Water-Ring

二章　婆様の計略

「離しなさいっ。私に触れないでっ！」

埜白に掴まれた手首を振りほどきながら、可流紗が声を荒げる。

「どうも、初めて会ったときから怒ってばかりいるなぁ。」

呆れたように呟く埜白。可流紗の表情がむっとしたものに変わる。

「当たり前だわ。無理やり連れ去られて、笑っている方がおかしいものっ」

そう反論すると、青年が笑った。

強引に連れてこられた天幕の中。先程訪れた草原の長老の一人だという老婦人の天幕に比べると幾らか小ぶりではあったが、それでもかなり広く、こちらは明らかに来客用のものであろうと思われた。天幕の中心に、敷き布と幾つかの背凭れ枕。いずれも全て生成りであろうと思われる質感。ややよそよそしい感じがする程簡潔で、人の気配のない場所であった。

埜白が、敷き布の上にどかりと座り込んだ。次に可流紗を己の隣へ手招きする。しかし、可流紗の方は埜白より大分離れた場所へ腰掛ける。

「……おい……そんなに離れてちゃ話もできんだろ……。」

ぽつりと呟いた埜白へ、冷ややかな厳しい視線が突き刺さる。

「私には話す事などないわ。」

かなり、頭にきていた。教え込まれた月姫としての威厳よりも、己が感情を優先してしまえる程度には。
眉間に皺を寄せてそっぽを向いた可流紗を見て、埜白が可笑しそうにのどをならした。

「何がおかしというのっ。貴方が笑うと、不愉快よ！」

刺々しい言葉を投げかけても、相手はまったく堪える様子が見られない。それがさらに可流紗の怒りに拍車をかけていた。

「そりゃあ、すまんな。……まっ、とりあえず今は退散するさ。」

可流紗が黙り込む。もうこれ以上埜白と会話を続ける気はなかった。

「もう少しあんたが落ち着いたら、もう一度来る事にしよう。しばらくはこの天幕を自由に使っていい。必要なものがあれば用意させよう。だが、外にはでるな。特に、夜は野生の獣が歩き回っている。命の保証はしかねるぞ。」

そう云い終えると、埜白は天幕の出口に向かう。
可流紗が埜白へと視線を向け、その後ろ姿を見送った。

そうして、埜白が視界から消え、独りになると、やっと昨日からの緊張が可流紗から消える。

「なんなの、あの男は。……早く、……早く塔に帰らなくちゃ……もし、私に背信の疑いがかかったら……。」

苛立たしげに少女が呟く。その顔には焦燥の色が濃い。

その時。気配、がした。

「誰っ！」

後ろを振向き様、可流紗が誰何(すいか)の声をあげる。一瞬にして、空気が張り詰めた。

「お姉ちゃん、だぁれ？」

幼い少女の声。振向いたその先には、天幕の裾をわずかに巻き上げ、そこから顔を覗かせている小さな少女の姿があった。

少女は、耶玖（ヤク）と名乗った。集落に暮らす部族たちの中で、もっとも強豪なアシュル族の娘なのだと。

「あのね、若長様がね、ここからでてきたでしょ？それでね、誰かお客様がきたのかなって。ほんとはいけないんだけどね、ちょっと覗いてみたの。そしたら、可流紗様がいたの。」

まだ、５、６歳といったところであろう。肩口で切りそろえられた茶褐色の真っ直ぐな髪が、少女が口を開く度にゆらゆらと揺れている。薄い灰色の瞳は大きく、零れ落ちそうだ。それゆえ、たどたどしく言葉を紡ぐ様子は微笑ましい。

可流紗はわずかに笑み、少女に聞き返した。

「若長様というのは、埜白という人のこと？あなたは彼と同じ部族なの？」

耶玖の顔が、ぱっと明るくなった。可流紗の質問に嬉々として答える。

「そうなの。若長様は、埜白様なの。耶玖はね、若長様と同じアシュル族なの。若長様は、強くて、やさしいの。……でも、あんまりここには戻ってこないのよ。次期首領だから忙しいんだって。」

なんに忙しいことやら、と内心は思っていても、さすがに小さな少女に当り散らすほど、可流紗は無分別ではなかった。どうやら、あの男は部族内では、やはり次代を継ぐ者と認められているのだと、再確認する。

「若長様が好きなのね。……あまり戻ってこなくて寂しい？」

誇らしげに話した耶玖の、最後の言葉に感じた僅かな不満。どうやら、この少女はかなり埜白のことを慕っているらしい。可流紗にしてみれば、到底理解しがたいことだったが。

「……少しだけ。でもね、皆が若長様のことをかっこいいって！だから、いいの。あんまり会えないけどね、ここにいるときは耶玖といっぱい遊んでくれるし。可流紗様は？可流紗様は若長様のこと好き？」

