一章 草原


「貴方という方は!!どうするんですかぁっ。よもやガルベスでの月姫の地位がどれ程のものか知らないとは言わせませんよっっ」

青年の声、だと思った。まだぼんやりした意識ではあるが、かなり困惑していることも、その原因が自分であるこということも理解できた。

「……まあ、そう怒るなよ。」

聞き覚えのある声。こちらもまだ青年のものだ。だが、誰のものか思い出すことが出来ない。
そもそもここはどこで、自分は何故ここにいるのか、という疑問が月姫の中に湧いてくる。

それに、鈍く痛む腹部。軋む身体。
何故、と自らに問いかける。

だが、その答えは自らではなく困惑した青年の声により齎された。

「怒っていません。呆れているんですっ。よりにもよって月姫をさらってくるだなんてっ!!」

その瞬間。少女は全てを思い出していた。勢いよく飛び起き、自分が真白な幾重もの布の上に寝かされていたことを知る。かなり大きめな天幕の中であったことも。

だが、それらのことよりも自分の側にいる2人の男に注意を向ける。そして、おもむろに口を開いた。

「私は月守りの塔に住まう15代目の月姫。私の身分を知った上でのこの扱いは我が国ガルベスに対する宣戦布告ともなり兼ねませんよ。貴方方の祖国に迷惑を掛けたくなければ即刻私を解放なさい。」

月姫がそう言い終えた後。自分を攫った男は楽しげに笑い、もう一人の青年は深く深く溜息をつくという反応に、やや幼さの残る少女は戸惑いを感じていた。



その頃。ガルベスの王都シュリエスでは国王会議が開かれていた。

物々しい雰囲気の中、数人の重臣と将軍、そして国王がいた。

「月守りは何をしておったのだっ」

国王の声が議会場に響く。壮年の逞しい体から発せられたその声に、まだ歳若い月守りの少年らしさを残した顔がさらに蒼白となる。

「申し訳ございませんっ。……しかし、月姫が森に降りられる時は月守りといえどもお供してはならぬというしきたり。私が塔から出たときにはすでに…」

悔しげに唇を噛締める少年から国王は苦々しく目を逸らす。静寂が一同を包む。……そして、国王は重臣たちに向けて言い放った。

「何としても15代目月姫、可流紗=ユライを捜し出せ!私の前に連れてきた者には賞金を出す。攫ったものに関しての生命は問わんっ!!」

勅命は下され、その日の内に街々には御触れがだされ、伝令が走った。
この一声により、ガルベスはもとより諸外国からの賞金稼ぎが血眼になって一人の少女を捜し始めたのだった。



風が渡り、雲が流れる。
一面に敷き詰められた鮮やかな緑が緩やかにそよぎ、ところどころには羊を放牧する子供たちの姿。
ここはまつろわぬ民の場所、草原と共に生きる自由人の国。


山間の一角にその集落はあった。

一年を通して定住することなく、草原を移動する草原の部族たち。
しかし、年老いたものや、体の弱いもの、それに過酷な移動生活をするにはいまだ幼すぎるもの達にはやはり定められた土地が必要であった。

その為、草原で暮らす部族たちはその地に村を築いた。そこには部族間の争いごとを決してもちこまぬという誓約のもとに。

安住はだが決して彼らの望むものではなかった。

それゆえ、年若きもの、壮年のものがここを訪れるのは一年を通してただ一度、白夜の祭りが行われる月明け祭の時のみというのが通例となっていた。

「若長、いったいどうされたのです?このような時期にお戻りになられるとは……。月明け祭は、次の月が落ちてからですよ?」

一面に張り巡らされた厚手の布地。その中にひっそりと座しているのはかなり高齢な老婦人。その彼女がやや心配げに目の前にいる男に声を掛けた。

「婆殿、まあそう心配するな。たいしたことではないさ。」

何事もないように答えるその男の側には、苦虫をつぶした様な顔の青年が佇んでいる。

「まあ、それでは淦遮(アカシャ)殿は何故そのような顔を?」

困ったように微笑みながら再び問いかける。

「何を言われるか。淦遮は元からこの様な顔でしたぞ。」

わずかに口の端を歪めながら男は答え、そして淦遮が……切れた。

「婆殿っ!!どぉうかお助けくださいぃっ、最早、私一人ではどうしたらよいのかぁっ…」

最後の方は涙声になりながら婆殿の手を掴み、訴える。
その様子を横目で眺めながら若長、と呼ばれた男は溜息をつきながら天幕の入り口に視線を向けた。

「淦遮殿、そう興奮せずに何があったのか教えてくださいな。」

婆殿が優しくそう言った瞬間。淦遮はすっくと立ち上がると真っ直ぐ天幕の入り口である布の重ね目に向かい、そして、その布を思い切り跳ね上げた。

天幕の外にはまぶしい陽光、晴れ渡った空、広がる一面の緑。その中に……シルエット。逆光を受けて佇むその影は少女のもの。緩やかなカーブを描くその体の曲線が雄弁にものがたる。

