとそっぽを向くと、ママさんがくすくす笑った。
あのねママさん、もう少し娘の身を案じてくれても罰は当たらないと思うわけよ。
男と二人っきりで病後の娘を放置するって親としてどうなのよ。

「それよりもママさん。アイツになんか余計なこと言わなかったでしょうね」

柊一路とママさんの声が聞こえなくなってから玄関のドアが閉まるまでに、ちょっと間が空きすぎてたような気がしたんだけど。

「ええ? 余計な事なんて言ってないわよぅ。信用ないわぁ」
「本当に? ほんっとうになんにも言ってない?」

じりじりと近づきながら詰問すると、ママさんが笑顔のままふいっと顔をそらした。

「……ママさん、正直に言ってごらん? なに、言ったの」

最後のほうは結構ドスが効いてたらしく、ママさんの口元が若干引きつった。

「携帯電話のね、番号とか?」
「一応訊くけど、誰の?」
「ゆーなの」

軽く個人情報漏洩か! 勘弁してよぅ。
がくっと肩を落とした私に罪悪感を感じたのか、慌ててママさんがパンッと手を打った。

「あ、ゆーな、今日は普通のご飯食べられそう? それともまたおかゆにする?」
「――普通でいい」

苦虫を十匹くらい噛み砕きながら返事をすると、じゃあママ張り切っちゃう、と軽い足取りで――スキップまでしながら――ママさんが台所に消えて。

階段の一段目にすとんと座り込んで、頬杖をついた。
肺の中の空気を全部使って溜息をつく。

何もかも全部、魔法ですぱっと解決できれば簡単なのに。

魔法が使えない私って、悲しいくらいにとことん普通の女子高生なんだよ。
万能なんかじゃもちろんないけど、それなりのスキルはあると思ってた。それだけに今回の件じゃ力不足を痛感してる。

魔法が通じない相手。
セオリーがまるで通じないんだから嫌になる。まったく色々思い知らせてくれるったら。

捜し人へつながる糸になってくれるかわかんないけど……。

とりあえず外堀を埋めてみるか。
やっぱりまず手始めは、柊一路の過去を知る人間――夏目氏……よねぇ。

よし、明日接触してみよう――って、いや、うん、明日……明日かぁ……。

「……那珂以外にはバレてない……わよね。そうよね、うん、そんなことナイナイ。無いに決定」

あははと乾いた笑いで自分を納得させ頷いてみたものの、不安はさっぱりなくならない。
それどころか口に出した事でより一層に増したというか……。

おまけに私ってばさ。認めたくないケド、どうにもこうにも……その、柊一路とのちゅーに普通に慣れてきちゃってるような。
だってさ、だってね、慣れもするってのよ。ここ最近、会う度毎で――って挨拶代わりか、柊一路よ!

今日だって、壊れ物にするみたいなキスしてきたと思ったら急に腕つかんでくるし。

「……もぉぉう、わからん!」

何か、足りない。今の状況を理解するためには、何かが決定的に足りてない。でも、何が足りない?
必要なものは何処にあるんだろう。とても遠いような、すごく近いような。

おばあちゃん。暖炉。紅茶。黄昏館。生け垣。

『――涙を』

涙? 涙。黒い目。宝石みたいな。誰か、泣いてた。ただ静かに声を殺して。
私は、約束を――。

「……約束?」

あれ。私、今――何を考えてたんだっけ?

ふと、記憶のどこかが軋んだ気がした。



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