ACT.05 彼女の決意


ぱんつ…穿いていてくれて…ほんっとうによかった…っ。

安堵の籠もった魂からの…声には出されなかった呟き。

呟いたのはもちろん西野ささめである。

現在彼女は下半身にボクサーパンツを身につけただけという常盤成充の背中を、ベッドに正座したまま凝視しているところだった。

しっかりと筋肉のついた均整の取れた身体。

やや茶色がかった髪を鬱陶しそうに払って、常盤は床に放り出してあったスーツの上着から煙草のケースを取り出している。


ささめが目覚めてから、あまりの衝撃に言葉をなくし固まりこんでいたのは時間にしておよそ20分。

もっとも常盤が目を覚まさなければおそらくそのままの状態で一、二時間は経過していたかもしれず、そう考えれば常盤が目を覚ましたのはささめにとって幸いなことだったといえる。


常盤は目を覚ました後やや考え込んで、まるで置物の如く微動だにしないささめをちらりと見た。そしておもむろにのっそりとベッドから這い出たのだ。


その時のささめの動揺っぷりはいっそ潔い程だった。

引き攣りまくった顔で最早常人には解読不能の言語を叫びながらばたばたと手を振り回し、その時偶々手に当たった枕を物凄い勢いで掴んで窒息するんじゃないかという位きつく自分の顔に押し当てたのだ。

何やってるんだか、という呆れ気味の常盤の声と共に枕がささめの腕から奪い去られるまでの数十秒、ささめは本気でこのままの状態で部屋から逃げ出そうかとまで思いつめていた。

しかも枕を取り去られ窒息の危機からは逃れることができたものの、あまりに唐突に奪われた為目を瞑ることも出来なかったささめは、見事に目にすることとなっていた。つまり常盤の下半身を。

ぎょっとして、しかしもう目を瞑ることは出来なかった。

だからこそ常盤が全裸では無いと知った時のささめの安堵が幾許のものだったかは、押して量るべしであろう。



「おい。・・・おい、ささめ。」


「…は!?」

正座したままのささめが、ベッドの上で器用にびくっと飛び跳ねた。

微動だにせずベッドの上で固まっていたささめの顔を、いつの間にやら煙を燻らせた常盤が身をかがめて覗き込んでいる。

切れ長な目とか、薄い整った唇だとか、通った鼻筋だとか…

いきなり間近で見せつけられたそれらにささめが目を剥く。
恋愛ごとにはさっぱり疎いささめではあったが、実は審美眼は結構なものだった。

常盤が確かにイイ男の部類であることは―――なんとなく理解出来ている。

宵闇の中以外で見ても妖しい雰囲気。やる気がなさそうでいながら卒の無い動き。
無駄に女慣れしている態度。

ささめのことを呼び捨てにしていながら、またそれがあまりにも自然で違和感がまったくない。その証拠に、昨夜名乗った後実は初めて名前を呼ばれたということにささめはまったく気づいていなかった。

今更ながらよくもうっかりついて来てしまったものだ―――、ささめは引き攣る口元をどうにか笑みの形に整えつつ、へろりと常盤に笑いかけながらベッドの上を正座のままこれまた器用にずりずりと後退していく。

常盤が身を起こして肩を竦めた。

首に片手をやりながらもう片手で煙草を口から離し、軽く欠伸をしながら部屋の隅に置かれたガラステーブルへ向うとその上にある灰皿へ煙草を押し付ける。


「何か食うだろ?」

「は?……は……っ!!!」

この状況下でいまだ動揺覚めやらぬささめは何を言われているのか理解できず、挙句の果てにはベッドからずり落ちそうになっていた。常盤が離れた後も惰性でずるずるとベッドの上を後退していたのだ。

どうにかこうにかベッドからの落下は免れたささめはがばっと身を起こす。
呆れたような常盤と目が合った。

ふと気づけばささめがベッドの上で独り暴れている間に、常盤はいつの間にか受話器を手にしている。どうやらルームサービスを取ってくれるつもりらしい。

ささめは無意識のうちにぶんぶんと頭を上下に振り、常盤の質問に対して承諾の意を表明することとなっていた。

しかしそこでささめが突如はっとする。

よもや常盤はこの姿で朝食を…、つまりパンツ一枚で朝食を摂るつもりだろうか、と。
それはささめがその姿の常盤と朝食を摂るという状況とイコールなのだ。

そんな事態にだけは絶対に陥りたくない。

「ですが、常盤さん…っ!あのですね、実は朝食の前に一つ、私に提案が…っ!」

これまでは出来るだけ目を逸らして常盤の背中以外を直視しないようにしていたささめだったが、話しかけるときにそれは失礼だろうとしっかり常盤を視界に納めながら声を張った。

