五章 真昼の襲撃(2) |
「お願い。いい子ね、私を助けて。」 可流紗の目の前には、柔らかな栗毛をした一頭の馬。 辺りの騒ぎに影響され、興奮気味に嘶いている。 可流紗が天幕を飛び出てから最初に立ち止まった場所。 共同集会場のすぐ横にある放牧場、である。 其の中に放たれていた幾頭かの馬たちのうち、一番手じかにいた栗毛の馬に声を掛けたのだ。 ぶるぶると振る逞しい首に可流紗の細い腕が掛かった。微かな、抵抗。だか、それは僅かのこと。 馬の呼吸は荒いままだが、激しく蹴り上げていた蹄の音は止み、可流紗の次の所作をじっと待っている。 可流紗が一息置き、一気に地を蹴ると、放牧場を囲んでいた柵の上に足をかける。 そのまま飛び上がり、ひらりと馬上におさまると、栗毛の馬は待っていたように後ろを向き、柵との間に距離をとった。 「はっ」 可流紗の短い掛け声。馬は柵に向けて一気に加速し始める。 跳躍。 馬の鬣がひらりと、舞い。柵の上を人馬一体の影が通り過ぎる。 そして。 着地と同時に駆け出した駿馬は、集落の入り口へと向けて疾走を開始していた。 「耶玖っ」 可流紗の切迫した声が響く。土煙の上がる中に幼い少女の姿が見えたのだ。 そのまま可流紗は耶玖の元へ馬首を巡らせる。 だが、馬に跨り集落内を疾駆する黒衣の姿は、凄まじい喧騒の中にあっても、その突出した奇異さで人目を引きすぎていた。 逃げ惑う女子供の視線が可流紗に向けられる中、凶刃を持った男の一人が可流紗へ向って馬を走らせてくる。 「だめぇっ、逃げて!」 黒衣が可流紗だと気づいた耶玖が、自分の元へやってこようとしている可流紗へ、精一杯の声を張り上げる。 だが。時既に遅く。 可流紗の右真横から、向ってきた馬上の男の剣が、繰り出される。 しかし、その剣が可流紗の身を傷つけることは、無かった。 栗毛の馬が足を止め、素早く右方向へ身を翻したのだ。そして、馬上の可流紗の手には、白刃の剣。鞘のまま黒衣の中に隠されていたその剣で、繰り出された凶刃は受け止められていた。 「この、生意気なっ」 凶刃を振り下ろした男が屈強な腕に更に力を込めてくる。だが、可流紗の剣は僅かに矛先を変え、男の刃を受け流した。 二つの剣に、素早く距離がとられる。 「子供にしては、やるな」 男の顔に楽しげな笑みが浮かぶ。 どうやら、体をすっぽりと覆っている黒衣の為、可流紗のことを少年だと思っているらしい。 無言のまま可流紗が剣を構えなおす。 ――この男は、おそらく草原の民。 日に焼けた肌。筋肉のついた逞しい体。なにより、馬の扱いに長けている。年のころはおそらく三十代後半か四十代前半。 実戦で身につけたのであろう剣技は、かなりの技量であることを窺わせる。 だが、もともと草原の民は、騎射能力にもっとも優れた民族であるという。 ――相手の得物が弓でないだけ、 幸運だったと思うべきかしらね。 けれど長引けば、私に勝ち目はない。 可流紗が油断なく男の動きを探る。 男の切っ先が、僅かに上がった。 来る、と可流紗が感じた瞬間。 男と可流紗の間に一陣の風が吹き抜ける。 目深に被った可流紗の頭巾が、僅かにはためいた。 ―――相対した男の顔が驚愕にそまる。 頭巾からのぞいた、金の眼。 その特徴が現すのは、ただひとりの人物。 とっさに可流紗が男から顔を背ける。 「きゃぁっ」 小さな少女の悲鳴。可流紗の向いたその方向では、喧騒を撒き散らしながらやってくる一団の砂煙に耶玖が呑み込まれる姿だった。 可流紗が軽く馬の腹を蹴る。 軽やかに馬の蹄が地を離れ。だが、馬首は相対している男にではなく、耶玖のいる方向へと向けられていた。 