三章 月姫の役割(1)


少女の口から、重い溜息が漏れる。

何故、こんなことになったのか。いつも通りの新月。水の底に沈みこんだような、澄んだ空気の中を泳ぎ回ることのできる月のない夜のつかの間の自由。ただそれだけだったはずだ。あの男さえ現れなければ・・・・・。

陽が落ちてから、かなり時間がたっていた。天幕の中は可流紗の傍に蝋燭が一つ灯っているのみなので、ほぼ暗闇である。

再び少女の口から溜息。未だ、月の力は満ちていない。これでは、月の加護を当てにして逃走することは難しかった。遠くで獣の鳴き声が響いた。埜白の言っていた野生の獣なのだろう。

「うかつに集落の外には出られない、か・・・・。」

「その通り。やつらの餌になりたいのなら別だがな。」

「なっ、・・・・いつの間にっ」

天幕の入り口に、可流紗の今現在の状況の元凶となっている男が立っていた。闇に包まれたこの静けさの中で、まったく気配を感じなかったことに可流紗は驚愕していた。埜白が足音も立てずに可流紗の傍へ歩み寄ってくる。

「何の用?私の気が静まるまでは現れないのではなかったの?」

可流紗が立ったままの男を見上げながら、きつい口調で問いかける。埜白の口元に笑みが浮かぶ。

「ああ、そういえばそうだった。だが、それを待ってたらいつまでたっても俺はここへはこられないかと思ってな。」

相変わらす、腹の立つ。埜白の軽口に付き合う気はまったくない可流紗は男を睨み付けたまま口を噤む。
ようやく男が可流紗の傍へ腰を落ち着けた。そして、静かに切り出す。

「あんたを此処へ連れてきた理由、知りたくないか?」

「理由なんてものが、あるのならば・・・・・」

眉を顰め可流紗が警戒心を顕にはき捨てる。埜白が薄く笑んだ。静寂が落ち、再び獣の鳴き声が物悲しげに風にのって流れる。埜白の目が真っ直ぐに可流紗を見つめていた。

「あんたには、俺の子を産んでもらう。」

埜白の何気ない口調。
数秒、可流紗は何を言われたのか、理解できなかった。いや、理解したくなかったと言うべきか。愕然としたまま、埜白を凝視する。

「・・・な、にを、何を馬鹿なことをっ」

「まだ、国王のお手つきにはなっていないのだろう?」

「っ!」

埜白のあまりな言葉に、可流紗の頬が怒りで紅潮する。思わず右手を振り上げ、埜白に向けて振り下ろす。しかし、可流紗の手首は埜白に掴まれ、身動きを封じられる。

「・・・なんだ、本当に知らんのか。ガルベスの国王は代々月姫との間に出来た子供と決まっている。だからあんたが次の国王を生む女というわけだ。」

「そのような戯言。現国王は前国王の正妃様の御子。現国王にも正妃様がいらっしゃる。例え私がお前との間に子を成したとしてもその子が国王になれるはずもない。」

埜白に掴まれた可流紗の細い手首が軋む。その痛みにわずかに可流紗が呻く。

「ところが、そうでもない。それに前王妃は子供なんぞ産んじゃいない。産んだのはあんたの前代の月姫だ。・・・・通常は、そのときの国王との間に子を成すらしいから、現国王は確かに前国王の子ではあるがな。」

吐息がかかるほど埜白の顔が可流紗に近づく。とっさに可流紗が顔を背けた。

「くだらない嘘をつくべきではない。お前のような男にでも言霊の力は働く。大きな嘘は、大いなる災いをお前の元に連れてくる。」

可流紗の言葉に埜白が嘲笑する。その姿は、獲物を捕らえようとする野生の肉食獣を思わせた。

「そう、思うか?月姫の産む子は王妃の子として育てられる。現国王の正妃に子がないのは、前代の月姫が現国王の母親だからさ。いくらなんでも自分の母親と関係を持つつもりはなかったらしいな。だから、次代として月姫の地位を継いだあんたが成長するのを待つしかなかった。そのせいで不自然な年齢になった今でも現王妃には子がいない。」

「そのようなこと、先代から聴いた事もない!」

可流紗が声を荒げた。男に掴まれた手首から先が痺れ、冷たくなっていく。

男の話す内容に、可流紗は動揺している。根拠の無い与太話だと、理性は告げている。だが、その一方、心の奥底からもしやという思いがわいてくることを止めることが出来ない。

