ルール01.魔法が効かないことに、私こと桜侑那が愕然とすること ならびに、柊一路の特異性について考察すること 16 |
十五世紀。魔女狩りが大陸を席巻しようとしていた時代。 ある書物が二人の神学生により著された。 教皇インノケンティウス八世の「限りない愛情をもって要望する」という一文からはじまる教書を戴いたその本の名を、魔女の槌という。 異端審問から端を発した魔女裁判には、それまで明確なガイドラインは存在しなかった。 そこに、革命的な鮮烈さをもって齎された指南書――異端審問官でもあったドミニコ会士のヤーコプ・シュプレンゲン、ハインリヒ・クラーメルの共著である魔女の槌は、それ以後頻出することになる類書の模範となり、魔女裁判の方向性を決定付けるものとなったわけだけど――。 その内容ときたら空恐ろしいものだった。 魔女の異端論証からはじまり、妖術の方法から裁判の行い方までが仔細に書き記させ、特にその裁判方法ときたら嫌になるほど実践的で――つまり、考えるだに胸糞悪い代物以外のなにものでもない。 しかも、異端者であるかどうかグレーラインだった魔女を完璧な異端者とするべく論拠を重ね、決定的に結論付け、定義づけた魔女論の書であることは間違いなく、審問官たちの手に行き渡った後は、長い間恐ろしい威力を持って老若男女を断罪した。 欲の犠牲になった多くの罪なき人々を、だ。 「へぇ、やっぱり知ってるんだナ」 息を呑む私の前で、ぬけぬけと柊一路が言う。 知ってるんだなってアンタ。そりゃ知ってますよ、ええ知ってますともさ。 その時代に生きてたわけじゃ勿論ないけど、伝え聞いてる話しは、どれもこれも悲惨で凄惨、酸鼻を極めるようなことばかり。北風が吹きぬける寒い夜、おばあちゃんから語られたそれらは昔話というには余りにも生々しくて、暖かい部屋の中に居るって言うのに、震えるほど怖かったんだから。 フェンスの傍に並び立つ木々が、ざわざわと葉を揺す。 ゆらり、とたわんだ影が伸び、足元が薄く翳る。 まあ魔女だもんナ、と興味が失せたと言わんばかりに柊一路が呟き、すっと胸のうちが凍えた。 「先輩は――信じてるんですか?」 尋ねた声は、思ったよりも随分と硬い響きを帯びていた。 身体の末端が冷やりとしている。 一拍置いて「何を」と聞き返してきた柊一路は、まったくもって淡々としてる。 「魔女の槌に載ってる様なことが、私に出来るって本当に思ってるんですか?」 「まあ、アンタが魔女っていうのが本当だったんだから、そういうこともできるんじゃないの」 ぞんざいに肩を竦められ、少し苛っとする。 ……なんつーかですね。淡々としすぎじゃないの、これは。なんて思うわけですよ。 「怖くないんですか?」 ――私のことが。 今更、かもしれない。でも、多分、普通の神経を持ってれば、あまり傍に近寄ろうとは考えないもんだと思う。 柊一路にのっぴきならない事情、人捜しっていうものがあるとはいえ、だ。 「怖い? まさかとは思うケド、アンタのことを? 俺が?」 これでもかというほど訝しげで不審そうな柊一路に、こくりと頷く。 ……だってね、さっき柊一路が言った性的不能云々のところはさ、ほら、ちょっとネ? ちょーっとだけネ、心当たりがなくもないんだよね。 しかもさ。ターゲットは目の前の貴方でした、なぁんてこと――いえない、いえるわけがないんだけどさ。 真実できることも含まれている以上、出来ないなんて嘘はいえないし、出来ないと否定しない私を、この人は怖く思わないのかな、と。 「馬鹿らしい」 「……は?」 「馬鹿らしいって言ったんだヨ。アンタを怖がる? 俺が?」 小馬鹿にするようにはっと鼻で笑った柊一路の人差し指が、私の鼻先に突きつけられた。 「ありえないダロ、こんなお間抜け魔女を怖がるなんて」 お、お間抜け魔女? お間抜け魔女!? 依頼完遂率百パーセントを誇ってた私に向って、お間抜け魔女!? 私がダメダメなのはアンタという特異な存在の前でだけで、普段はもっとびしっとした魔女っぷりをコレでもかというほど体現している――っていうのはちょっと言い過ぎかもだけど、少なくとも優秀だって自負があるっての! ああだけど。悲しいかな、私を怖がる柊一路なんてものも……優しい柊一路と同じくらい、想像できないもんではあるわけでね、これが。 「ああ、怖がらせたいって言うなら、今度、空飛ぶところとかみせてヨ」 なんで、空飛ぶとこ? 別に見せてもいいけど、ぱっと一瞬で消えるだけだから面白いもんじゃないし、そんなにおどろおどろしいものでも……ん? ふと、中世に信じられていた典型的な魔女の飛行姿が、鮮明にくっきりと、脳裏に浮かんだ。 サバトに赴く際、特別な軟膏を塗って箒や山羊に跨り飛び上がる魔女の姿。中世に多く描かれたそのモチーフの絵では大体――。 「……先輩、私、すっぱだかで箒やら山羊やらに跨ったりしませんよ?」 「なんダ、それは残念」 さして残念でもなさそうに柊一路がいう。 やっぱりかいっ、と憤りを込めて、突きつけられた指先をばしっと右手で振り払った。 魔法が効けばここでちょっとした悪戯の一つも仕掛けれてやれるってなもんなのに、おおおぉなんという口惜しさッ。 どおぉしてこの男には効かないのかなぁ私の魔法。 