四章 第一夜*繋がらない、心(2)


カラダが、重い。

頬にかかる冷たい感触に可流紗が瞳を開ける。と、そこには可流紗の頬をそっと布で拭っている老女の姿があった。

「・・・貴方、は・・・」

発した己の声がひどく涸れていることに可流紗はやや驚く。
しかし、ぼんやりしていた頭が次第にはっきりしてくると、昨晩の出来事が思い出され、
声の涸れている要因に思い当たった。

「ご気分はどうでしょうね。」

にこやかに微笑みかけてくる老女。可流紗は軽く眼を瞑り、ゆっくりと息を吐いた。
だるい体を何とか起こし、座ろうとする。下腹部に走る鈍痛は無視し、体を起こすと自分が何も身に纏っていないことに気づいた。とりあえず掛けられていた白布を身体に巻きつける。

「・・・あまり、良くはありません。・・・お水を、いただけませんか?」

喉が、渇いていた。

老女が頷き、傍にあった桶から陶製の杯へと水を注いで可流紗へと手渡す。
一息に、飲み干した。冷たい感触が喉を伝って体内へと浸透していく。

「・・・もう夜明け、なんですね。」

可流紗がぽつりと呟いた。


可流紗にとって不可思議な夜であった。
埜白の熱に翻弄され、己を見失いそうに、なった。
埜白の眼が、怖かった。流されそうになる自分が、怖かった。
縋りつける暖かさが・・・怖かった。


「可流紗殿。動けますか?動けるようでしたらこの婆と一緒に湯浴みを致しませんか?」

「え?・・・湯浴み、ですか?」

可流紗が怪訝そうに聞き返す。湯浴みをするためには大量の水の確保を必要とするため草原ではかなりの労力がいるのではないか、と可流紗が認識しているためだ。
日の出から間もない時刻であるのにそんなことが可能なのだろうかといぶかしげに老女を見つめる。

「ええ。この地には天然の湯浴み場があるのですよ。この時刻であればまだ誰もつかっていないでしょうから、ご一緒に。」

老女がふふっと楽しげに微笑む。

――――天然の湯。

可流紗が得心する。可流紗のいたところではみたことが無かったが、稀に地中で熱せられた水が噴出すことのある土地があるというのは本で読んだことがあった。

「・・・ご一緒します。・・・身体を、清めたいですから・・・。」

可流紗が俯きながら己の身体にそっと触れた。胸元に幾つか紅色の痣が出来ていることに気づいたのだ。

途端に気恥ずかしさがこみ上げてきて、身に纏った白布をきつく握り締める。
一刻も早く、この身に刻まれた埜白の熱を取り去ってしまいたかった。



老女が用意してあった服に着替え、可流紗は集落からそう離れていない山裾に向っていた。目的の場所は、そこにある小さな森の中にあるらしい。

歩きはじめてから暫くして、可流紗の息が上がってきていた。草の上を歩くのは久しぶりのことであった為、足を取られふらふらとする。それに昨夜の埜白との行為のため、自身の中にまだ何かあるような感じがして歩きにくいことこの上なかった。

それに比べ、可流紗の先を行く老女の足取りの確かさはさすがで、内心可流紗が賞賛の溜息を漏らす。

「大丈夫ですか?もうすぐですよ。」

可流紗の様子に気づいたのか、老女が振り向き、声を掛けてきた。

「ええ。大丈夫です。」

その言葉に可流紗がきっぱりと返す。その返答に老女がくすくすと笑む。可流紗はむっとするものの、足を運ぶことに必死でそれ以上言い返すことはなかった。


「さ、着きましたよ。」

老女に声を掛けられ、とっさに可流紗は何のことか分からなかった。途中から歩くことに集中しすぎて本来の目的を失念していたのだ。顔を上げて前方を見る。そこには木板で囲った天然の浴場が、あった。

「・・・すごい。本当にお湯が出ているんですね。」

可流紗が素直に感嘆の声を上げると、先に歩いていた老女が囲いの中から可流紗を手招きする。それに促され可流紗が中に入ると、老女の言ったとおり誰も居ない湯浴み場にはもくもくと、湯気が上がっていた。



「ああ。可流紗殿。下着はつけたままで。」

可流紗が、一番下に着込んでいた膝上まである袖なしのシャツに手を掛けたとき、老女の制止が掛かった。

共同場および屋外であるために、下着はつけたまま入るのだと老女が説明する。
戻るときはどうするのかという可流紗の質問に、老女は自分の持っていた布袋を掲げ、「替えがありますから」と答えた。


お湯は適温であり、浸かっていると体の隅々に浸透していくような心地よさであった。

「・・・あの。婆、殿?」

可流紗が、隣にいる老女へと呼びかけた。
その際、老女の名を聞いていなかったことに思い至り、とりあえず耶玖が呼んでいた『婆』という名称を用いる。

「はい?」

湯気で霞んではいるが、満面に笑みを湛えて、婆様が可流紗の方へ振り向く。

「・・・埜白殿は、いつもこの集落に?」

「ああ。いいえ。普段は草原中を移動しながら生活しているんですよ。ここに男たちや男と行動をともにしている家族が集まるのは白夜の間、月明け祭の時のみですね。もちろん若長様も例外に漏れず、ですわ。現に今日は長に呼び戻されて、先程淦遮殿と一緒に出かけて行ったところですし。」

その、婆様の言葉に可流紗が顔を顰める。

埜白との約束は二夜。つまり後一夜残っているのだ。
一刻も早く約束を済ませ、塔へ戻るつもりの可流紗にとって、埜白が勝手に居なくなるというのは無視できない事実であった。

「いつ、戻るのですか?」

自然と問いかける可流紗の声が硬くなる。
その声音に気づいたのか、婆様が苦笑を漏らす。

「今日の夕刻には戻るといっていましたよ。さ、そろそろあがりましょうか?あまり浸かっているとのぼせてしまいますよ?」

そういうと、湯船からあがる気配を見せる老女に、可流紗が再び声を掛けた。

「貴方は、何故埜白殿がこのようなことをしたか、知っているのではありませんか?」

一瞬、老女の動きがとまる。

「・・・・可流紗殿。貴方には本当に申し訳ないと思っています。・・・ただ、それを私の口から申し上げることはできません。どうぞ、ご容赦くださいまし。」


可流紗を正面から捉える婆様の眼。
その中に強固な意志を感じ取った可流紗に、それ以上追求することは、できなかった。



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