草原の風が彼女の髪を弄び、それを掻き揚げる白い手首には……幾重にも巻かれた銀の鎖。

天幕の中に少女が足を踏み入れ入り口の布が閉ざされたその時、まぶしそうに目を細めていた老女の息を呑む気配がした。

「………これは………まさか……………」

村の中心的存在であり、草原の長老の一人とはいえさすがに動揺を隠せない。

「埜白(ヤシロ)殿………?」

婆殿は、息子の様に思っている己が部族の次期首領へと目線で問い掛ける。成人してからは決して呼ぶことの無かった男の名を口にしたことが事態の深刻さを表していた。

「そう怖い顔をするなよ、たいした事ではないさ。……淦遮、こちらへ連れて来い。」

たとえどんなことがあろうと独特の余裕を失わない、それは部族の者たちを纏め上げ、長として頂点に立つには必要な要素。まだ二十代前半の埜白が次代にと望まれる所以であった。

しかし、今、このとき。その余裕は逆に恐ろしいほどの沈黙をもたらした。

淦遮に連れられた一人の少女。腰まで届く髪は揺らめく闇。透けるような白い肌は天空に溶ける月の光。そしてその瞳は。月そのものであるかの様な眩い金。

天幕の中には静寂と共にお月の化身が降りたった。

そして―――――――婆殿の厳しい声が飛んだ。

「……淦遮殿っ、誰にもみられていませんね。」

淦遮は名を呼ばれ、こくりとうなずく。この天幕は部族の集落よりやや離れた山際に作られているのだ。

「さあ、こちらへ。――――月姫様。」

老女はゆっくりと立ち上がり、自分の元へ可流紗を導いた。



「あなたが、この集落の長ですね。どうか私を月守りの塔へとお帰しくださいませんか?」

静かな、けれど毅然とした口調で可流紗は自分をガルベスに帰してくれるよう老女に訴えかけた。

実のところ彼女は今朝目覚めた後に、埜白と名乗った、にやにや笑う男から長に合わせるといわれたときは、そのような面倒なことをするよりも隙を見て逃げ出すつもりでいたのだ。

しかし連れ去れてきた場所が、ガルベスの月守の塔より山3つ分超えた草原の民の地とわかったときにその考えは断念せざるをえなかった。

自分の足で山を越えるのは到底無理なことである。街道沿いを行くという手もあるが、街につく前に連れ戻されるのは目に見えている。

それゆえ、あの男があわせるといった長にあってみるしかなかったのだ。元来草原の民というのは自由を何よりも尊重する。このような謂れ無き束縛に対する不当性を訴えれば事態の改善を図れる、そう、思った。

「昨日(さくじつ)の月隠しの晩に、そこにいる方に理由無く連れてこられました。……この際、帰していただけるのならその件は不問にふします。馬を貸していただけるだけで良いのです。貴方からそちらの埜白殿とやらに言っていただけませんか?」

溜息をつきながら、なるべく尊大な物言いをする。敵か味方か。信用できるわけではない。見極めるまではガルベスの月姫らしく、威厳と尊大さを武器に交渉をしろといわれた言葉が思い出される。可流紗は元々気の弱い娘ではない。自分を不条理な立場に置くものに対してその態度を取るのは簡単だった。

「これは大変失礼なことを。わが部族の次期長となるものがご迷惑をおかけしました。……しかし、既に貴方様の捜索は開始されたようです。先程、早馬がこの地を掛けて行きました。伝令は各地に散ったことでしょう。その様な事態となってしまった今、貴方をお返しした所でこの件を不問にふすことは難しいでしょう。この地への追求は……避けられますまい。」

婆殿がその優しげな相貌を崩さぬまま穏やかに喋り出す。しかし、その目は………可流紗を見据えたその目は、厳しい草原の長のものであった。

―――――――嫌な、予感がする。

可流紗が眉を顰める。さすがに草原の民に信頼を寄せられるだけあって、この老婦人も一筋縄ではいかないらしいということに気づいたのだ。

「それは、私をガルベスに帰すつもりは……無いということですか?」

返事は無くとも、老女の笑みが肯定していた。

「少なくともオレは帰すつもりはないがな。可流紗=ユライ?」

横から埜白が口を挟む。

「まあ、若長。この婆は、その様なことを赦してはいませんよ?」

老女の、あくまで穏やかなどっちつかずの返答。
可流紗がやや、苛立つ。塔の中で一通りの学問を身に付けたとは言え、16年の大半を外界と隔離され、わずかの人数としか交流のない娘が、その歩んできた歴史ゆえに交渉に長けた草原の民の長老と同等に渡り合えるわけが無い。