幼い顔にいっぱいの笑みを浮かべ、期待に満ちた目を輝かせる。
可流紗が、言葉に詰まった。

「……きらい？」

しばらくの間の後、耶玖が潤んだ目をしながら再び、問う。

「……そうね、まだわからないわ。あまり話しもしていないし…。」

内心、溜息をつきながらなんとか答えを返す。本当の所、今現在の状況ではどう考えても『好き』になるとは考えがたかったが、耶玖の前でそう云いきってしまうのは、気が引けた。

「じゃ、お話しをしたら好きになる？耶玖ね、可流紗様は若長様のお嫁さんになるのかと思ったの。今もね、そうならいいなって思ってるの。だから、いっぱいお話しをして若長様を好きになってね。」

真剣な顔で、力を込めて話す少女を見ながら、可流紗は苦笑する。

「……努力するわ。」

どう努力しても、花嫁はむりだろうけど。そんなことを思いながらの返答だったが、耶玖はとりあえず納得したらしい。そろそろ夕食の準備を手伝いに戻らなきゃ、といい、可流紗に手を振ると、元気よく駆け出していった。

もう時期、陽が暮れる。部族の天幕がある集落とはやや離れているとはいっても、風に乗って人々のざわめきが伝わってくる。皆、夕げの支度に追われているのだろう。

「……耶玖、か。ちょっと、あの子に似てる。」

微かに笑い、さらに口の中だけで呟く。
もっとも、あの子は男の子だけれど。

山間から、ゆっくりと。ナイフの様に鋭い三日月が昇ろうとしていた。

「若長様、あのね。耶玖、可流紗様とお話したのよ。」

あたためたミルクを口に運びながら、小さな少女は大好きな青年に告げる。

「見に行ったのか？」

やや驚きの表情を浮かべ、埜白が食事の手を止めた。
こくりとうなずく耶玖へ、埜白の隣に座ってスープを口にしていた淦遮がガシャリとスプーンを取り落とす。

「…ぐっ、ごほっ。耶…耶玖っ！！あれ程あの天幕には近づくな、と…」

「大丈夫？淦君」

ミルクを飲みながら、のんびりと耶玖が声を掛ける。

「で、何かいっていたか？」

咽込む淦遮はあえて無視して、埜白は耶玖に問いかけた。

「うん。可流紗様ね、若長様といっぱいお話したら、若長様の花嫁さまになってくれるって。」

再び、淦遮が激しく咳き込む。その隣では、のんびりとスープを口に運ぶ老女の姿。

「大丈夫ですか、淦遮殿？」

僅かに口元に笑みを浮かべながら老女が尋ねる。

「婆殿っ。婆殿ですね、耶玖を天幕にやったのはっ！」

恨めしげに見返してくる淦遮を尻目に婆殿は、そ知らぬ風を装う。

「まあぁ。私はただ、お月様が御降りになった、といっただけですわ。」

この人は…。淦遮が口の中で苦々しく呟く。

「で、婆殿？何を企んでいるのかぜひお教え願いたいな。」

埜白が面白そうに問いかける。この一筋縄ではいかない老女の詭計は、幼い頃から身をもって知っているのだ。今度のことでも必ず何か行動を起こすはずだと埜白は踏んでいた。

「何も企んでなどおりませんとも。ただ、耶玖のように可愛らしい娘が話し相手となれば月姫様の心も少しは和むとおもっただけですわ。他意はございませんとも。」

にこやかな、ひたすらにこやかな笑顔。その裏に隠された真意を読取ろうとわずかに埜白の眼が眇められる。

「まったく、婆殿にはかなわんよ。……」

わずかののち、ふっと気を抜いたようにわずかな苦笑が埜白の口元に滲む。そのタイミングを見計らい、淦遮がおもむろに座りなおし、ばしばしと床をたたいた。

「あーっ、もう。婆殿も埜白様も真剣にかんがえてますかぁっ？これからどーするんですかっ。月姫ですよ、月姫っ。ガルベスの守り神とあがめられている少女なんですよ？」

「まぁ、そういきり立つなよ。月姫だなんてことはわかってるさ。でなきゃ連れてなんぞこなかったからな。とにかく俺は月姫に用がある。当分の間はかえすわけにはいかない。」

こうして、天幕の中ではのんきにお茶を啜る老女、ミルクを飲みながらにこにこと微笑む幼女、そして涙をにじませながら床に突っ伏してああぁっと悲壮に叫ぶ青年と、なにやら一計を案じ出した男とのなごやかとは言いがたい夕食の時間が過ぎて行ったのだった。

Back　∥　Next

水底の眠り姫 INDEX

TOP　∥　NOVEL