多少声に必死さが混じりこむのはこの際止むを得ない。

常盤が受話器を持ったまま内線番号を押す手を止めて、片眉を上げながらささめを見ていた。

「参考までに聞いておこうか?」

常盤がにっこりと微笑む。その笑顔は侮りがたく油断できないもの。

それはささめにも分かっていた。
しかしそれでもささめは常盤にお願いせずにはいられなかった。

すなわち。

「………ずぼん……お願いだから穿いてくれませんか…。」

と。

ささめの必死な様子を見てか常盤がにっこり笑顔を引っ込め、かわりににやりとした笑みを浮かべた。その常盤の姿を見て、もしや確信犯ではないかという考えがささめの頭にちらりと浮かぶ。
しかし敢えて追求はせず、ズボンを穿く気になったらしい常盤の姿を再び極力視界に入れないようにしながらささめは胡乱な諦めの笑みを浮かべていた。

もう早く…できるだけ早くお暇しよう。

真っ白なベッドカバーを見つめつつ、固く決意する。
これ以上この場に…正確には常盤の傍にいることは得策ではない気がとてもしていた。

なんだか上手く丸め込まれている上に、昨夜からずっと常盤のペースに巻き込まれているのだ。ささめのこの決意は至極真っ当だろう。

しかしささめは―――まだ気づいていない。
既に自分がどっぷりと深みに嵌りかけていることに。

常盤は矢張り善意の人などではありえなかった。


***






「さて。じゃあ朝飯が来る前に本題に入ろうか?」

ささめが真正面に見る格好となっていたもうひとつのベッドがぎしりと軋んだ。

フロントへの電話を終えた後、手じかにあったスーツのズボンを身につけた常盤が腰を下ろし、足を組み…組んだ足の上に肘を着き、ささめの方へ向けて身を乗り出した為だ。

「……は?」

訳がわからずどんぐり眼になるささめの前には、口元に何とも性質のよろしくない笑みを浮かべた男がいる。

沸き起こる嫌な予感にささめが眉宇を顰めた。
本題が何をさしているのかはさっぱりだが、どうもささめにとってあまり良い話題とはいえないことはたしかだろう。


「これ、何だと思う?」

一体いつの間にどこから出したのか…常盤の長い指には、一枚の紙が挟まれていた。

ささめが眼を凝らす。
常盤がささめによく見えるようにとの配慮からか、ぺらりとその紙の向きをかえて見せた。

「…写真?」

ぽつりとささめが呟く。
常盤が更に手にしたその紙の角度を変える。

ささめが息を呑んだ。

「ん―――な―――っ、こ、これは…わ、私!?」

震える指で常盤の手にした写真を指差しながら裏返った声で叫ぶ。

写真に写っている者。それは確かにささめだった。
今現在いるベッドの上で無防備に眠っている。
梳かずに寝てしまった為、幾分乱れた黒髪が枕の上に散っていた。

そこまでは、問題なかった。勝手に睡眠中の姿をとられたという状況はまったくもって許されるものではないが、ひとまず他人が見て妙に思うことも無い程度のレベルだ。

しかし、それだけではなかった。

まず、その写真には眠っているささめの頬に触れている男の手が写りこんでいた。
おそらく常盤のものと思われるそれが、ささめの頬と唇に触れている。

しかも、寝る前にもそして当然の如く今現在もきっちりと着込んでいるシャツの胸元が…なぜか第四ボタンまで肌蹴られていた。ささめのつけていた白い下着がシャツの間からしっかり覗いている。