「……どういうことでしょう?私をどうすると言うのですか?」

尋ねる声にも剣が含まれる。しかも側には、へえ結構気が強いんだなぁ、等とのんびり呟く男がいたのでは老女との会話に集中することも出来ない。

「私は……あの塔に居なければいけない。それは遥か悠久の時をこえて受け継がれてきたこと。その掟を破るというからには、相応の覚悟あってのこと、と思ってよろしいのですね。」

そう、それは遥か昔の誓いでもある。ガルベスの創始者でもある毘侑(ヒユウ)=オーイン=スライディスにより、月と取り交わされた契約。月の守護を得る代わりに、月へと祈りを捧げる乙女を差し出すこと。月が見初め、認めたものが塔に登り、歴々とガルベスの安泰を、その一生を掛けて祈りつづけてきたのだ。

いまや、大国をなった彼の国へ戦を仕掛けようとするものは最早いない。しかしそれでも、因習は繰り返され、脈々と受け継がれてきた。月守の塔へ住まう月姫達によって。

「相応の覚悟、ですか。そうですね。月守の塔に住まい、一生を月への祈りに捧げる月姫、ガルベスの神聖なる乙女、を連れ去ったのですから。けれど私達も次代の長を失うわけにはいかないのです。」

哀れむように、慈しむように老女は答える。

ガルベスと真っ向から事を構えるには、草原の民の絶対数が少なすぎる。今の状況で月姫をガルベスに戻せば、幾ら月姫が口を継ぐんだとしても、どこから埜白の名があがるかわからない。そうなれば埜白をガルベスに引き渡すしか草原の民が生き残る術は無いだろう。だが、民達が埜白の引渡しに簡単に同意するとは、思えない。何故か老若男女問わず奇妙に人望がある男なのだ。

「勝手なことをっ」

月姫の、吐き捨てるような言葉。

「勝手なことは重々承知の上です。貴方にはもうしばらくここに滞在していただきましょう。」
毅然とした老女の言葉。それは既に決定、であり、反論は―――――赦されなかった。



「どぉして月姫を帰さなかったんですかぁ〜。埜白様を説得してくださると期待していたんですよぅ〜っ。ガルベスの追求についても、婆殿ならなんとか出来るはずじゃないですかぁ〜。」

嫌がる月姫を埜白が連れて天幕を後にしてすぐ、淦遮が恨みがましい視線を向けたのは、当然ながら、柔らかな背凭れ用クッションに寄りかかり織物をしている集落の纏め役、婆殿であった。

「まぁ、そう怖い顔をするものではないですよ。それに、今の若長には何を言っても無駄でしょう。」

のんびりと言葉を紡ぐ老女。その内容に淦遮はやや不可解な顔をする。

「無駄、ですか。確かに今回の埜白様は何か……様子が違います。普段はこうまで理不尽で唐突な行動はとられない。例えとったとしても、その裏にはなんらかの意図がありましたが……。」

「淦遮殿にもその意図は読めませんか?」

老女が手元の杯を手に持つ。冷やりとした感触。昼とはいえ月明け祭が近いこの次期は、かなり冷え込む。

「はい。物心ついたころから埜白様に使えてきましたが、今度ばかりは読めません。月姫を攫うことにどのような利があるというのですか?ガルベスに敵対するのは……いまの戦力では無謀としか云い様がありません。」

草原で共に育ち、いつしか主と仰ぐようになっていた、自分より3つ年上の幼馴染。人を驚かせる才に掛けては右に出るものはいないとはいっても、それはあくまで良い意味で、だったのだ。

そう、今までは。

所用によりシュリエスを訪れたのは、つい一昨日であった。淦遮が目を離した隙に宿屋から主が姿を消した時は、花街にでも行っているのだろうと思った。淦遮が細事を片付けている間、埜白がいないのはいつものことであった。ところが、真夜中に埜白が戻ってきたときに、一人の少女を抱えていたことにより異変は起こった。はじめ、淦遮は花街の娘だと思った。珍しく気に入った娘を連れてきたのだと。しかし、その容貌と手首に巻かれた幾重もの銀の鎖を見、月姫そのひとだと知れたとき。淦遮は我が眼を疑った。

塔へ戻すように何度も告げた。だか、埜白は人目を避け、宿の客に見つからぬよう気を配りながら闇夜の中を淦遮と共に出立し、一夜のうちに三夜の道のりを駆け抜けた。

「埜白様は……どうされたのですか。月姫をどうすると?」

うつむきながら、淦遮が自問のように呟く。

しかしながら、それに答える婆殿の声が……発せられることはなかった。ただ、心の中で紡がれたのみ。

埜白殿……貴方は………知っていたのですね。



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