ルール01.魔法が効かないことに、私こと桜侑那が愕然とすること
ならびに、柊一路の特異性について考察すること

20




緑が濃く香る木々の中、足音を立てず悠々と歩く黒猫の、長く長く伸びるスレンダーな影。
結構な太さを持つ幹の脇にひたりと張り付いた私の視界で、艶やかに黒い尻尾がふりふりと左右に揺れていた。

ふむ、手掛かり発見……なんだけど。なんとも暢気だわぁ、付けられてるなんてミジンコ程も思ってなさそうってどうなのそれ。

――あ、もしや本当にただ散歩してるだけの野良猫とかだったりして。

冗談半分で考えて頭を抱えたくなった。そんなオチ嫌過ぎる。
ここまで追ってきた挙句にそんな顛末だなんて本気で泣く、間違いなく泣く。それも号泣。

ああでも私が泣いたとしても、柊一路はきっと鼻で笑って一蹴する。

脳裏には、はっきりくっきり高笑いする柊一路が浮かんでいた。
……いや実際、高笑いなんぞはしないだろうけど。皮肉気に口元をゆがめるだけだろうけど。
ぐあああ、そのほうがむしろ結構むかつく、かも……っ。

私の涙なんて、あの男はきっとどうとも思わない、っていうか、ここぞとばかりに馬鹿にする。
あまつさえ。ぐりっぐりと傷口に塩を塗りこまれた挙句、放置されそうな予感がてんこ盛りだ。

ぎりっと奥歯をかみ締める。

ホント私、なんだってあんな男と関わってるんだろう。はあぁぁ……と、情けないため息をぐっと我慢し、実際には毛ほどの音も立てずに、するりと幹の影から抜け出した。
足の裏には何の衝撃もなく、大胆に一歩を踏み出しても、足音はまったくしない。術の効果に満足しながらさらに一歩。

私の靴裏から地面までの間には、人の手が楽に入るほどの空間が作られていた。

幾ら静かに歩いたとしても、相手はにゃんこ。早晩気づかれることは必至だろうなと、事前に手持ちの道具で小細工なんぞをしてみたわけだ。
歩くと若干不安定になるのがアレなんだけど。慣れるまでちょっとかかるのが難点なのよねぇ、これ。

そうはいっても、さくさく追わないと――つかずはなれずって結構難しい。

見失ったりしたら、それこそ柊一路からの嫌味がてんこ盛りに待ってる、はず。考えただけで胸焼けしそうだ。うん、絶対、絶っ対、それは避けたい。
慎重に慎重を重ね、けれど見失わないように黒猫を追いかける。
あたりの景色はだいぶ変わってきていた。
より木々が密に、息苦しいほど緑は濃く――これって、かなり奥まで入り込んだんじゃない? この先って、何かあったっけ? 

入学前に見た学校案内に、生徒の活動内容的な項目でここの事も載ってたと思うんだけど……そもそも、こんなに奥行きがある場所だった、け……?

木々の間を実に器用に迷うそぶりも見せず進んで行く黒猫は、辺りが暗くなってきた為か姿が見分けにくい。

逢魔ヶ刻――っていうんだよね、こういうの。

昼と夜の境界。怪しいものが現れだす時刻。
するすると滑るように移動していく黒猫のぼやける輪郭が、だんだん黄昏に溶け出しているような……。

こくん、と喉が鳴る。あ、あのにゃんこ、ちゃんとこの世のものでしょうね?

い、いやいやいや! 大丈夫、だってあの神経太そうで繊細さの欠片も持ち合わせていなさそうな柊一路にさえ、見えてたんだし。
あの図太さで、この世ならざるものが見えるなんてことは絶対ない! ……ない、と、思う。

あ、あれ? なにかきょろきょろしてるっぽい? あ、立ち止まった。

黒猫がちょこんとお座りをしているのは、たっぷり葉が茂った大木の下。重く垂れ下がった枝が猫のすぐ上にまで降りてきている。
宵闇に包まれつつあるそこで、長い尻尾をひと振り、ふた振り。

なぁにやってるんだろ、なんにもないのに――ん?

突然。まさしく突然。くるり、と黒猫が。私が身を潜めている木陰を振り返った。

え? は? え゛!?

ちょ……っ、ちょっと待って。なんかこっち、みてる? ええっと……まさか、まさか、気づかれてる、とか?