「なっ、逃げる気か!?」 男の、非難の混じった罵声。すぐに、短い掛け声を発すると、可流紗の後を追って馬を走らせてくる。 男が追ってくる気配を感じながらも、可流紗が上体を右に傾け地面へと腕を伸ばした。 「ひゃあっ」と、耶玖の喚声。 上体を立て直した可流紗の腕にはしっかりと耶玖の身体が抱えられていた。 耶玖が可流紗の前にしっかりと座りなおすのを確認すると、疾走する速度をやや落とす。 男の気配が背後に迫っているのを感じるが、全力で疾走する馬上で口を開けば、舌をかむことになる。 「耶玖、怪我は無い?」 馬上に収まった耶玖が、首を振る。 「そう。よかった。婆様はどこへ?」 「集落をね。裏側に出てすぐの山側にいるの。非常用の砦になるように作られているところがあって、皆そこに避難するようにって。知らせにいこうとしてたんだけど・・・。」 耶玖の声が申し訳なさそうに小さくなる。 「耶玖。私のことはいいの。自分の身を守ることを一番に考えて。」 耶玖が、驚いたように可流紗を振り返る。 可流紗が黒頭巾の下から、微笑んでみせた。 「いい、良く聞いて?一人で馬に乗れる?」 こくりと、耶玖が不安げに頷く。 「じゃ、途中で私は降りるから、砦までちゃんといけるわね?」 さらに耶玖の眼が驚きに見開かれた。 「だ、だめっ。どうして?一緒にいって。」 耶玖の泣きそうな声。 だが、可流紗が一緒にいくことはできそうも無かった。 先程の男が背後に迫ってきているのだ。どうやら男は可流紗を獲物と定めたようで、まだ集落の中に残っている女たちには脇目も振らず、人馬入り乱れて、かなり混乱している中を、ひたすら追いかけてきている。 そしてなにより。月姫とばれた可能性がある以上、あの男を見逃すわけにはいかなかった。 「大丈夫。後から必ず行くから。」 可流紗が耶玖を安心させようと再度微笑みかけるが、耶玖の不安は容易には晴れそうも無かった。とうとうその大きな眼からぽろぽろと涙が零れ落ちてくる。 「・・・耶玖。」 可流紗が途方にくれ、手綱を握った手で耶玖の身体をそっと抱きしめる。 「大丈夫、私は。月の、加護が、あるから。」 「ほんと?」 泣き濡れた眼で可流紗を見上げてくる、耶玖。その姿に、可流紗に似た小さな男の子の虚像が、重なった。 「・・・天嘉。」 可流紗の小さな呟き。 「え?」 耶玖が、不思議そうに聞き返してくる。 はっとしたように、可流紗が口を噤んだ。 「可流紗、様?」 「・・・流(ナガレ)・・・流と、呼んで。婆殿に人前でその名を呼んではいけないといわれているのでしょう?」 困惑したように、耶玖がこくりと頷いた。 可流紗が、微笑む。 そして、可流紗をじっと見つめた後、耶玖がぐっと涙を堪えた。 「うん。だいじょぶ。流様も、耶玖も。」 耶玖の言葉に、今度は可流紗がしっかりと頷いた。 男を迎え撃つ場所に考えを巡らせながら可流紗は巧みに手綱を繰ってゆく。 ―――あまり砦の近くまで男を連れて行くのは危険だが、ある程度まで近づかないと男の仲間が加勢にくる恐れがある。 ふと、前方の視界が開けた。低い柵に囲まれた集落の境界線。そして、その向こうに広がる草原。眼を凝らすと、高い柵で覆われた砦も視界に納めることができる。 可流紗は、決断を下した。 「あれが集落の裏手ね。・・・あそこから出たら、私は降りる。そうしたら、砦まで全速で馬を走らせること。」 耶玖が、やや赤い眼をしながら、それでもしっかりと、頷いた。 |
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