更によくよく目を凝らせば、なぜかささめの首筋には赤い斑点が一つ出来ていた。


「まあ、べたな手で悪いが・・・写真撮らせてもらったんだな、これが。」

「・・・・っ!?」

いまだ衝撃から立ち直れないささめが愕然と常盤を凝視する。
常盤はそ知らぬ顔で、手にした写真をひらひらと振っていた。

ささめがはっとして、急いで常盤の手にしているそれに手を伸ばす。

何が何でも取り返してやる。
しかしその意気込みも虚しく、ささめの指が空を切った。

常盤が獲物を追い詰めた捕獲者の余裕を感じさせる態度でささめの攻撃から身をかわしたのだ。


「あんたもな、幾ら安全そうとはいっても迂闊に男の部屋になんか入り込んじゃ駄目だぞ?」

したり顔で説教をしてくるも、ふふんと鼻で笑われてしまえば素直に聞き入れられるものではない。

「あ、貴方ねっ!!」

沸点に達する怒りのままにささめは震える拳をベッドにたたきつけた。

こんな写真が家族にでも見られた日にはひと悶着起こるであろう事は必至である。
まったくもって昨夜、自分が迂闊にとってしまった行動に腹が立って仕方が無かった。

「―――で?どうする、オレとの同居。」

さらりと尋ねられた。
なるほど、それが常盤の言うところの本題らしい。

つまりこの男、ささめとの同居を未だに諦めていなかったのだ。
常盤の意図に気づいたささめの顔が強張る。

何故こんな犯罪まがいのことをしてまで自分を同居人にしたいのか。
常盤の考えていることなどささめにはまったくわからない。

だが、今理由を問いただしてものらりくらりとはぐらかされる気がした。


「お―――脅す、つもりですか……っ!」


ささめが剣呑な目で常盤を睨みつける。
常盤がベッドから立ち上がり、ささめの真正面に立ちはだかった。


「まさか。だた世の中の厳しさってやつを教えてやってるんだよ。大人として。」


嫌みったらしくひらひらと手にした写真を振っている常盤に対して、軽い殺意を覚えたとしても恐らくささめを責めることは出来ないだろう。

何が、何が世の中の厳しさ!?
ギリギリと歯軋りしそうな勢いでささめが常盤を見上げる。

常盤は―――軽く顎を逸らしてささめを見下ろしていた。



世間の目と親の信頼とその他諸々の今までささめが堅実に歩んできた人生。
常盤との同居を承諾しなければそれらは全て壊されることになるのだろう。


しかし常盤と同居するということになれば、恐らく嘘をつかなくてはならない。
誰か女性と同居するということにしなければ到底家族に納得してはもらえないからだ。


二つの状況を天秤に掛け、ささめが激しく葛藤する。

小さく唸り声を漏らすささめを、常盤は特に急かすでもなくのんびりと見ていた。
どうやらささめが回答を出すまで待つつもりのようだった。


そしてしばらく後、考えに考え抜いたささめの唸り声が止んだ。
結論が出たのである。


―――どうせ一晩泊まった。こうなったら毒を食らわば皿まで。


半ば以上やけであった。幾ら考えても最善な道などどこにも無い見当たらない。


「―――・・・お願い、します…。」

ささめが搾り出した声に常盤がにやりと笑う。
この結論がささめから導きだされることが当然という態度である。

しかし写真を晒されたくなければ常盤の提案にのるしかない、それは実に単純明快な答え。
このままベッドの中へずぶずぶと沈み込んでいくほどの勢いでささめの気分は落下途中だった。

今更昨晩の行動を責めてみてもはじまらない。
わかってはいても今もし過去に一度だけ戻れるとしたら、間違いなくささめは昨夜家を飛び出た瞬間へと望む程度には後悔していた。


ああ、自分の馬鹿さ加減に嫌気がさす。
だけどモノは考え様。もしこの間の条件が有効だとしたら家賃は半分以下だし、常盤さんと私は殆ど生活リズムが違うみたいだし。
とりあえずお義兄さんの脅威からは解放されるし。

どうにかポジティブシンキングを心がけ、ささめがやや復活する。
気分を切り替えようと深呼吸を一つ。二つ。

ようやく落ち着いたささめに向って常盤がひらりと例の写真を翳してきた。

「この写真、ポラロイドだから。ネガ無し。焼き回したりしないから安心しろ。」

写真?…ああ、そういえば。

ベッドの上で相変わらず正座していたささめだったが、常盤の言葉に急に足を崩すと急いで部屋に備え付けられた鏡の前に向った。

常盤が何をしているんだというようにささめの後姿を見ている。

数秒間、ささめは首筋に手を当てながら角度を変えて何かを確認したようだった。

「あ、やっぱり…。」

小さな呟き。だが常盤は聞き逃さなかったらしい。
ささめの背後から、何が?との声が掛かった。

「ここ、虫に刺されてるんです。こういうところにも蚊とかでるんですね。ほら。」

ささめがぐいっとシャツの襟元を引っ張る。そこには写真にあった首もとの赤い斑点が覗いていた。

―――ささめは…それをすっかり虫刺されの跡だと思っていた。

常盤の片眉がぴくりと上がる。ついで、何故か盛大に笑い出した。
ささめが驚き、口を開けたまま呆然と常盤のその姿を見つめる。

「く、あはは…っ!そ、そうくるか…っ!……ああ、そうだな、虫刺されだよなぁ…っ。」

「え…ちょっとなんですか…っ!なんでそんなに笑ってるんですか…っ、ちょ…常盤さん!?」

怪しい雰囲気の払拭された常盤の純粋な笑い顔。
その衝撃からようやく立ち直ったささめが反撃した。しかし常盤の笑い声は止まない。

―――キスマーク。

そんなものが自分の体につけられていたとは、どうひっくり返してもささめの思考回路から導き出されることは無かった。



こうして西野ささめは大変不本意ながらも、常盤光成のルームメイトとなる事を承諾する嵌めになってしまったのである。



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