まさかまさかとは思うけど、敬虔に神様を信じてるから、なんてオチはないよねぇ? こっそり修道士です、とか。 「ナニ」 「――いえ」 じとりと凝視していた柊一路からの一瞥を受け、ぷるぷると首をふる。 うーん。なんていうかな、柊一路に限ってそれはないような気がする。寧ろ、神も悪魔も信じてないでしょアンタって感じがビシバシする。 やっぱ別に原因がある、んだろうなぁ。その原因ってやつがわかれば苦労はないんだけどねぇ。 「柊先輩……とりあえず、帰りませんか?」 私の目線より大分高い位置にある柊一路の顔を、見上げた。 こんなところで時間を潰してても仕方ないし、夏目先輩からの情報をちょっと纏めて裏付けとりたいってのもあるし。 それに、私がサクサクと先に歩いてけば、柊一路を引き離せるかも。 そうだよね、さっさと早足、寧ろ駆け足で帰れば一緒に帰ってるなんて思われず、問題ないじゃない私。よぉし、偉いぞ私。 そうとなれば柊一路の答えなんてものを待つ必要も無く。 さっそく実践あるのみと、気合を込めて右足を大きく踏み出す。 意気揚々と腕を振ろうとした私の耳に、ちりん、と、かすかに空気を震わせる涼やかな音色が聴こえた。 ――ん? えーと、鈴の、音? こんなとこで? や、でも。聞き間違い? 駆け出す寸前といった不自然な姿勢で、くるっと首を巡らせ右を向く。振り向いた先、植え込みの影に、黒々とした細長いものがちらり、と。 「猫」 「え? ……っ、だぁっ!」 惰性で左足を踏み出して、いつの間にか私の行く手を塞ぐように迫っていた柊一路の胸に、顔面を嫌というほどぶつけた。 逃げ出そうとしていた私の行動をしっかり把握したうえ、防御までしたようにみえるのは気のせいかな気のせいだよね、と思うとしたのに。 「逃げるナ」 なんて、ぼそっと呟かれた暁には、甘い考えは無残に霧散、散りじりに。 それにしたってさぁ、やり方ってもんがあるでしょうが! この男は何故こう……っ。 私の鼻をよっぽど低くしたいのか柊一路! 「黒猫だったナ」 「ああそうですねっ」 鼻を摩りながらやけくそ気味に答える。 私がみたのは多分猫のしっぽ。どうやら柊一路も気付いてたらしい。 「なんですか黒猫だから不吉とでも言うつもりですか。でも中世キリスト教世界で考えなければ黒だってそんなに悪い色じゃないですよ。たとえば古代エジプト神話では」 「地母神イシス――死者の守護神であり豊穣神、太陽神ホルスの母はしばしば黒で表現された、か? 黒は大地の女神に結びつく事が多いからナ」 畳み掛けようとしていた勢いを完璧に止められた。挙句、当然のように柊一路がすらすらと喋りだし、半端に口を開いたまま呆気にとられた。 ……人の台詞横取りすな。つか、なんでそんなこと知ってる――って、そうか、お父さんが考古学者って夏目氏が言ってたっけ。かえるの子はかえる、ね。 私の知識だって、大部分はおばあちゃんの受け売りだもんね。 「別に黒も黒猫も不吉だなんて思ってないケド」 「けど?」 「黒猫には嫌な思い出がある」 「へえ、因みにどんな?」 私としては、既に猫の気配のない青々とした植え込みを柊一路があんまりじっと見ているものだから、純粋に好奇心から訊いてみただけだった。 んが、柊一路ときたら、わざとらしく溜息をつき首を振って、おまけに、救いがたいというような目まで向けてくるという素敵な反応を見せてくれた。 ちょっとまてい。 「なんですか」 「別に」 素っ気無く、全部を切り捨てるように。 額に掛かった髪をかきあげ、柊一路は言っても無駄だといわんばかりに、私に背中を見せる。 なんだかなぁ、こんなんばっかだな、ここのところの私と柊一路のやりとりって。 不毛だ、実に不毛だわぁ。 ああ空はこんなに青くて、緑は燃えるように芽吹いているっていうのに、私ときたら――。 「……え」 空を仰いだ私の目にキラリと何かが光って見えた。 それは妖精とか天使とかそんなファンタジックなもんじゃなくて――。 「せん、ぱいっ」 咄嗟に。柊一路の背中を力一杯突き飛ばした。 間一髪、私の腕の横を人の頭二つ分ほどは優にある陶器の花瓶がすり抜ける。 粉々に飛び散る破片。水しぶき。舞っているのは赤い花弁に、みずみずしい緑の茎。 ご丁寧に中身入りってわけ? 暢気に考えていたら、欠片の一つ、掌ほどの大きさがある鋭利なそれが、真っ直ぐに私の顔めがけて飛んできた。 ――あ、やばっ、間に合わな……っ! 避ける事も、あまつさえ呪文を唱える事すら出来なかった。 体が固まったように動けない。 だけど。一撃で命を奪われるなんて事態にならない限りは、なんとかなるって頭のどこかでは冷静に考えていた。 大丈夫、多少の怪我なら跡すら残さず――。 目の前が、真っ暗になった。精神的にってワケじゃなく、物理的に。 さっと黒い影に包まれて、途端、何がどうなったのかさっぱりわからなくなった。 え、えええぇ!? ちょっとなに! なんにも見えない! 見えないなったらみえないぃぃっ! 「……っ」 頭に強い圧迫感。大きなもの包まれている感触。直ぐ近く、数センチも離れてないんじゃないかってところで小さな舌打ち。 続けて、花瓶なんて比じゃないほどの粉砕音が、した。 |
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