可流紗の顔から血の気が引いている。その様を眺めながら、埜白は可流紗を追い詰めていく。

「そりゃそうだろう。幼かったあんたにそんなことを言うわけがない。いったとしても5歳の子供には理解できなったろうしな。適齢期になったら、前代の月姫から聞かされるはずだったのさ。・・・・が、そうなる前にあの事故があった。」

可流紗の体がびくりと強張る。

「前代の月姫は狂って、あんたの見ている前で塔から身を躍らせたそうだな。表向きは病死ってことになってはいるがな。こういう話はどこからともなく漏れてくるもんだ。」

埜白の言葉が終わらないうちに、溜まりかねて可流紗が叫んだ。

「私にお前を信じる根拠など、何一つないっ」

顔を上げ、埜白をにらみつける。

「まぁ、そうだろう。だがな、あんたは俺の子を産むんだよ。」
二人の視線が激しく交じり合う。塔に住まい、一生を月神に捧げるはずの娘。そして、太陽の下、草原の中で逞しく生き抜いていく男。交差するはずも無かった二つの生の邂逅。

「それで?お前が今の馬鹿げた話を本気で信じているのなら、ガルベスの王座を乗っ取る、とでも?」

「いいや。俺はそんな窮屈で面倒そうな地位はごめんだ。」

埜白が苦笑する。可流紗が疑わしそうに男を見るが、その真意は知れない。

「では、何を企んでいる?」

決して正直に答えはしないだろうと思ってはいても、問いかけてみる。いま、可流紗には時間が必要だった。自分にもっとも有利に話しを進める為に。

「さぁな。あんたの知るところではない。なぁに、あんたが子供さえ産めば、国に帰してやるよ。塔に籠もって月神にでも何でも祈りを捧げてくれ。・・・・・・・これは取引だ、どうする?」

「馬鹿馬鹿しい。今頃はガルベスから捜索の手が伸びているはず。何故私がお前との取引に応じる必要がある?」

月姫として。傲慢に相手を見下し、威厳を示せ。いつも傍らに居てくれた、たった一人の友の言葉が可流紗の脳裏を走る。月の力が満ちている時、常に傍にあった銀色の毛皮、静寂を称えた真紅の瞳。塔で得たることのできた、たった一つのやさしい記憶。

凛とした可流紗の姿に、埜白の気配が剣呑なものに変わる。その皮肉気な笑みはそのままに。

「俺としては嫌がる女を無理やりってのは趣味じゃないんだよ。できれは、取引に応じておとなしくしてもらいたかったんだがな。」

ざわり。可流紗の肌が粟立つ。掴まれた腕を振り払おうとするが、強引に埜白の元へと引き寄せられ、そのまま両腕の中へと抱き込まれてしまう。

「さぁ、どうする?月姫殿?」

恐慌状態に陥ろうとするこころを何とか踏みとどまらせ、可流紗は必死で考えを巡らす。だが、どう考えても、屈強な男の腕から逃げ出す方法を思いつけない。埜白が可流紗の顎を掴み、上向かせる。可流紗は瞬きすることも無く、男の顔が近づいてくるのを見つめていた。



「ぁああーっ。ちょっ・・・・ちょっと待ってくださいぃぃーーーっ。埜白様ぁ、落ち着いて、落ち着いて・・・・落ち着いてくださいよおぉぉっーーーーーーー。」

可流紗が逃げられないと覚悟を決めた瞬間。天幕の入り口が勢いよく開け放たれ、そこから転げるように一人の男が入ってきた。

声のした方を振り向き、埜白が射殺しそうな視線で叱咤する。

「淦遮。邪魔をするなっ」

「そういうわけにはいきません。婆殿から埜白様が何かしでかさないか見張っとくように言われているですよぅ。あぁ。」

明かりの届かない入り口付近の男の表情を窺い知る事はできない。しかし、その声の調子から、かなりあせっているらしい。

淦遮の言葉に、埜白が軽く舌打ちする。

「ったく。婆殿にうまく使われやがって。・・・・・くそ。萎えた。」

埜白が腕を開き、開放された可流紗が埜白の傍から身を引く。埜白の纏っていた剣呑な気配が消え、淦遮がほっとするのが感じられた。

埜白が軽く溜息をつくき、立ち上がる。呆然と自分を見上げてくる可流紗を見下し、苦笑する。

「俺は、本気だ。さっきの取引、どうするかもう一度考えてみるんだな。」

そういい残すと、天幕の入り口、淦遮の方へと向い、するりと外へ消えていった。その後を淦遮が追いかけていく。


そして。後に残されたのは、男の話した月姫の役割、そして自身を待ち受ける運命の過酷さにただただ愕然とする、成人にすら達していない一人の華奢な少女の姿であった。



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