にゃあーん、と耳障りのよい一鳴き。出てきなよって、言ってる? ははは、いやまさか。
でも。薄い闇に光る縦長の細い瞳孔が、にやり、と確かに笑った。

こいつ……。

ああ、そうか、そういうことかぁ。なぁるほど、ね。納得。わかってみれば、なんとも馬鹿馬鹿しいじゃないのよ。

「――根性悪いわねぇ。気づいてたんならもっと早くに仕掛けてきなさいよ」

隠れていた幹の影からするりと抜け出る。黒猫まで後一歩というところまで近づいて、思いっきり尊大かつ不機嫌に声を掛けた。

「一応、お前の出方をみてやってたんじゃねぇか」

かわいらしい外見にそぐわない、低い声。口調も実にかわいくない。

一応、この世ならざるもの、っていう範疇に入るんだろう。けど、ぞっと背筋が凍るような幽玄のそれじゃあない。

間違いなく、誰かの使い魔だ。

そんな匂いが微塵もなかったから可能性としては除外していたんだけど、さっきの根性捻じ曲がってる感がすけすけのニヤケ笑いで確信した。
前にも何度か使い魔には会ったことがあるけど、どれもこれも結構な根性悪ばかりだった。だから私は持ってない。

に、しても、だ。ここまできれいさっぱり匂いを消せるなんて――。厄介だな、これは主人が相当強い力を持ってるはず。
このあたりでそんなに力の強い魔女はいないはずだ。否、今まではいなかった。

「それにしてもなー、思った以上にひよっこ魔女だよなー」

キシシシ、と牙を見せて、黒猫がおかしそうに笑う。ひよっこ?

――むか。

なんとも言いがたい不快感が腹の底からこみ上げる。

「気づかれてないと思ってたんだろ? いやあ、未熟ってこえぇよなぁ」

ふふん、と言いたげに胸をそらし、黒猫が得意顔で言い放つ。

――むかむかっ。

胸の辺りまでせりあがってくる不快感に思わず眉がぴくりと痙攣した。

「間抜け面で鰹節でも差し出してきたら引っかいてやろうと思ってたのによー、まあ、さすがにそこまで馬鹿じゃあなかったな」

にやにやにやと、緩んだ口元に前足を当て、黒猫が実に小ばかにした表情を浮かべる。

――むかむか、むかっ!

無言で。それはもうまったくの無言で腕を振り上げた。力いっぱい振り下ろしざま、手の中に握っていたものを使い魔に向かって投げつける。
さっと避けられるのは、予定のうち。あらかじめ蓋をはずしておいた小瓶から、真っ白な粉が撒き散らされる。
空になった瓶が湿った土の上に落下してボフッと湿った音を立てた時には、黒猫の生意気さはすっかり鳴りを潜め、かわりにたいそう悶絶していた。

ふははは、馬鹿め! 油断するからそういうことになるんだ!

「……ぶ、は! なん、だ、こりゃ!」
「痺れ薬」
「あ゛? 痺れ薬?」

ぺぺぺっと舌を出し、顔の周りで前足をパタパタさせている。心なし、目の端には涙が溜まっている。

……ちょっと、ほんのちょっっっとだけ、かわいい、かも……。

い、いや。惑わされるなっ。ここは心を鬼にしなければ! 外見は可愛いにゃんこでも、中身は性悪! 極悪! 人をだますことをなんとも思わない魔物なんだから。

とにかく捕まえないと。柊一路のところにつれていけば、何かわかるかもしれないし。
だから。これは決して、つやつやの毛並みを触ってみたいなーとか、なでてみたいなーなんていう邪な気持ちじゃない。うむ。

慎重に腕を伸ばす先には、まあるい頭。そっと触れる。つるりと滑るような毛並み。じんわりと染みる体温。

「ばあああーか! こんな手にだぁぁれが引っかかるかよ!」

――がばっと顔を上げた黒猫が、くわっと牙を向いた。

嘘! 効いてないの!? 特製の痺れ薬だったのに!

あわてて手を引っ込める。使い魔が身を翻して駆け出した。が、若干、というか結構動きが鈍い。
いまのは虚勢か。ばっちり効いてるんじゃないのさ。おどかさないでよ、もう。

となれば。このまま力ずくでひっ捕まえる!

「まて……っ、この性悪使い魔ーっ!」

叫んで、思いっきり腕を伸ばす。中指の先が黒猫の尻尾に触れた。そのまま力いっぱい握り締める。

にゃぎーっ! と、叫び声をきいたような気がした。
けれど。ぱんっ、と何かがはじけるような音のせいで、針を刺されたように鼓膜が痛み、それどころじゃなかった。

痛みに顔をしかめている間に、ぐん、と体全体が前に引っ張られる。

……っ! ……やば……っ! 足場! 足場が不安定で踏ん張りがきかない……っ、足元の術、まだ掛けっぱ……!
どうせ気づかれてたならざっくざっく足音させて歩いてやればよかったあああっ!!

この感じはまずい、絶対的に、まずい! 焦っても、こうなるともうどうにもできないんだけどっ! ええいくそッ!

一気にこみ上げる後悔に苛まれ。自分の迂闊さに歯噛みする。視界が真っ黒に染まり、背筋にぞわりと怖気が走る。
まるで竜巻に飲み込まれたみたいに、全部がもみくちゃにされているようなひどい感覚。

そして。胃の底からこみ上げる吐き気をこらえ、ふと気が付いた時、わたしは一人、薄暗い部屋の中でへたり込んでいた。

ここ、どこよぅ……。

「……、やら、れたぁ……」

――強制転移。

聞いた事はあったけど、まさか自分が喰らうことになるとは。

うう、胃がむかむかする。

口元を片手で押さえ、ふらりと立ち上がる。あたりを見回しても、使い魔の姿はなかった。
転移する途中で、私を振り落としやがったらしい。多分あいつもそう遠くまでは飛んでないと思うけど。

で、最初の疑問に立ち返る、と。どこなのよ、ここ?

人の気配、なし。罠が仕掛けられている気配、なし。ひとまず差し迫った危険は、なし。
窓――も、なし。出入り口は、ずいぶんと凝った彫刻の施されている重厚な木の扉がひとつのみ。

部屋の中央には蔦模様の入った毛足の短い絨毯。その上に置かれた机一式は、年代モノ。
机上のランプが弱々しくついているから、かろうじてあたりの様子がうかがえている、と。

入り口のある壁を除いた三方を囲んでいるのは本棚。私が侵入した事により舞い上がった埃に古紙独特のにおいが混じってる。

書斎、だよね。

よろよろと机に近づくと、私の両手で一抱えほどもありそうな大判の書物が読み止しのまま広げられていた。
覗き込んでみたものの、まったく読み解くことはできない。

隠喩と暗号で書かれているこの手の書物には、正当な知識と著者の意図を汲む必要があるから、それなりに時間をかけないことには読めるはずもなくて当然は当然なんだけど――。

「……やっぱそういう展開なわけか……」

がっくり肩が落ちる。
魔道書があるってことは、この部屋の主はその手の人ってことで、ああああ、厄介ごとの予感満載……っ。

――ん?

絨毯の上に溜まっていた埃が、ふわり、と足首を掠めて舞い落ちた。
いつの間にか空気が流れている。扉が――開いてる? さっきは確かに閉まってたのに。

「来いってこと? ふん、ずいぶん親切じゃないの」

どの道、出入り口はひとつしかない。選択の余地なんて、ないっつの。

踏みしめた床が軋む。どうせ行動は筒抜けなんだろうし、遠慮する必要はこれっぽっちもない。
扉を限界までばーんと開き、薄暗い廊下へ出た。長い長い通路が左右に伸びている。

あー……おっそろしく先が見えない。どこまで続いてんの、これ。目晦ましか、はたまた空間を歪めでもしてるのか。

「おーい、ひよっこ。こっちだ、こっち」

だぁれがひよっこか!
ぐわっと振り向いた右手側、暗い空間の中にぼんやりと明かりが灯った。ひょっこりと尻尾が揺れている。

「出たな、性悪猫」

ケケケッ、と小馬鹿にしているに違いない笑い声。ゆっくりゆらゆら、からかうように黒猫の背中は遠ざかっていく。

ついて来いって? 上等。

乾いた唇をひと舐めし、一歩を踏み出す。光源があるわけでもないのに、薄ぼんやりとはいえ足元だけはどうにか判別できた。
年季の入った木製の廊下は、違和感なく足裏にしっくり馴染む。懐かしい――……、ん、え? 懐かしい?
う、ん? 学校の木造校舎とかと雰囲気が似てるから、かな?

冷やりとした空気がゆるく吹き付けてくる。鈴の音がちりりん、と遠くから響く。ぼんやりしていると置いてくぞってことらしい。

やや歩調を速め、あることに気がついた。ちっと舌打ちしそうになる。

そういうこと、か。厄介――だな。

速度を上げても追いつくことはできない。そのくせ、少しでも遅く歩くと、途端に離される。
どうやら、この廊下自体に術がかけられてるらしい。

とりあえずは黙々と追うしかないわけだけど――延々、延々、どこまで続いているのか果てがない。
空間が歪められていたら物理的な終わりは実質ない、なんてことになるわけで。

こんなところで永久ループなんて、ぞっとしない。

そもそも私ってば、そんなに肉体派じゃないの。どっちかっていうとインドアなの!
外が嫌いなわけじゃないけど、がっつりトレッキングとかは勘弁して……。

「……とっ!」

惰性で進めていた右足が、ぐにゃりとしたものに突っ込んだ。けつまずきそうになって、あわてて壁に手をつく。

あ、あっぶないっ、なにこれ、布? いや、毛糸――カーディガン? ずいぶんちっちゃいサイズだけど子供用?

何気なく手に持ったそれを拡げ、ん? と首をかしげる。

この幾何学模様――守護紋? ……すごく見覚えがあるっていうか、見覚えがあるどころじゃないっていうか。
これってもしかして――わたしが小さい頃に持ってたものじゃな、い?

……そうそう、絶対そう! おばあちゃんがくれたカーディガン! 手編みだったし、間違いないっ。

でもなんだってそれがこんなところに落ちてるの? あ、しかも破けてる。

肩部分を持って左右に広げたカーディガンは、しげしげ眺めると腕の部分が大きく裂けていた。
引っ掛けて、ほつれた跡みたいだけど。でも私、子供の頃、そんなにやんちゃじゃなかったよなぁ?

んんんー? とさらに上半身が傾くくらい首をかしげていたら、きししし、と小馬鹿にするような笑い声が背後から聞こえた。

さっきまでいく手にあったはずの明かりが、ふっつりと消えている。

……なんで、いつの間に背後に?

「ちょっと待っ……!」

くるりと身を翻しざま、足元をすくわれた。まさに足元をすくわれた。私の立っていた床板が後ろからべろん、と捲れ上がり――。

今度こそどうする間もなく、ばったーん、と盛大にすっころんだ。
可愛さの欠片もなく、轢かれた蛙もかくやという豪快な転びっぷりを晒し。もちろん助け起こしてくれる人も、ない。

「……こんのおおおおお、くそ使い魔ああああああッ」

腹の底からどろんどろんと込上げた私の呪詛が、むなしく四方に轟く。

くっ、ありえない、ありえなーいぃぃ! 遊ばれてる、私ってばあの使い魔に絶対遊ばれてる!

八つ当たりだとわかっていながら、床を力いっぱいひっぱたく。
ちりん、と金属の澄んだ音がした。

……え?

がばっと顔を上げる。私の指先より少し先で、ほんの僅かに何かがきらりと光った。じっと眼をすがめる。

「嘘」

ぽろりとこぼれた声は、自分のものとは思えない程乾いていた。唖然とした。愕然とした。

ありえない。これがここにあるなんて。これは本来、指に納まっているべきもので。
まるで意味がわからない。呆然としながら何とかその場に座り込む。

親指と人差し指で転がっているそれを掴みあげ、眼の高さに持ち上げる。
きらりと鈍く光った小さなそれは――。

「なんでこれが、ここにあるの」

ぽかんと半口をあけたまま、すかんと力が抜けた。

本来なら柊一路の指に納まってなきゃいけないはずの、指輪。

だって、守護の結界、解いちゃってる。いま、柊一路は完全に無防備、だ。
いや、守護の結界云々の前に、この指輪がここにあるってことは……まさか……。
あれだけ容赦のない攻撃を仕掛けてきた相手だ。

背筋に悪寒が走る。最悪の事態を想像して、ぞっと、した。
体がこわばって、指輪をもつ手が震える。

ふるふるっと、頭を振る。手の中にぎゅっと指輪を握りこむ。

落ち着け私。あの柊一路がそんなにあっさり、どうにかなるなんてこと、ない。

それに、おかしい。そう、おかしい。

嵌められた指輪を、本人の同意なく外すのは難しい。守護に特化っていうのは、そういう意味も含め、だ。
他人が間単にはずしてしまえるようじゃ、それこそ意味がない。けれど、指輪は綺麗なままだ。無理やり奪われたにしては、綺麗過ぎる。

これ――もしかしてとは思うんだけど。すっころんだ弾みで、私のポケットから転がり出たんじゃないだろう、か。

「……あ」

あの時? 黒猫がいると、私を引き寄せた、あの時。ポケットに滑り込ませた――?

このごろのあれこれを考えて、ポケットの中にはずいぶんと雑多に物を入れてある。指輪もひとつかふたつは入っていたと思う。
だから。指輪がひとつ増えたとしても、気づかなかった、んだ。

……柊一路……、なにを考えてるのよ、あの男!

でも、そうなら。柊一路が自分で外したっていうのなら……むしろそっちのほうがマシだ。

とにかく。そう、四の五の考えてないでここから出なきゃ……っ! 頼むから、無事でいて! 無事でいてよ、柊一路!

自分でも不思議なくらい、動揺してる。焦っても事態が好転するわけもないし、むしろ悪化させるかもしれないっていうのに。
心臓がバクバクする。全身にじとりと冷たい汗が滲む。

嫌な奴だって思う。いけ好かないし、性格悪いし、口も悪い。

でも――でも、柊一路が怪我をしたとき、怖かった。

だから。あんな思いは、もう御免だから。

それだけ。それだけなんだから、柊一路! 断じてアンタの心配なんて、してるわけじゃあ、ないッ!



Back ‖ Next

魔女のルール INDEX



TOP ‖ NOVEL



Copyright (C) 2003-2010 kuno_san2000 All rights reserved.